第10話

 島域管理組合の人間は徹夜で〈鬼溢れ〉の対策に追われ、雪奈と君夜は六つの〈結界柱〉すべてに勾玉を嵌め込み結界の強化に努めた。

 そして長かった一日が終わり、再び長い一日が始まる。

 一夜が明けると、島中は朝から異様な緊張感に包まれていた。

  商店街を行き交う人間は皆無であり、本日に限っては港から漁に出る船は一隻もない。普段は観光のために運行しているバスも今日は特別休業で、島にある唯一の小、中、高と一括している学校も休校であった。

  しかし、無人と化した商店街と違って活気に溢れた場所が一つだけ存在した。

  旅館「神風」から徒歩二十分の場所にある、大東流合気柔術道場「陽真館」の中である。

「はあああああッ!」

 裂帛の気合とともに間合いを詰めた雪奈は、視界に捉えている善弘に向かって手刀突きを繰り出した。居合い抜きのように水平に繰り出された雪奈の手刀突きは、さながら抜き身の真剣のような鋭さがあった。それこそレンガですら粉砕できたかもしれない。

 だが善弘は両手をだらりと下げ、自然体のまま雪奈の攻撃を迎え撃った。

 こめかみの部分を狙ってきた雪奈の手刀突きを、善弘は一歩だけ前に出ると同時に右手で簡単に摑み取った。すかさず善弘は摑み取った雪奈の右手を後方に引っ張る。

 雪奈の体勢は一瞬で崩れた。善弘に右手を引き寄せられた刹那、大きく前屈みの状態にされてしまったのだ。

 その瞬間にはもう手遅れだった。雪奈は摑まれた右手をどうにか振り解こうという意識に囚われてしまい、善弘の次の行動を阻止できなかったのである。

 善弘は雪奈の右手を引っ張ると同時に身体を反転させると、空いていた左手も添えて両手で雪奈の右手を摑んだ。このときには雪奈も善弘に何をされるか明確に分かり、同時に何をしても抗うことができないとも悟った。

 気づいたときには雪奈の視界には天井が見えていた。続いて急激に身体が沈み、固い畳の上に背中から激突する。

 相手の勢いを利用して腕を極めながら投げる、片手捕り裏四方投げの技であった。

「それまで!」

 と声を発したのは道場の脇にいた竹彦である。そして雪奈と善弘が組み手を始めてから十四本目の終了の合図でもあった。

 道場の中央には雪奈の右手を摑みながら平然と佇んでいる善弘と、右手を善弘に摑まれたまま息を切らせて倒れている雪奈がいた。

「まだまだだな、雪奈。それに相変わらずお前は〝先読み〟が遅い。技をかけられてから対応策を考えるのでは実戦では命取りになるぞ」

 善弘は特に力を入れる様子もなく雪奈を立たせると、頭をポンと軽く叩いた。雪奈は背中を擦りながら善弘に向かって深々と一礼する。

「はい先生。本日も稽古をつけていただきありがとうございました」

 雪奈の一礼とともに今日の稽古は正式に終了した。本来ならばきちんとお互い座して黙想や道場訓を述べるのだが、今日はそれを省略して技だけの鍛錬に明け暮れた。すべては今日の深夜に起こる〈鬼溢れ〉のためである。

 雪奈は大きく息を吸い込み、肺一杯に新鮮な酸素を潤滑させた。

「陽真館」の道場はせいぜい大の大人が二十人ほどしか入れない手狭の道場である。だが門下生は雪奈を筆頭に子供ばかりなので、これくらいの広さで十分であった。

 開けていた窓から涼しげな風が入ってくると、雪奈は汗だくになった純白の上着の襟元を摑んで扇ぎ出した。下半身に穿いていた紺色の袴はそれほどでもなかったが、やはり二時間以上休憩なしで乱捕りをすると上着だけは汗まみれになってしまう。

 すると、道場の脇で稽古を見学していた竹彦が血相を変えて雪奈に近づいていく。

「お嬢、何ですかそのはしたない行動は! 嫁入り前の娘が人前で肌を露出するなんて許されないことですよ!」

 お前は何時の時代の人間だ。と雪奈は思わず突っ込んでしまうところだったが、この竹彦は昔からこういう性格と口調なのである。昔といっても今から四年前、竹彦が住み込みとして「神風」で働き出したときからなのだが。

  四年前――。

  近年稀に見る台風の強い日に、竹彦は働き口を捜してこの鬼啼島にやってきた。

  しかし、何件も足を棒にして訪ね歩いた就職先はすべて断られてしまった。

  当然である。これはよくあることだが、地域住民の連帯感が強い田舎や鬼啼島のように下界から隔離された場所の人間たちは余所者には敏感である。

  これが観光客ならばそうでもないが、あてもなくふらりと働き口を捜しにきた人間には風当たりが厳しい。

  それは地域住民に至極当然な反応だった。余所者は総じて独自に発展した離島独自の風習や掟を理解しようとしない人間が多いからである。

  特に鬼啼島では余所者に対する反応は顕著であった。それは全国を探しても絶対にない風習が未だに強く残されているからだ。

 日付の変わり目である午前零時。島を覆う結界とともに行われる〈鬼還し〉である。

 これは島の人間以外には絶対に知られてはいけない禁忌であった。

 それが今まで観光客を呼びながらも島外の人間に知られなかったのは、島中総出で行ってきた情報操作と巨大な結界が島の人間以外には見えなかったからである。

  もちろん観光客の中には結界の存在に気づく者も多少なりとは存在したが、それでも百人に一人いるかどうかの確率であった。それも完全に視えるとなると、よほどの力を持った人間で尚且つこの世には異形の魔物たちが存在すると自覚している人間に限られる。

  そんな人間は日本中探してもどれほどいるか分からない。

  それに万が一という場合もある。

  もし仮に力を持った人間が観光で島に訪れたのならば二、三日、多くても一週間程度の滞在ならばどうにか誤魔化せるのだが、これが観光ではなく居住となると話は違ってくる。徳川幕府が崩壊して百四十年余り、鬼啼島の人間たちは国の力を頼らずに人知れず〈鬼〉たちと死闘を繰り広げてきたのだ。

  今まで何かと物資の供給や情報の操作を黙認してくれた徳川幕府が崩壊し、新たに誕生した明治政府は鬼啼島の〈鬼還し〉を政策から切り捨てたときもそうだった。

  このとき、島の人間たちは一丸となって誓ったという。

  例え新政府に見捨てられたとしても、かけがえのない故郷と日本という国を〈鬼〉たちから護るために末代まで戦い抜いていこうと。

  その決意が余所者の到来を頑なに拒否し、島外から来る人間の居住を認めなかった。

 竹彦もその拒否された人間の一人である。行く先々で働き口を断られ、最後に辿り着いた場所が雪奈の実家である旅館「神風」であった。

 面接は雪奈の父親と番頭の源五郎が行った。形だけの面接をである。

 出自、学歴、職歴、そのどれもが好印象でも余所者に対する返事は否と決まっている。これは島中どこへ行っても同じであった。

 だがそれから四年、今では竹彦は旅館「神風」の住み込み使用人として働いている。

「お嬢、風邪を引いてしまいますよ。これで汗を拭いてください」

 竹彦は上着だけではなく顔中汗まみれだった雪奈に手拭いを手渡した。

「うん、ありがと」

 手拭いを受け取った雪奈は汗まみれだった顔を拭いていく。竹彦はその雪奈の姿を嬉しそうに見つめた。まるで年の離れた可愛い妹を見るような表情である。

 一通り汗を拭うと、雪奈は竹彦に手拭いを返した。そして神棚に一礼している善弘に向かっていく。

「先生。私たちはこれで失礼いたします」

 改めて雪奈が一礼すると、振り向いた善弘は顎を引いて首肯した。

「雪奈、深夜まではまだ時間がある。心身を休め、英気を養うことも忘れるな。休息も鍛錬のうちだぞ」

 皴が目立つ顔の中に笑みを浮かべ、善弘は雪奈の肩にそっと手を置いた。

  優しく置かれた善弘の手から、雪奈は力強い〝気〟が伝わってくる気がした。いや、それは善弘の雪奈に対する思いだったのかもしれない。

 ちょうどそのとき、道場内に電話の呼び出し音が鳴り響いた。電話の呼び出し音はどうやら事務室から聞こえてくる。

「島本さんかな」

 善弘は電話をかけてきた主に心当たりがあったのか、雪奈に「ちゃんと休んでおくんだぞ」と念を押して事務室の中に入っていった。

 善弘の姿が事務室に消えると、雪奈は着替えずに道場に一礼してから外に出た。

  茜色の空が異様に眩しく感じ、飄々と吹く風が紅潮していた肌を優しく冷やしていく。

「では帰りましょうか。お嬢」

 スポーツバックを肩にかけた竹彦が道場の扉を閉めた。もちろん、スポーツバックは雪奈の私物である。

「そうね。深夜まではまだ時間もあるし帰って御飯にしましょう」

 稽古着姿の雪奈を先頭に、二人は旅館「神風」に向かって歩き始めた。

 緩やかな坂道を二人は他愛もない談話で下っていく。すると坂道の一番下によく知っている人間の姿が見えてきた。電柱に背中を預けてこちらに顔を向けている。

「君夜じゃない」

 水色のワンピースを着ていた君夜は、巫女姿のときの凛とした雰囲気よりも全面的に可愛らしさが滲み出ている。雪奈は手を振って親友に声をかけようとしたが、君夜の影からぬっと姿を現した人間を見て眉根を細めた。

  九十九である。

「よう」

 君夜より先に九十九が話しかけてきた。報が――。

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