第34話

  柔肌を穿つような豪雨が延々と降り注いでいた。まるで天上の底が抜けたかのように振り続く冷たい雨は、作物に潤いをもたらす恵みの雨ではない。

〈鬼溢れ〉が終了してからすでに一週間が経過していた。

 あれからまだ一度も〈鬼〉は出現していないが、住民たちはとても不安げな日々を送っていた。〈鬼〉がいつ出現するか恐怖しているのではない。今回の〈鬼溢れ〉では犠牲者の人数が予想以上に甚大だったからだ。

 そして本来ならば〈鬼溢れ〉が終了した翌日からは丸一週間かけて盛大に祭りが開かれるはずであったが、今回はお祭り騒ぎをする余裕などなかった。それ以上にやらなければならない儀式があったのである。

  商店街地区から港のほうに行く途中には川原がある。その川原には雨傘を片手に大勢の人間たちが集まっていた。〈鬼溢れ〉で犠牲になった人間の家族は泣きながら遺骨が入った箱舟を川に流し、その他の人間たちは両手の掌を合わせて黙祷を捧げる。

 本土ではお盆の際に死者の魂や供え物を灯篭に見立てた箱に入れて海や川に流す〈灯篭流し〉と呼ばれる儀式があるが、この鬼啼島にも似たような儀式は存在していた。

〈鬼流し〉と呼ばれる儀式である。

  死してなお死者の魂が異界の〈鬼〉に狙われないように、護符が貼られてある箱舟の中に遺骨を入れて海に続く川へと流すのである。これは別にお盆のときだけだとは決められていない。鬼啼島では人間が死ぬと季節や時期に関係なく行われる儀式なのだ。

  だが、川原に集まっていた人間たちの中には雪奈の姿は見当たらなかった。

  雪奈はある場所に向かうため黙々と石段を上がっていた。無地の半袖シャツに太股辺りで無造作に切り揃えたカットジーンズを穿き、今では珍しい竹と防水加工された油紙が張られていた和傘を差している。

  沈痛な面持ちで石段を上がり終えると、雪奈は九頭竜神社の境内へと辿り着いた。

  ふと立ち止まり、視線を地面に落とす。まだ一部分は抉れていたが、地面に広がっていた血は影も形もなかった。島域管理組合の人間が綺麗に掃除してくれたことと、和傘を容赦なく叩いている雨が綺麗に流してくれたのだろう。

 小さな溜息を漏らすと、雪奈は視線を正面に戻して再び歩き出した。朱色の鳥居を潜り抜け、賽銭箱が置かれている拝殿に近づいていく。

 雪奈は賽銭箱の前で立ち止まった。閉じた和傘を賽銭箱の横に立てかけると、履いていたスニーカーを脱いで拝殿の中へと入る。

 四十畳ほどの空間が雪奈を無言で出迎えた。

  明かりは一切点っていない。静寂が支配するだだっ広い空間。管理組合の人間たちが会合などでよく使う場所なのだが、おそらく今後は二度と使われることはないだろう。

 雪奈は明かりを点ける様子もなく歩を進めた。

  ミシミシと畳が小さく悲鳴を上げる。正面奥にあった木造の壁に辿り着くと、壁には一枚の大きな掛け軸が掛けられていた。

 何やら達筆で文字が書かれていたが、雪奈には読めないし読む必要もない。

  雪奈は掛け軸に手を伸ばした。自分の身長ほどもある掛け軸を壁から外し、そっと隣の畳の上に置く。

 目の前には何の変哲もない木目の壁が立ち塞がっていた。

「君夜……」

 呟きながら雪奈は壁にそっと右手を置くと、ゆっくりと力を加えていく。

 ギイイイイイ、と不安げな音を鳴らしながら木壁が動き出した。壁には回転ドアのような仕掛けが施されており、小柄な雪奈の身体を壁の向こう側へと誘う。

 隠し扉の先には光が届かない完全な闇が存在していた。下のほうから髪を揺らす程度の微風が吹き上がってくる。拝殿の真下へと続く地下道であった。

 雪奈はジーンズのポケットを弄り、小型の携帯型ペンライトを取り出した。底口を捻って細い光を放出させる。所々欠けた部分が目立つ石段が地下の奥深くへと続いていた。

 雪奈は躊躇わずに石段に足を踏み出した。ペタペタと素足独特の足音を響かせながら雪奈の身体は闇の奥へと消えていく。

 地下へと続く石段は数分で下り終えた。そこは鍾乳洞のような空間だった。空気が外よりも若干澄んでいて、天井の岩が氷柱のように形成されている。

 軽く深呼吸した雪奈は携帯型ペンライトを縦横無尽に動かして周囲の様子を窺った。

 あった。雪奈は石段を下り終えた場所から右斜めの方向にそれを発見した。

  座敷牢である。大人の太股ほどもある角ばった木で組まれ、見るからに堅牢に造られている座敷牢だ。

  雪奈は足元に散らばっていた小石に気をつけつつ座敷牢に近づいた。携帯型ペンライトの細い光を座敷牢の中へと差し向ける。

「元気だった?」

 座敷牢の中に向かって雪奈は声をかけた。携帯型ペンライトの細い光では全体の姿こそ見えなかったものの、一人の人間が律儀に正座をしていることは目視できた。

「その声は雪奈さん……あ、ごめんなさい。暗闇だと不便でしょう」

 声が返ってくるなり、座敷牢の中では何やらごそごそと手を動かす気配があった。そしてチッと何かが擦られる音が鳴ると、座敷牢の中にぼんやりと二つの光が点る。

 ゆらゆらと光が揺れていた。蝋燭の灯火である。漆黒から周囲を山吹色に照らした蝋燭の光により、座敷牢の中にいた人間の姿がはっきりと視認できた。

 君夜であった。二十畳ほどの座敷牢の中にいた君夜は、近くにあった木机の両端に置かれていた蝋燭に火を点したのだ。

「君夜……」

 白の襦袢を身に纏いながら律儀にも正座をしていた君夜は、やや頬が痩せていたが言葉を聞く限りでは元気そうな印象が窺えた。

  雪奈は視線を下方に落とし、君夜の足元に注目する。

  君夜の両足首には女の身では絶対に千切れない鎖が嵌められていた。

  動くたびにジャラジャラと音が鳴る銀色の鎖は座敷牢の端にまで伸びており、床に取り付けてあった鉄の輪に繋がれていた。

  続いて雪奈は君夜の足元から徐々に視線を上のほうへと彷徨わせていく。

  不意に雪奈の視線がピタリと止まった。思わず目を逸らしそうになった雪奈だったが、それではいけないと覚悟を決めて真摯に見据えた。

  格子の隙間から中を覗き込んでいた雪奈は、瞬き一つせずに君夜の顔を直視した。

  君夜の両目の部分には後頭部にかけて包帯が何十にも巻かれていた。それは〈鬼溢れ〉が終了した直後、島域管理組合の主要な人間たちにより執行された刑の痕であった。

 今回の〈鬼溢れ〉は犠牲者の数が多すぎた。その最終的な原因が君夜の画策の結果だと分かると、君夜には鬼啼島に伝わるそれ相応の刑が処されたのである。

 雪奈は分厚い格子に自分の額を押し当てた。両目を閉じて奥歯を噛み締める。

 九頭竜君夜に与えられた刑――自分の行った大罪を無理やりにでも意識させるために両目を焼き、尚且つこの座敷牢の中で残りの人生を過ごさなければならない。それは十代の少女に対してはあまりにも過酷な刑であった。

「同情をしに来たのならお断りですよ」

 雪奈は顔を上げた。目を開けて格子の隙間から君夜を覗き見る。

 見えないはずの君夜が雪奈に顔を向けていた。声が聞こえる方向から居場所を特定することは誰でもできる。が、今の君夜はとても視力を失っている風には見えなかった。戸惑う様子が微塵も感じられないのだ。

「私は同情しに来たんじゃない……ただ、あんたの顔を見に来ただけよ」

 本心であった。管理組合の人間からは絶対にこの場所へは近づくなと言われていたが、島の人間たちは今頃〈鬼流し〉の最中である。だからこそ、こうして人目を盗んで会いに来ることができた。

「同じことですよ。私にとっては貴方が顔を見せに来たこと自体が同情になるんです」

 低い、とても低い声であった。もし言葉にも熱というものがあるのなら、今の君夜の言葉は業火さえも一瞬で氷結させる冷たさが感じられた。

「それに、ここへ来るのは給仕の人間だけだと聞いています。いいんですか? 勝手に来たことが知れれば、いくら貴方でも大目玉を食らうだけでは済みませんよ」

 九頭竜神社の拝殿の地下に隠されていた閉鎖空間。その昔、島外へと無断で逃亡しようとした人間を閉じ込めておくことに使用していたらしいが、それを聞かされたのはつい昨日のことであった。

 雪奈は弱々しく呟いた。

「君夜、本当にあんたは後悔してないの? もしかしたら一生ここから出られないかもしれないのよ」

 ふふふ、と君夜は微笑を漏らした。

「かもしれないではありません。私は一生この場所から出られない。でも後悔はしていませんよ……覚悟だけはしていましたから」

 君夜は笑っていた。両目の視力を奪われ、身体の自由を奪われ、人生の自由さえも奪われたというのに、君夜は何も臆する様子もなく無邪気に笑っていた。

  正直、雪奈は座敷牢の中にいる人間が本当に君夜かどうか不安になった。

  何故、君夜は未だに自我を強く保っていられるのだろう。十代の人間が一生こんな地下に閉じ込められると分かれば発狂してもおかしくないと思うのだが。

  でも、と雪奈はすぐに小さく吐息した。

(そうなのね。そこまであんたは本気だった。多くの島民を犠牲にしてでも鬼啼島から出て行きたかった。自分を裏切った秀柾おじ様や私の元を離れるために)

  雪奈はそっと座敷牢から離れた。君夜の言う通り、この地下空間には食事を運ぶ給仕の人間以外立ち寄ってはいけない決まりであった。あまり長く留まっていると、いつ見回りの人間に発見されるか分からない。

「君夜、確かにあんたがした行為は簡単に許されることじゃない。でも、いつかここから出られるように私が島の皆を説得してみせるから」

 雪奈は名残惜しそうな表情のまま踵を返すと、唯一の出入り口である石段に向かって歩き出した。今日は顔を出すだけだと雪奈は決めていたのである。

「あ、一つ言い忘れていました」

 君夜の言葉を聞いて雪奈は立ち止まった。振り返り、君夜の顔に視線を向ける。

「親友としての最後の忠告です。雪奈さん、〈鬼〉に気をつけなさい。貴方も私も他の人間とは違い自分の身のうちに強大な〈鬼〉を飼っている。そしてその〈鬼〉は時として宿主に牙を剥き、眠っていた宿主の本性を露にする。ゆめゆめ忘れないことです。自分という名の〈鬼〉はいつでも貴方自身を狙っていることを……ふふふ」

 雪奈は何も言い返さなかった。君夜に背を向け、無言のまま石段に足を踏み出した。そのまま石段を一定の歩調で上がっていく。

 再び隠し扉を通り抜け、雪奈は掛け軸を掛け軸を直して元通りの状態にした。

「また来るから」

 掛け軸に手を当てて呟くと、雪奈は早めに拝殿から立ち去ろうとした。

 だが――。

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