第33話

刀身が闇夜と同じ漆黒だった〈闇烏〉の刺突を避けることは困難だと思っていたが、肌にビリビリと突き刺さる殺意が込められていれば見なくても避けられる。

 実際、雪奈は両目を閉じていた。土煙が目に入ったからではない。

  これから行う秘策は視覚よりも精密な皮膚感覚が要求される。だからこそ、雪奈はあえて目で見ることを捨て、最大限に皮膚感覚を研ぎ澄ましたのだ。

 風を切り裂きながら鋭い切っ先が向かってくる。

  雪奈は直感した。狙いは額だ。

 右耳が異様な音を拾った。シュッ、という人体に刺されば致命傷は避けられない短刀が通過した音。何本か髪の毛が空中に散っていったが、人体にはまったく影響はない。

 紙一重で雪奈は〈闇烏〉の刺突を避けていた。同時に入り身という身体法を駆使し、君夜の右側面にすばやく回り込む。

 無論、それだけでは終わらなかった。

  雪奈は〈闇烏〉を握っていた君夜の右手を空いていた右手で素早く摑んだ。

 すかさず反転。君夜の右手を固定したまま雪奈は身体を流していく。

  その際、君夜は固定されていた右手を咄嗟に引き剥がそうとした。だが、すぐにそれは無理だと理解する。

 一つは君夜の右手が完全に極められていたからだ。雪奈は左脇をしっかりと締めながら君夜の手首と肘の関節を同時に極めていたのである。

 そして決定的なことは二つめであった。

  君夜も雪奈も石畳の上に正座していた。正確には二人とも正座に近い座り方をしていたのだが、それでも君夜は下半身の自由を奪われていたことには違いない。君夜も秀柾から弓術の他に軽い体術の手解きも受けていたが、座った状態で技を掛けたり解いたりする技法などは習ってはいなかった。

 ただし雪奈は違う。

  雪奈は師である善弘から大東流合気柔術の真骨頂とも呼べる技法――〈座り技〉を修練させられていたのだ。

  封建時代の武士たちが重要視した正座を鍛錬過程に取り入れ、それを技にまで昇華させた〈座り技〉こそ、土壇場であった今の状況を覆す雪奈の秘策に他ならなかった。

  次の瞬間、雪奈は摑んでいた君夜の右手を時計回りに振り回した。そして円運動を続けている間に君夜の〈闇烏〉を奪い取ると、すかさず脇固めの技に移行する。

  やがて境内を覆いつくしていた土煙が完全に晴れていく。

  すると君夜の身体が石畳の上に組み伏せられていた。右腕の手首と肘関節を完全に極められ、唯一の武器であった〈闇烏〉も雪奈により地面に落とされている。

「は、離しなさい!」

 君夜は必死に抵抗した。しかし雪奈に極められている右腕は微塵も動かない。

  腕力に物を言わせて極めているのではない。雪奈は巧く人体のツボを抑え、君夜の背中に肘の先を置いて動かないように固定していたのだ。ここまで完全に極まってしまえば、力自慢の大人でさえ脱出は不可能であった。

「離しなさい! 離してください!」

 最初のほうこそ君夜は必死に抗って見せたが、本心では絶対に現状は覆らないと確信していたのだろう。君夜も多少なりとも武術を嗜んだ女性である。そんな彼女がどれだけ今の雪奈が手加減しているのか痛いほどよく分かっていたに違いない。

 本来ならば腕を極められた時点で即折られていた。

  それだけではない。雪奈は君夜を脇固めの状態のまま押さえ込んでいたが、その後は何も攻撃を加えずに身体の自由だけを奪っていた。その気になれば無防備であった延髄に当身を食らわせ、とどめを刺すことも雪奈にはできたはずだ。

  だが、あえて雪奈はとどめを刺さなかったのである。

「それで情けをかけたつもりですか?」

 肉体の自由を完全に奪われたというのに、顔だけを雪奈に向けた君夜の瞳には濁った光が浮かんでいた。「折るならさっさと折れ」という悲痛なメッセージが炯炯とした瞳には込められているようであった。

 それでも雪奈は何も答えなかった。君夜の右腕を極めたまま一言も言葉を発しない。

「どうしたんです? 躊躇わずに折りなさい。私は島の人間たちを死に追いやった元凶なのですよ。さっさと折るなり当身を食らわせるなりして仇を討ちなさい」

 怒気を孕んだ声で君夜は高らかに叫ぶ。

  すでに君夜は覚悟を決めていた。おそらく、このような状況も計画の中に織り込み済みだったのだろう。計画が失敗した暁には生き恥を晒す気はない、と。

「そう……分かったわ」

 ようやく言葉を吐き出した雪奈は、自分の両手に力を加えた。

  テコの原理と人体の構造を熟知して掛ける関節技は、深奥に近づくにつれて力が不要になっていく。雪奈も想像を絶する鍛錬を積んできたが、それでも深奥の域には程遠い。ただ、ここまで完全に極まっていれば折るのは実に容易かった。

 それは技を掛けられていた君夜自身が誰よりも分かっていた。

  もし折られてしまえば二度と自分の右腕は使い物にならないだろう、と。

  これは技を掛けられた本人にしか分からない感覚であった。人間が持っている自己防衛本能が成せる感覚なのだろうか。

 君夜はそっと目を閉じた。数秒後、自分の身に起きる出来事を明確に予想する。

  本気になった雪奈の脇固めで自分の右腕は逆方向に曲がり、折れた骨が勢いよく皮膚を突き破る。尖った骨と切れた腱と一緒に鮮血が噴出し、想像を絶する激痛に襲われる。

  もちろん、その後の出来事も君夜の脳裏には浮かんでいた。

  事情を知った島の人間たちに捕まり、それ相応の報いを身体に受ける。

  が、それも覚悟の上であった。自分の願望のために島の人間を巻き込み、多数の死傷者まで出したのだ。日本の法律ではなく、この鬼啼島刑に服されるのは当然だ。

  死ぬことなど許されない拷問の日々が続き、死んでいった島民の無念を全身に刻み込まれるだろう。その果てにあるのは心身を破壊し尽くされた無残な肉の塊のみ。

「ふふふ」

 君夜は悲しそうに笑った。笑わずにはいられなかった。

  自分に計画を立案させるキッカケを作った人間が心を通わせていた親友であり、その計画を食い止めた人間も同じ親友だったのである。

  これも運命だったのか。そんなことを思いながら、君夜は右腕に激痛が押し寄せてくる瞬間を待ちわびていた。

「……馬鹿」

 ほどしばらくして、雪奈の口から小さな声が漏れた。

 直後、君夜の身体がうつ伏せの状態から仰向けの状態に変化した。

 君夜は何が起こったのか理解できなかった。腕を折られると覚悟を決めた瞬間、至近距離にあった石畳の地面が雪奈の顔に変貌したのである。

 雪奈は君夜の腹の上に馬乗りになっていた。雪奈は君夜の腕を折る気など最初からなかった。思っていたのはもっと別のことだ。

 真下から雪奈の顔を覗き込んだ君夜の瞳には、雪奈が鬼のような形相をしながら右手を振りかぶった姿が映っていた。瞬間、振りかぶった雪奈の右手が残像を残して消えた。

 パンッ! と盛大に乾いた音が響いた。銃声ではない。雪奈が平手で君夜の右頬を叩いたのである。

「この馬鹿!」

 叫びながら雪奈は二発めの平手を打ち込んだ。一発目よりも大きな音が鳴る。

「やめて」

 君夜は顔面を手で隠そうとしたが、雪奈はそれを許さなかった。すぐに君夜の手を退けて平手を容赦なく打ち込む。何発も何発も何発も打ち込み続けた。

「やめて! お願い、もうやめて!」

 平手打ちを連続的に打ち込まれ続けた君夜は、目元に涙を溜めながら哀願した。先ほどまでは白雪のように白かった君夜の肌が今では真っ赤に腫れ上がっている。

  それほど雪奈の平手打ちは強烈であった。

  技でも何でもないただの平手打ち。しかし、その平手打ちには雪奈の君夜に対する感情のすべてが込められていた。痛くないはずがない。

 雪奈は身体を震わせている君夜を見下ろした。痛いのは分かっている。それだけの威力を込めて打ったのだから痛いに決まっている。だが、痛いのは君夜だけではなかった。

「君夜……」

 雪奈は自分の顔を押さえている君夜の両手を摑んで一気に引き剥がす。その下には顔を真っ赤に腫らせ、涙を流している親友がいた。誰よりもよく知っている親友の顔が。

「あんたは」

 雪奈は君夜の顔に向かってそっと両手を伸ばした。君夜の表情が極度に強張る。また平手打ちをされるのかと怯えていた。

 しかし違った。伸ばされた雪奈の両手は君夜の両頬を通り過ぎ後頭部へと回された。

「あんたは本当の大馬鹿よ!」

 君夜の後頭部へと両手を回すと、雪奈は君夜の頭を抱えこむようにして自分の胸に引き寄せた。優しく、そして力強く雪奈は君夜を抱きしめる。

「やめて……私は貴方に同情なんてしてほしくない」

 そう呟きながら軽く顔を上げたとき、君夜は自分の鼻先に何か熱い水滴が零れ落ちてきたことに気づいた

 泣いていた。声には出さずとも雪奈は大粒の涙を流していた。その涙が頬から落ちて君夜の鼻先に零れ落ちていたのである。

 その瞬間、君夜の身体から泡のように力が抜けていった。そして抜けていったのは何も力だけではなかった。雪奈に抱きしめられていると、心に固まっていた憎しみの塊が全身の至る場所から体外に放出されていく。

 気がつけば君夜も両腕を雪奈の背中に回して抱き締めていた。自分の顔を雪奈の胸に埋まるほど強く押しつける。

 雪奈は拒まなかった。声を押し殺して泣いている君夜を抱き締め返すと、ふと顔を上げて夜空を仰いだ。

 先ほどまでは島全体を覆い尽くす紫色の極光が広がっていたはずなのに、現在では紫色の極光ではなく宝石のように散らばっていた満天の夜空が広がっているのみ。

 午前二時四十七分。

 三十年に一度の周期で訪れる大厄災――〈鬼溢れ〉は、多大な犠牲や紆余曲折を経てここ九頭竜神社の境内にて終了した。

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