第31話
「お嬢、ご無事ですか!」
君夜の殺気が最高潮に達したとき、拝殿の方から竹彦が血相を変えて走ってきた。
猟銃を右手で無造作に握り、全身の至るところに手傷を負っている。中でも特に目立っていた傷は右頬に横に走っていた裂傷であった。首筋の下にまで血が滴っている。
それでも竹彦は君夜から約十メートル手前で立ち止まると、自分が負った傷など意に介せず猟銃の銃口を敵と見なした相手に差し向けた。
雪奈に向けて殺気を放っていた君夜にである。
「君夜さん、事情はすべて意識を取り戻した九十九君から聞き出しました。貴方が〈結界柱〉を破壊するように仕向けたことや、実父である秀柾氏の殺害を九十九君に命じたこともすべてです。だからお願いします。無駄な抵抗は止めて大人しくしてください」
竹彦の忠告を君夜はどこ吹く風とばかりに無視した。むしろ竹彦の言葉に動揺したのは雪奈の方である。
「今のはどういうこと? あんたが九十九に命令したのは〈結界柱〉の破壊だけじゃなかったの? 答えて……答えてよ、君夜!」
雪奈の慟哭に君夜は肩をすくめて吐息した。
「命令したというのは少し違います。私はお願いしたんですよ。できるのなら九頭竜秀柾を殺してほしい、と。何せ〈闇烏〉が収められている場所は本殿でしたし、〈鬼溢れ〉が始まる前に手に入れてしまえば真っ先に疑われるのは私でしたからね」
「だからって何も殺さなくてもよかったじゃない。おじ様はこの世でたった一人のあんたの肉親だったのよ? どうかしてるわ」
喉が枯れるほど大きな声で雪奈は叫んだ。その悲痛な叫びを聞いた君夜は、弦を引き絞ることを止めて極光が輝く天を仰ぐ。
「どうかしている……か。ふふふ、そうかもしれませんね。私の心は本当にあのときからどうかしてしまったのかも」
「あのとき?」
夜空を見上げていた君夜がふと悲しげな声で漏らした。
「そうですよ。貴方も覚えているでしょ? 私は幼少の頃からずっとお父様の命に従って生きてきた。九頭竜家の当主になるべく徹底された呪術教育を受けさせられ、密教、陰陽道、神道、中国の占星術まで一通り叩き込まれました。辛かった。本当に辛かった。お父様は手加減という言葉を知らない人でしたから余計にね」
君夜の悲痛な告白は続く。
「ですがね、どんなに辛くても私は歯を食いしばって耐えてきた。いくら厳しくてもお父様のことは好きでしたし、貴方が側にいてくれたお陰で随分と救われもした。雪奈さん、覚えていますか? 一度だけ私が弱音を吐いてしまったとき、貴方はずっと側にいて励ましてくれましたね」
君夜は見上げていた夜空から雪奈に視線を転じた。
覚えている。約十年も前のことだが昨日のことのように鮮明に覚えている。弓道場の隅で落ち込んでいた君夜の隣に座り、自分なりに励ましながら一晩中一緒にいたことを。
「あのとき私は自分に誓いました。どんなに辛くてもお父様の言いつけを守り、立派な九頭竜家の当主になろうと。そうすれば島の人たちや貴方はもちろん、お父様も私のことを認めてくれる……本気でそう思っていたのです」
直後、無表情だった君夜の顔が一変した。下唇を血が滲むほど噛み締め、目眉を鋭角に吊り上げて仁王の如き怒気を露にする。
「立派な九頭竜家の当主になる。でも、そう本気で思っていた私をお父様――いや、あの男は糸も簡単に踏み躙ったのです。信じられます? あの男は物心ついた頃から言い付けを守り、ただひたすらに修行に励んできた私よりも九頭竜家の当主は貴方にこそ相応しいとほざいたんですよ」
君夜の口から紡がれた告白は簡単に雪奈の全身を硬直させた。
「私も最初は悪い冗談だと思いました。そんなことがあるはずがない、と。でも冗談でも何でもなかった。私はこの耳でしかと聞いたのです。〈鬼溢れ〉が始まる一週間前、管理組合の主要な人間たちが拝殿で会合を開いていました。奇妙に思いましたよ。その日の〈鬼還し〉が終了し、参加した人間たちを解散させた後で開かれていた会合だったからです。そして私は悪いこととは思いつつも会合の内容を立ち聞きしました。どんな内容だったと思います。秘密裏に開かれていた会合では九頭竜家の次期当主は君夜ではなく御神雪奈に務めてもらうと話されていたのですよ」
君夜の唇から一筋の血が滴り落ちた。
「会合が終った後、すぐさま私はあの男に問い詰めました。どうして肉親の私ではなく他人の御神雪奈を九頭竜家の当主に据えるのか、と。だってそうでしょう? 何のためにあの男は私を幼少の頃から鍛えてきたのです? 私を九頭竜家に相応しい当主にするためでしょう? そう思うでしょう?」
雪奈は瞬き一つせずに君夜を見つめていた。すると君夜の目元からは顎先に向かって透明な涙が伝う。
「でも違った。あの男は激しい剣幕で尋ねた私に何と言ったと思います? 修行を積んで力を身につけた私よりも、修行を積んでいないのに強力な力に目覚めた貴方のほうが将来どんな逸材になるか楽しみだからですって。しかも私の力は貴方の力を補佐するのに最適だと言われ、これからは貴方のために存分に力を発揮しろとまで言われました。ははは、思わず笑ってしまいましたよ。あの男は実の娘の将来よりもこの鬼啼島の将来しか頭になかった。本当にそれしか頭になかったんですよ……それからですかね、私の心にぽっかりと大きな穴が開いてしまったのは」
笑っていた。君夜は泣きながら笑っていた。
もう雪奈には君夜にかける言葉が思いつかなかった。君夜の後方で猟銃を構えていた竹彦でさえ、君夜の告白を聞いて青ざめていた。小刻みに猟銃が震えている。
どうかしている。雪奈はその言葉を君夜にではなく秀柾に言いたかった。
秀柾が君夜に言い放った言葉は、心を狂わすには十分過ぎるほどの呪い言葉であった。
それもそのはず、君夜は実の父親から遠回しに要らないと言われたのだ。しかもその原因を作ったのが他でもない自分だという事実に、雪奈は思わず吐きそうなくらい気持ちが悪くなった。胃の中に何十匹の虫が徘徊する異様な気持ち悪さである。
「ああ、すべてを吐き出したら妙に頭がすっきりしました」
頬を伝う涙を一切拭うことはせず、君夜は力強い双眸で雪奈を見つめた。
心に溜まっていた鬱憤をすべて言葉に乗せて吐き出したせいか、今の君夜はとても穏やかな顔をしていた。
だからこそだろう。君夜は迷うことなく次の動作に移行した。
「後は貴方さえ消えてくれれば、私は本当の意味で生まれ変わる」と付け加えて。
君夜は弦を限界まで強く引き絞る。弓と弦との間隔が広がっていくにつれ、梓弓全体に纏わりついていた〈鬼〉の意識が極限まで収束していく。
いつしか君夜は矢を番えていた。
本物の矢ではなく、〈鬼〉の意識を練り固めた強力な黒矢を。
雪奈は逃げ出したい衝動を必死に押さえ込み、迷いなく自分を殺す決心をした君夜に人差し指を突きつけながら言った。
「君夜、あんたの気持ちは痛いほどよく分かった……でも、だからといってそれが人を殺していい理由には絶対にならない。なってはいけない」
次に雪奈は身体を右半身に構えた。両手をだらりと脱力させ、へその下にあると言われる丹田という場所に意識を深く落とす。
心身が覚醒していくと同時に雪奈は決心した。今の君夜を止められる人間は自分しかいない。そして、そのためには命を懸けるしかないと。
「お嬢っ!」
二人の少女の間に走る異様な雰囲気に気づいたのか、竹彦は今にも銃弾を君夜に向けて発射しようとした。殺すつもりは毛頭ないが、手足の一本くらい撃ち込まなければ今の君夜を止めることはできないと判断したのだろう。
だが、雪奈は許さなかった。
「竹彦、あんたは一切手出ししないで! これは私と君夜の問題よ!」
雪奈は引き金に指をかけようとした竹彦を一喝した。撃ったら絶対に許さない、という意志を鋭い視線に乗せて竹彦に突きつける。
「大事な人に別れの挨拶は済みましたか?」
竹彦から視線を戻すと、君夜の瞳からは純然たる殺意のみが感じられた。
雪奈はそんな殺意を真っ向から否定する。
「別れの挨拶なんて絶対にしない。私は……全身全霊を持ってあんたを止める!」
雪奈は豪快に石畳を蹴って疾駆した。上半身をやや前屈みに倒し、千鳥足と呼ばれるジグザクに動く足法を駆使して間合いを詰めていく。
本来、弓を使う相手を制するには高い技術が必要である。
まず互いの間合いを把握し、次に相手が矢を放った瞬間を狙い、最後に矢の軌道を正確に見極めて回避する。これは合気柔術の師である善弘からの教えであった。
それだけではない。覚悟を決めた雪奈には勝機を摑むための戦法があったのだ。
だが――。
「今の私にそんな姑息な手など通じませんよ!」
君夜は高らかに叫ぶや否や、構えていた梓弓を二メートル前方の地面に傾けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます