第3話

 一夜明けると、その日は曇り空がない晴天であった。

 夏の到来を予感させるくらい日差しが強かったが、今はまだ六月の中旬。だが、じめじめとした梅雨の面影はない。この島には本土と違って梅雨の期間が曖昧なのである。

 穏やかな風に乗って、天空を優雅に飛翔する渡り鳥の姿が見えた。

 午前九時二十二分。

 木造建築式の旅館「神風」の玄関口には数人の人間たちの姿があった。

 どうやら旅館に宿泊していた観光客だろう。全員が二十代後半である観光客の足元には私物や土産物が詰まれた旅行鞄が置かれている。

 一方、そんな観光客たちの目の前には紺色の着物を纏った女性がいた。

 年配の女将ではない。十代と思しき快活な笑みを浮かべている少女だ。

「当旅館「神風」をご利用頂き、まことにありがとうございました。また、どうぞお越しくださいませ」

  観光客たちに丁寧な口調でお辞儀をしたのは雪奈であった。また雪奈の隣には半纏姿の竹彦の姿も見られた。どうやら二人は宿泊客の見送りをしているようだ。

  柔らかい口調で雪奈が頭を下げると、宿泊客だった男たちも慌てて頭を下げた。年若い雪奈の落ち着き振りに男たちは圧倒されたのだろう。 

  その直後であった。一台のマイクロバスが緩やかなスロープを上がって旅館「神風」の玄関口に到着した。先ほど連絡した観光協会所属のマイクロバスだ。

「あ、そうだ」

 到着したバスに一人また一人と乗り込んでいったとき、ふと最後の一人であった男が何かを思い出したように振り返った。雪奈と竹彦の顔を交互に見る。

「変なことを訊くようですけど、昨夜この旅館の周囲で何かありましたか? 何か鳥の鳴き声や獣の雄叫びみたいな声が頻繁に聞こえたんですが」

  雪奈は表情を崩さずに小さく頭を振った。

「いいえ、特に何もありませんでしたよ。ご存知のとおり、この島にあるのは豊かな自然と喧騒とは無縁な平和だけでございます。それに昨夜と申されましたが、私の記憶が正しければお客様はお酒をたんとお召し上がりになっていたかと存じます。それで何かの音と聞き間違いをされたのではありませんか?」

「そうですかね……深夜の零時頃から聞こえてきたんですけど。テレビか何かの音と聞き違えたんでしょうか?」

「きっとそうですわ。古来よりお酒は百薬の長と申しますが、嗜まれる分量を間違えますと記憶の混乱や昏睡状態に陥ってしまいます。お客様もくれぐれもご自愛下さいませ」

 男は雪奈の説明にもまだ納得していなかったものの、それでも雪奈は男を早々にマイクロバスに乗せた。そして旅館「神風」の仲居として懇切丁寧に振舞いつつ、フェリー乗り場行きのマイクロバスを平身低頭して見送った。

 やがて三人の観光客を乗せたマイクロバスが視界から完全に消えた頃、頭を上げた雪奈は額に薄っすらと浮かんでいた汗を手の甲で拭った。

「ふうー、ちょっと危なかったわね。思わず台詞を噛んじゃうところだったわ」

 全身を弛緩させた雪奈に竹彦がそっと顔を近づける。

「お嬢、大丈夫でしょうか? もしも本土で変な噂を立てられでもしたら……」

「いいえ、大丈夫よ。どうせ本土に帰ったらもう思い出さないわ。それにしてもたまにいるのよね。霊感というか第六感というか、結界の外にいても無意識のうちに何となく気づいちゃう人が」

 そう言うと雪奈は両手を真上に伸ばして大きな欠伸をした。

  無理もない。昨日の〈鬼還し〉が終了したときには午前二時を過ぎていた。それから旅館に帰って睡眠を取ったのだが、戦闘の興奮と緊張が残っていたのだろう結局は数時間しか寝られなかった。

「お嬢、何でしたら少し仮眠を取ったらどうですか? 番頭の源五郎さんには自分から言っておきますから」

「そうしたいのは山々なんだけどね、実はこれから用事があるのよ」

 と、雪奈が団子状に結っていた髪を解いたときだった。

「お早うございます、雪奈さん」という声が遠くから聞こえてきた。

 雪奈はソプラノな声が聞こえてきた方向に目を馳せると、一人の少女が緩やかなスロープを上がってこちらに歩いてくる姿が見えた。

  背筋が綺麗に伸びた黒髪の少女であった。

  背丈は百五十八センチの雪奈よりも二、三センチは低く、背中まで伸ばした長髪は黒曜石のように黒々と映えている。また同性さえも魅了するほどの柔和な笑顔は、思わず抱きついて頬ずりしてしまうほど可愛い。

  しかし、少女が周囲から目を引く理由は端正な顔立ちだけが理由ではなかった。

  清潔感が漂う白衣と緋色袴が朝の日差しを受けて神々しく映え、足には白足袋に草履という巫女装束姿がまた何とも言えない魅力を醸し出している。

  九頭竜君夜。

  雪奈と十年来の付き合いがある唯一無二の親友であった。

  しかも君夜は『鬼啼富士』と呼ばれる山間部に居を構える九頭竜神社の娘であり、年明けに境内で行われる奉射では華麗な弓術の技を披露するほどの腕前だ。

  だが君夜の弓術は単に礼式に留まらず、実戦でも遅れを取らない技量の持ち主だと頗る評判であった。

  現に君夜は昨夜において卓越した弓術を駆使して雪奈を救った。異界から現世に出現した犬鬼に対して、〝気〟を込めた矢を放った人物こそ君夜本人だったのだから。

「お早う、君夜。今日は本当に助かったわ」

 草履特有の足音を立てながら歩いてきた君夜に、雪奈は満面の笑みを見せた。君夜も同様に無垢な笑顔を返してくる。

「いいんですよ雪奈さん。親友を助けるのは当たり前です。気にしないでください」

 雪奈と君夜は物心ついたときから一緒の写真に写っていたほどの仲で、十七歳となった今でも色あせることなく交流を深めている。腐れ縁といえば聞こえは悪く、親友というとやや照れ臭い。それでも雪奈にとって君夜はなくてはならない存在なのは違いなかった。

 この島には雪奈と同年代の人間が少なく、それ以上にこの島は圧倒的に本土よりも人口が少ないのである。

  鬼啼島。

  本土とは隔離されている孤島であり、全人口は五千人以下という少なさだ。また江戸時代には流刑場所として多くの罪人が流されたという歴史も持っている。

  しかし、それはあくまでも本土に伝わっている表の話に他ならない。この鬼啼島には事実とは微妙に異なる裏の話が存在しているのだ。

「それで雪奈さん。お仕事のほうは大丈夫ですか? 忙しいならばお父様にお願いして日を改めてもらいますが」

「ううん、大丈夫よ。今すぐ行きましょう……竹彦」

 雪奈は君夜から視線を外すと、案山子のように佇んでいた竹彦に視線を移す。

「これから私は君夜と一緒に九頭竜神社に行くから、番頭の源五郎さんに事情を説明しておいてちょうだい。それと役場や商店街地区の人たちにも連絡して準備を怠らないように伝えて」

 竹彦は雪奈の命令口調にも嫌な顔一つしなかった。きちんと頭を下げて了解する。

「分かりました。お二人ともどうかお気をつけていってらっしゃいませ」

「うん。じゃあ後はよろしく」

 雪奈と君夜の二人は竹彦に見送られながら、九頭竜神社を目指して歩き出した。

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