第4話

 旅館「神風」から二十分ほど歩くと、奥深い山並みの道が見えてくる。あまり整備されていない道だが獣道よりは格段にマシな小道であった。

 両脇には原生林が青々と茂っており、野鳥の鳴き声が四方八方から聞こえてくる。自然の大合唱とも呼べるほど心を打つ声であったものの、現地の人間にとってそれは当たり前のことだったので別に驚嘆することもない。

 雪奈たちもそうであった。

 九頭竜神社へ続く小道を歩きつつ二人は談話を楽しんでいた。その中で雪奈などは鳥たちに「うるさい」と怒鳴り散らし、それを見て君夜がくすりと笑う。

  それが雪奈たちにとって欠かせない日常なのである。

  だからこそ何とかしなければならない。雪奈は心の片隅でそう思いながら、君夜と一緒に目的地へ進んでいく。

  ほどしばらくすると、二人の目の前に石段が見えてきた。

  雪奈は子供の頃に数えたことがあるからその数を知っている。

  全部で百四十二段。子供の頃から登っているので別に気にならないが、以前に観光客を案内することになったとき、その客はあからさまに眉間に皺を寄せて別の観光場所を希望したのだ。それを雪奈は今でも何故だろうと不思議に思っている。

  やがて二人は綺麗に掃除された石段を躊躇なく登り始めた。

  雪奈などは着物の裾を持ち上げながら二段飛ばしで駆け上がっていき、君夜は君夜で雪奈の背中を見つめながら一歩ずつマイペースで登っていく。

  この鬼啼島の住人は個人差もあるが子供から老人まで体力が桁違いに強い。

  それは何も特別な運動をしているわけではなかった。日常の交通手段が歩きや走り、自転車が多いため嫌でも体力が養われることが理由の一つだったのだろう。

  ただ本土の人間よりも桁違いに体力が豊富な最たる理由は、もう今では薄くなってしまった先祖の血の力が関係しているに違いない。

  数分後、先に境内に着いた雪奈は近くにあった手水舎に一目散に向かった。手水舎の水を飲みながら君夜の到着を待とうとしたのだ。

  手酌で清涼な水を飲んで喉の渇きを潤すと、雪奈は境内をぐるりと一望した。

  手水舎の向かいには全面剥き出しの小さな弓道場があり、ここで年明けの奉射や奉納試合などが行われる。だが今は矢を傷めない程度に巻かれた巻藁の的が台に乗せられ、その的には何本もの矢が突き刺さっていた。

  おそらく君夜が朝稽古で射ったのであろう。的に射られた矢はすべて中心に突き刺さっており、その的の現状を見ただけで君夜の弓術の腕前が窺い知れる。

  雪奈は手に付着した水気を着ていた紺色の着物で拭ったとき、ちょうど君夜が石段を登り終えて境内に足を踏み入れた。君夜も喉が渇いたのか、手水舎に来ると雪奈とは違ってきちんと柄杓を使って喉の渇きを潤していく。

「待たせてごめんなさい」

 と口をハンカチで拭いた君夜が言うと、雪奈は笑って手を振った。

「いいのよ別に。それよりもおじ様が待ってるんでしょ?」

「ええ。今は本殿で待っていると思いますよ」

「じゃあ。行きましょうか。あまり待たせても悪いしね」

 雪奈と君夜は手水舎から離れて神社の奥へと進んでいった。

  六段ほどの少ない石段を上がり朱色の鳥居を潜り抜ける。その先には賽銭箱が置かれている拝殿が鎮座していた。

  拝殿とは厄払いや祈祷を行うための社殿であり、祭祀や拝礼などの行事もここで執り行われる。従って神社を訪れる人間はこの拝殿しか見たことがない人間が多い。中には拝殿を本殿と間違う人間もいるが本殿はその奥に存在するのだ。

  雪奈は賽銭箱の前で無意味に拍手を打った。ここに来ると何故か行ってしまう雪奈の癖である。無論、賽銭箱に僅かな金銭を投げ入れることも忘れない。

 そして神仏に祈りを捧げた雪奈は、君夜を先頭に目的地である本殿へと足を運んだ。

 九頭竜神社の本殿は意外と小さい。

  入母屋造りという建築方式で建てられていた本殿は、多くても十人ほどしか中には入れないこぢんまりとした造りであった。だが君夜が言うには全国の神社の本殿も拝殿より小さく造られているとのこと。それは元々神社には社殿がなく、神様は建物ではなく山や森などの自然にいると考えられていたせいだという。

  だから神を奉るという本殿は人間が入るよりも神様が入る場所として小さく建てられることになったらしいが、雪奈には〝神様〟という概念が今ひとつ理解できない。何せ今までの人生で一人たりともその神様を見たことがないからだ。

 二人は本殿の敷地内に足を踏み入れた。するとまず君夜が本殿に続く木段を上り、木扉の前で姿勢正しく正座する。

 次に君夜は扉を一、二度だけ弱く叩く。すぐに中から威厳を感じる声が返ってきた。

「入りなさい」とただ一言。

 君夜が雪奈に手招きすると、雪奈は緊張した面持ちで木段を上がった。

 扉の前に立った雪奈は髪型や着物に乱れがないか確認すると、「失礼します」と緊張感を含んだ敬語を発して扉を開けた。

 本殿の中には袴姿の男が正座をしていた。

  九頭竜秀柾。

  君夜の実父にして九頭竜神社の神主であり、とても五十を過ぎているとは思えないほど背筋は真っ直ぐ伸びていた。顔の肌には年輪を感じさせる皴も多く見受けられたが、彫りは深く髪は黒々として艶やかである。

  雪奈はこの秀柾が子供の頃から苦手であった。威圧するような眼差しを向けられるたびに背筋が凍りつくような錯覚に見舞われるからだ。

「さあ、こちらに来なさい」

 雪奈は秀柾に深々と頭を下げながら本殿の奥へと進んだ。

  だが君夜は本殿の外で正座をして動こうとしない。これは前もって君夜から聞いていたことである。何でも秀柾は雪奈一人だけに話しがあるという。

 雪奈は秀柾の手前二メートルほどで立ち止まった。

「座って楽にしなさい」

「は、はい」

 秀柾に促されるまま雪奈は裾を整えて正座する。

「雪奈、驚かずに聞きなさい。昨日、私はご神託のお告げを聴いた。決行は明日。日時は日付が変わる午前零時だ」

 冷静かつ率直に話した秀柾の言葉に雪奈は頷いた。

 ご神託のお告げが出たということは、遂に恐れていたことが起こるのだろう。三十年に一度の割合でこの鬼啼島に訪れる大厄災――〈鬼溢れ〉が。

 雪奈はそのことを含めて質問する。

「おじ様。私は今まで幾度となく〈鬼還し〉を経験してきましたが、今回の〈鬼溢れ〉では例の〈鬼〉が出現するのでしょうか?」

 秀柾は眉間に皺を寄せて両腕を組んだ。

「雪奈、幾度となく〈鬼還し〉を経験してきたお前ならば実感しているだろう。この鬼啼島は下界とは隔離された特殊な島だ。何が特殊かと言えば本土の史実では一切語られることのない〝現世に出現する鬼を異界へと還す〟ことに他ならない」

 ごくり、と雪奈は生唾を飲み込んだ。

 話は江戸時代の中期にまで遡る。

 この鬼啼島には江戸時代中期より魔物が出現し、慎ましく暮らしていた人々に多大な災いを振り撒き始めた。それは当時の人間からすると地獄絵図の光景であったという。

  そこで事態を重く見た当時の江戸幕府は、魔物を調伏するために全国から集めた異能の力を持つ人間たちを鬼啼島に送り込んだ。

  陰陽師、祈祷師、呪術師といった人外の魔物を調伏する人間たちをである。

  それだけではない。魔物の群れを討伐するように命じた際、どこからか鬼啼島の秘密を知った武芸者たちも〈鬼〉の討伐に加勢したという逸話が克明に残っている。

 そして〈鬼〉と命名された魔物をこの世とは違う異界に〝還す〟ことが、鬼啼島に住む者たちの宿命となったのは言うまでもない。

 それから数百年が経過した現在でも〈鬼還し〉の儀式は連綿と続いている。

 ごほん、と秀柾を軽く咳き込んで声の通りをよくした。

「そして江戸幕府崩壊後も脈々と続いた〈鬼還し〉だが、偉大な先人たちのお陰で〈鬼〉の出現は最小限に抑えられてきた。日付が変わる午前零時。この鬼啼島に点在する〈結界柱〉を通じて巨大な結界が自動的に張られるからだ」

 雪奈は午前零時になると夜空に出現する紫色の極光を思い浮かべた。

  初めて見たときは何て綺麗な光景なのだと胸を躍らせたものの、その極光が出現する本当の理由を聞いて肝を冷やしたことは今でも鮮明に覚えている。

 かつての先人たちが血を流して作り上げた自動結界装置――〈結界柱〉。

  島の主要六箇所に点在する〈結界柱〉と呼ばれる呪石が〈鬼〉の存在を確認すると、互いに呪力を交差させて強力な結界を島全体に張り巡らせるのだ。夜空に浮かぶ極光も結界が張られた際に視認できる副産物のようなものだった。

「また〈鬼還し〉で出現する〈鬼〉の数は限定されている。種類にもよるが最大で十匹。その中で比較的容易に討伐できる小型の〈鬼〉が四匹から八匹程度。討伐に特殊な力がいる中型の〈鬼〉は一匹から三匹。ここまではお前も理解しているな?」

 理解している。昨夜、君夜の加勢により討伐した〈鬼〉は、特殊な力が必要な中型に属する〈鬼〉であった。

 中型の〈鬼〉とは体型的に人間の何倍もある人語が通じない魔物のことだ。

  性格は獰猛で性質は野蛮。新鮮な人肉を求めて徘徊する危険な存在であった。

  しかもこの中型の〈鬼〉には普通の銃火器や刃物が通じない。多少の足止め程度ならば効果はあるが、やはり異界へ還すためには特殊な力を持つ人間が必要になってくる。

  一方、中型の〈鬼〉とは別に小型と呼ばれる〈鬼〉も存在する。中型の〈鬼〉よりも危険はなく、体格的にも犬や猫くらいの大きさが大半であった。

  それに小型の〈鬼〉は中型の〈鬼〉とは違って人語が話せるのが特徴であった。上手く本人たちと接触すれば、交渉次第で自ら異界へと還ってくれる〈鬼〉もいるのだ。

 ここまでは雪奈も知っている。十五歳の頃から〈鬼還し〉に参加し、身を危険に晒しながら〈鬼〉を還してきたのだ。

  だが、これから訪れる〈鬼溢れ〉はまったく予想がつかない。

  一拍の間を空けた後、秀柾を一言一言に感情を込めて言葉を発し始めた。

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