第30話
「君夜、もう一度冷静になって考えてみてよ。貴方が島を出て行くためにこんなことまでする必要がどこにあったの? それに、そんなに島を出るか悩んでいたなら私に相談してくれてもよかったんじゃない」
雪奈は境内に横たわっている人間一人一人に視線を彷徨わせた後、縋るような目つきで君夜に問いかけた。
しばしの沈黙の後、閉じられていた君夜の口が開く。
「そんなに簡単な問題じゃなかったのよ」
無表情だった君夜の顔に僅かながら翳りのようなものが垣間見えた。
そして雪奈は気がついた。そうだ、島を出ることは口に出すほど簡単ではない。
この鬼啼島は基本的には余所者の居住は認めない。しかし、その中でもやはり外から人間を呼ばないといけない事態もある。病院に勤務する医者もそうだし、国が派遣してくる市の職員などもそうであった。それにこの島は歴史的に価値がある遺跡などが多く発掘されるため、考古学者が交代制を取っているかのように何度も訪れてくる。
無論、住民たちは外部の人間たちを否応もなしに拒むことはなかった。
下手に島の出入りを制限した方が怪しまれ、インターネットの掲示板に怪しげな島として紹介された日には危険な考えを持った人間が多く訪れてしまう。
だが表向き人口が少ない離島として世間一般に紹介されている鬼啼島にも、純粋な島民にしか知り得ない裏の掟というものが存在している。
君夜は溜息を漏らしながら言った。
「雪奈さん、誰よりもこの島を愛している貴方なら分かるでしょう。この島を自分勝手に捨て去るということは即ち死を意味することを」
「それは……」
雪奈は口をごもらせた。自分は島を出て行くことなど考えたこともなかったので、今の今まですっかり失念していた。
一方、君夜は苦々しく唇を噛んだ。
「貴方が知らないはずはない。この鬼啼島には絶対的な掟が二つある。一つは〈鬼〉の存在を外部に漏らさないこと」
もちろん知っている。だからこそ島民たちは余所者に対して過敏に反応するのだ。
それは観光客が来島したときも同じだった。顔面の筋肉を操作して作る営業スマイルの下では、〈鬼〉の存在を知られまいと神経を研ぎ澄ませていることを。
「そして二つめは確固たる理由が存在しない限り、鬼啼島を離れてはいけないこと。もし離れる場合は絶対に外へ〈鬼〉の存在を漏らさず、尚且つ定期的な連絡を取り続ける上で必ず島に帰ってくること。例外は一切認められない」
これも知っている。特に二番目の掟は口にしなくても暗黙の了解になっていることだ。
曰く、鬼啼島で生まれた者は必ず鬼啼島に骨を埋めなくてはならない。
伝統や風習などという言葉では括れない、むしろ呪いと言い換えてもいい。だが不思議とこの島に生まれてきた人間は本能でそれを理解している。これは絶対に外の人間には理解できない感覚であろう。
「子供の頃からずっと考えていた。こんな〈鬼〉を還すという儀式を繰り返して何になるのかを。いつ訪れる分からない異界の〈鬼〉に怯え、島を離れようとすれば今度は身内の人間たちに命を狙われる。〈鬼〉、〈鬼〉、〈鬼〉、すべては〈鬼〉なんて化け物がこの島に出たことが不幸の始まりだったのです。だから私はすべてを破壊しようとした……そう、三十年に一度の周期で訪れる〈鬼溢れ〉の日に合わせて」
額から滴り落ちてくる冷たい汗を雪奈は拭うことができなかった。一体、今までの君夜はどこに行ってしまったのだろう。そんな言葉が雪奈の頭の中に木霊していた。
ただ君夜の言いたいことも何となく理解できる。
しかし――。
「君夜、今からでも考え直して。あんたはこの鬼啼島に〈結界柱〉を築いた偉大な呪術師の血を受け継いでいるのよ。いずれは九頭竜家の当主となって鬼啼島の象徴にならなければいけない人間。そんな人間が鬼啼島を否定するようなことをしては駄目」
雪奈は必死に君夜を説得した。
今の君夜の精神状態は明らかに異常である。だが、それは日頃からの重圧に一時的に耐えられなくなっただけではないのか?
それは子供の頃から常に側にいた雪奈だからこそからよく分かっていた。
君夜は九頭竜家の当主になるべく、幼少の頃から凄まじい英才教育を受けていた。
華道、茶道、日舞の他にも弓術や神道の中でも歴史が古いとされた復古神道を学び、それ自体に力が宿ると言われている言霊により「古事記」や「日本書紀」の原文を心で読み取るという訓練まで行っていた。これにより古の書物に文字とともに込められた念が身体に吸収され、読み取った術者の力が増幅されるとのことであった。
そして、子供の頃に君夜は一度だけ弱音を吐いたことがあった。
――すべてを捨てて鳥のように自由になりたい。
子供心に雪奈は無理もないと思ったほどだ。
それほど当時の君夜に対する秀柾の教育振りは度を越していた。が、それは誰よりも君夜を立派な九頭竜家の当主にするための秀柾の親心だったと思う。
伝統と格式がある九頭竜家の当主は重い責務を背負う立場にある。秀柾も心中では血の涙を流して君夜を教育したに違いない。
「君夜、お願いだから目を覚まして。そして自分の行った過ちを償ってほしい。大丈夫、おじ様も島の人間もきっとあんたのことを分かってくれる」
雪奈は真摯な眼差しを君夜に浴びせた。
十数年の付き合いは絶対に伊達ではない。自分が心の底から説得すれば、きっと君夜は納得してくれる。そう雪奈は確固たる自信があった。
「雪奈さん」
弱々しい言葉とともに君夜は構えていた梓弓を下ろした。両目をゆっくりと閉じ、顔をうつむかせた。
そんな君夜の態度を見て、雪奈は胸を撫で下ろした。
やはり君夜は自分の切実な願いを聞き入れてくれた。そして次に「私が悪かったわ」と君夜は己の過ちを認めてくれる。そう信じて雪奈は疑わなかった。
「ふふふ……ははは……あははははははははは!」
だが、雪奈の思いは君夜の口から発せられた高笑により粉々に粉砕された。
「まさか貴方がここまで馬鹿だったとは思いませんでしたよ!」
君夜は梓弓を君夜は再び上げると、雪奈の身体と一直線上に重なるように構えた。先ほどよりも禍々しい〈鬼〉の意識が梓弓全体に纏わりついていく。
「目を覚ます? ええ、とっくに覚めていますよ。この鬼啼島に施された〈鬼〉を還すというくだらない呪縛からとっくに目を覚ましています。だからこそ私は決意した!」
矢を番えていない状態で君夜は弦を引き絞った。きりきりと異様な音を鳴らして弓と弦の間隔が徐々に広げられていく。
本気だった。今度こそ君夜は本気で自分を射殺す気だ。
弦しか引き絞っていないにもかかわらず、雪奈にはまるで君夜が黒い矢を番えているように視えたのである。最大限に圧縮された〈鬼〉の意識であった。直撃すれば間違いなく肉体に風穴が開く。
雪奈はその場から動けなかった。十メートルほど手前にいた君夜から怒涛の如き殺意の風が吹き荒れてくる。体感的にそう感じただけなのだが、まるで本物の突風のように肌を撫でていく感触があった。
万事休すとはこのことであった。もはや君夜に説得は通じない。今の君夜の心と身体を支配しているのは、長年溜め込んできた己の願望を叶えることだけであった。
それが痛いほど雪奈には感じ取れた。
君夜の梓弓全体に纏わりついていた〈鬼〉の意識が、弓だけでは飽き足らず術者である君夜の身体にまで根を伸ばし始めたのである。
射殺される。その言葉が雪奈の脳裏にテロップのように流れた。死ぬ寸前になると見えるという走馬灯の一種なのだろうか。
篝火の中に焚かれている生木がバチバチと音を鳴らす中、君夜は引き絞っていた弦を指から離そうとした。たったそれだけの動作をするだけで雪奈の肉体には向こうの景色が見えるほどの穴が開き、十七年というあまりにも短い人生が終わるはずであった。
しかし、君夜は弦を離さなかった。
なぜなら――。
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