第2話

「それで、対象の数と規模は?」

 二車線道路の中を走っていた少女は、自分の後ろにピタリとついてくる青年に振り向きながら話しかけた。

「中型クラス二匹に小型クラス四匹。うち中型クラス一匹、小型クラス二匹はすでに討伐して還したそうです」

 息を切らせることもなく青年が答えると、少女はその場に立ち止まった。

「どうしました? お嬢」

「お譲」と青年に言われた少女は、うなじの辺りで束ねていた黒髪が肩の前に来ていることを確認すると、その髪を颯爽と背中に流して振り返った。

 青年に視線を向けた少女は、つぶらな瞳とシャープな顎が印象的な少女である。

  年齢は十六、七歳ぐらい。先ほどから走り通しだったため頬は紅潮し、額には薄っすらと汗が浮かんでいる。そして着ていた服も動きやすいような無地のTシャツに太股の辺りで切られているカットジーンズ姿。まるで男性のようなラフな格好であった。

 名前を御神雪奈という。

「ということはまだ中型クラスがまだ一匹残っているのね。それで、こちらは誰か負傷した人はいたの?」

 青年は首を左右に振る。

「いえ、こちら側に被害はまだ出ていません。報告によると飛行タイプの中型は左衛門さんがすべて仕留めたそうです。ですが、残りの陸戦タイプの中型は山中に逃げ込んだまま逃走を続けています。結界が張ってありますから一般人に被害はでないと思うのですが」

 そう答えた青年――御神楽竹彦は苦々しい表情で茶色の髪を軽く掻いた。

 短髪だが前髪全体は真上に跳ねており、尖った顎をしている竹彦は幼さが残る甘い顔とは裏腹に眼光は鋭く輝いて見えた。

  それに竹彦は身長が百八十センチを越える長身のため、百六十センチに満たない雪奈と話すときは顔を下に向けなければならない。

 今もそうであった。親指を噛んで何やら思案している雪奈の顔を、竹彦は真上から見下ろしている。

「お嬢……」

 しばらくして竹彦が声をかけると、雪奈は視線を周囲に彷徨わせた。

 二人が立ち止まっている場所は海岸沿いに面したアスファルト道路の中であった。耳を澄まさなくても波打ち音が漆黒の海から風に乗って聞こえてくる。

 周囲を見渡した雪奈は、続いて顔を上げて夜空を仰いだ。

 夜空には紫色の極光が果てしなく広がっていた。出現してからまだ一時間しか経っていないものの、その色彩は時間が経つにつれ徐々に濃密になっている。

「竹彦、さっさと対象を見つけましょう。時間が経つほど被害者が出る確率が格段に上がるんだから」

「そうですね。では――」

 そのときである。

 周囲を見渡していた竹彦の視線がある一点で止まった。何かおかしな点を見つけたように目を細める。

「ちょっと、どうしたの?」

 と、雪奈は竹彦に尋ねたときだ。

「お嬢、後ろです!」

 竹彦が叫ぶなり、雪奈は瞬時に後方を振り向いた。

 二人がいた道路の近くには金網フェンスで囲まれている木々の群生があった。その先は森に通じる小道があるのだが、脅威はまさにそこから現れたのである。

 突如、森の中から黒い塊が飛び出してきた。

  それだけではない。その黒い塊は頑丈な金網フェンスを難なく突き破ると、そのまま道路に滑り落ちてきたのだ。

  咄嗟に雪奈と竹彦は身構えた。

 黒い塊はこの世の生物とは一線を画す異形そのものだった。

 形的には犬に最も似ているだろうか。ただ血走った眼光は背筋を凍らせるほど鋭く、大型のナイフを彷彿させる犬歯の間からはボタボタと大量の唾液が滴り落ちている。

  しかし、水牛より一回りも巨大な犬などこの世には存在しない。

  それは猛獣というよりも〝魔獣〟であった。

「お嬢、こいつです! 間違いありません!」

 竹彦が魔獣に人差し指を突きつけるや否や、魔獣は格好の獲物を発見したかのように唸り声を発した。それによく見ると魔獣の背中には無数の槍や鎌が突き刺さっていた。その傷口からは緑色をした不気味な液体が溢れ出ている。

「竹彦……そう言えばアンタ、銃はどうしたの」

 視線は魔獣に合わせながらも雪奈は竹彦に尋ねた。

「すいません。先ほど援護した商店街地区の人に渡してしまいました」

 雪奈は心中で舌打ちした。つまり竹彦の援護なしで眼前の魔獣を還さなければならないということか。

  雪奈は後ろにいる竹彦に「下がって」と指示すると、開いた両手を軽く前に突き出して右半身に構えた。

  さて、どうする。雪奈は魔獣と向き合いながら必死に考えた。

  正式には〈鬼〉と呼称される目の前の魔獣は、その姿から想像できるように獰猛で人語が通じる相手ではない。これがもし小型の〈鬼〉ならば人語が通じ、まだ話し合いの余地があったかもしれない。

  だが数メートル手前で低い唸り声を上げている魔獣は、人語がまったく通じない中型クラスの〈鬼〉であった。

  それも圧倒的な戦闘力を誇る陸戦タイプ。ならば必然的に戦闘は避けられない。

  雪奈はじりじりと魔獣――犬鬼との距離を縮めた。

  自分と犬鬼との距離は約六メートル。

  駄目だ、まだ遠い。この距離ではまだ〈合鬼〉が使えない。

  そう雪奈が判断した直後であった。

  犬鬼は大気を鳴動させるほどの咆哮を上げた。それは咆哮というよりも衝撃波に近く、道路に落ちていた木々の葉が一斉に舞い上がったほどだ。

  次の瞬間、犬鬼は強靭な脚力を駆使して間合いを詰めてきた。雪奈は身構えてはいたものの、犬鬼の咆哮を全身に受けて迂闊にも緊張を解かれてしまっていた。

  それでも雪奈は必死に己を鼓舞して犬鬼を迎え撃った。

  数秒後、一気に眼前に迫ってきた犬鬼は振り上げた前足を真横に薙ぎ払ってきた。まともに食らえば人間の五体など紙屑のように引き裂かれる。

  だからこそ雪奈は咄嗟に地面に伏した。相手とのタイミングを計り、間一髪で犬鬼の猛撃を回避したのだ。

  犬鬼の一撃を地面に転がることで回避した雪奈は、そのまま身を低くした状態で走り出した。犬鬼と一定の距離を取って体勢を整える

 不意に雪奈は右肘の付け根から走った痛みに顔を歪めた。今ほど地面を転げ回ったときに擦り剥いたのだろう。

 だが、痛みに気を取られている暇はない。その間にも犬鬼は眼光を一層鋭く輝かせ、舌なめずりをしているのだ。よほど雪奈の身体が美味そうなのだろう。

  冗談じゃない。食われてたまるか。雪奈は痛みと恐怖を何とか抑え込むと、再び右半身に構えて犬鬼を睥睨する。冷静に相手との距離を測り、呼吸を落ち着かせていく。

 すると犬鬼は雪奈の全身から陽炎のように立ち昇った〝気〟を察知したのか、今度は不用意に飛び込まず雪奈と一定の距離を保ち始めた。異形の勘で雪奈が隠し持っている切り札に気づいたのだろうか。

 本格的にまずい状況に陥りつつあった。

  雪奈の〈合鬼〉は一定の条件下でないと使用できない。それに今の状態だとその条件を満たすことも難しい。せめて、誰か相手の注意を引きつけてくれる人間がいれば……。

 そのとき、極度の緊張感に包まれていた道路に強風が吹き荒れた。

  黒色の海から訪れる強烈な南風である。道路の中に散らばっていた無数の木の葉があっという間に宙に舞い上がる。

 しかし、訪れたのは何も風だけではなかった。どこからか強風を物ともしない速度で一本の矢が飛んできたのである。

  その矢は誘導されたように犬鬼の胴体に突き刺さった。犬鬼は凄まじい雄叫びを上げながら首を左右に大きく振る。

  雪奈は矢が飛んできた方向をすかさず見た。

  道路の向こう側――カーブになっている場所に一人の少女が弓を構えていた。

「お嬢、今が絶好のチャンスです!」

 先ほどから無言を貫いていた竹彦の声に、雪奈はすぐに自分の役目を思い出した。

 そうだ。チャンスは今しかない。雪奈は犬鬼に向かって猛然と走り出す。五メートル、四メートル、三メートルと一気に距離が縮まる。

  一方、苦しみながらも戦意を持って近づいてくる雪奈の気配を察知した犬鬼は、ただではやられないと思ったのか渾身の力を込めて前足を薙ぎ払おうとした。

  だが雪奈は犬鬼の攻撃を読んでいた。それを承知の上で近づいたのである。

  そして雪奈は誰が見ても奇妙な行動を取った。

  犬鬼から二メートル手前で立ち止まった雪奈は、何もない空中を両手で摑むと、そのまま身体を反転させ投げたのである。いや、正確には投げる動作をしたのだ。

 もちろん、誰にも触れていない。目の前にいた犬鬼にもである。

 それでも傍観者であった竹彦は雪奈の奇異な行動を見て笑みを浮かべた。

  犬鬼は叫び声すら上げられなかった。

  何故なら気づいたときには自分の巨体が空中に浮き上がり、雪奈の真上を通り過ぎながら道路に頭から落下したからだ。

  アスファルトで舗装された道路の一角に何かが潰れる異様な音が鳴り響いた。

  雪奈は背負い投げをしたような格好のまま、目の前の現状に安堵の息を漏らした。

  犬鬼が落下した道路の一部は激しく穿たれ、コンクリートの破片と一緒に割れた犬鬼の頭が周囲に散乱していた。緑色の粘液が円状に飛び散り、腐敗した匂いが漂ってくる。

「お嬢、やりましたね」

 嬉々とした表情を浮かべた竹彦は、緊張と臨戦態勢を解いた雪奈に駆け寄ってきた。

 心配そうな表情で雪奈の肩を摑み、「大丈夫ですか?」と激しく揺さぶる。それがあまりにも力強く揺さぶるものだから、雪奈の首は前へ後ろへと振り子のように動く。

「あ~も~ウザイ!」

 竹彦の頭を拳骨で殴りつけた雪奈は、頭を押さえて痛がる竹彦を無視して犬鬼の方へと視線を転じた。戦っていたときとは違い、哀しい目で雪奈は犬鬼を見下ろす。

「迷わず還りなさい」

 雪奈の凛とした声が発せられると、道路に無残な屍を晒していた犬鬼に変化が起きた。

  その存在が幻だったように犬鬼の身体が徐々に土塊と化していく。そして犬鬼の大きさに固まった土の山は、吹き荒れる強風に乗って最後の一粒まで何処かへ消えていく。

  やがて道路に静寂が訪れたときだ。竹彦のポケットから携帯電話の電子音が鳴った。

「はい、竹彦です」

 すぐに竹彦は電話に出た。かけてきた相手と親しげに二、三会話する。

「お嬢、管理組合から連絡がきました。向こうも無事に還したそうです」

「そう」と雪奈は神妙な面持ちで頷き、前髪を整えながら夜空を見上げた。

 先ほどまで夜空を覆っていた紫色の極光が、今では影も形も確認できなかった。まるで最初から存在していなかったように無数の星空だけが視界に飛び込んでくる。

 雪奈は大きく背伸びをした。緊張感が抜けた途端、どっと疲れが襲ってきた。

「竹彦。すぐに誰かに連絡して車を出してもらって」

 竹彦は即答する。

「電話で前もって伝えておきました。あと数分もすれば来ると思いますよ」

 用意周到な竹彦に感心すると、雪奈は続いて道路の向こう側に視線を向けた。

 朱色の弓を携えた少女がこちらに向かって歩いてくる。

 雪奈は笑みを浮かべながら、絶好のタイミングで加勢してくれた少女に手を振った。

 時刻は午前一時十一分。

  本日の〈鬼還し〉が無事終了した瞬間だった。

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