第18話
それは竹彦が注視していた右側の森の奥から飛び出てきた。身体の一部に竹彦が撃った猟銃の銃創が目立ち、その傷口からは緑色の粘液がどくどくと流れ出ている。
馬の形をした中型タイプの〈鬼〉――馬鬼であった。
引き締まった体格に四本の逞しい足。後頭部から背中の最後尾まで針のように尖った鬣が目立ち、頭部が二つあることを除けば普通の馬の形をしている。
そして先ほどから聞こえていた音の正体は、この馬鬼が大地を駆け回っていた馬蹄の音であった。それにこの馬鬼は推定でも四百キロ近くもある巨馬だったため、大地を叩く馬蹄の衝撃が地震のように感じたのである。
馬鬼は合計四つの眼光で雪奈たちに狙いを定めると、猛り狂うほどの鳴き声を発しながら二つの首を左右に振った。
その仕草から激怒していることは明白であった。それは竹彦に機先を制され、体内に弾丸が食い込んでいるだけではなかっただろう。それとは別のことで激怒している。
そのとき、雪奈は滝壷にいた猿鬼たちの言葉を思い出した。
猿鬼たちは言っていた。中型の〈鬼〉は近くに閉じ込められている仲間を助けると。
おそらく閉じ込められている仲間というのは〈結界柱〉のことだろう。ということは秀柾の仮説は遠からずも当たっていたということか。
ならば余計に目の前の馬鬼を還さなければならない。
〈鬼〉たちが仲間を解放するということは、すなわち〈結界柱〉が破壊されることを意味している。それで〈結界柱〉にされた〈鬼〉たちが再び蘇るかは分からないが、現状がかなり深刻なものになるのは間違いない。
雪奈が思考している間、竹彦は素早く弾丸を再装填。その動きは実に手馴れており、ほんの数秒で次弾の再装填を完了させた。
すかさず竹彦は発砲。右の頭部を狙って発砲したのだが相手もただの馬ではない。
馬の形をした中型タイプの〈鬼〉なのだ。闘争本能、身体能力、戦闘能力がこちらの世界の獣とは一線を画すほどの差がある魔物。
現に竹彦が放った弾丸は見事に避けられていた。舌打ちしながら竹彦は弾丸を再装填させようとするが、すぐ目の前に馬鬼が迫ってくる。
「竹彦!」
本人も分かっていたのか竹彦は大きく横に跳んだ。
数秒後、馬鬼は竹彦が立っていた場所を疾風の如き速さで通過した。竹彦の回避行動が数秒遅れていたら直撃だっただろう。
馬鬼は地面を転がった竹彦から今度は雪奈に標的を定めた。
「来るなら来なさい!」
雪奈は馬鬼を迎え撃とうと身体を半身に構えた。正確に相手との距離を測り、自分の力が発揮される瞬間を見逃さないように意識を集中させる。
そのとき、後方から異様な音が聞こえた。ギリリと力強く弦が引き絞られる音が。
刹那――それは放たれた。
馬鬼が腹の底から空気を震わすほどの悲鳴を上げた。
それもそのはず、馬鬼の右の頭部に一本の矢が深々と突き刺さっていた。
その矢はあまりにも正確に右の眼球に突き刺さっており、下手をすると脳内にまで到達していたかもしれない。
だが馬鬼はそれでも還る気配はなかった。まだ致命傷に至っていない証である。
雪奈が振り返ると、君夜は矢筒から二本目の矢を取り出して番えていた。頭の高さにまで番えた状態の弓矢を上げ、徐々に弓矢を下ろしながら限界まで引き絞る。
君夜は渾身の〝気〟を込めながら第二波の準備に入っていた。
「お嬢、離れてください!」
遠くから竹彦の叫び声が聞こえた。雪奈は君夜から竹彦に視線を転じると、竹彦は片膝をつけながら猟銃を構えていた。すでに弾丸は装填済みのようである。
雪奈は竹彦の叫びで自分の立ち位置に気がついた。
すぐに雪奈は地面を蹴ってその場から離れた。その雪奈の行動が合図だったように、二人の男女の手持ちの武器は最大限に解放された。
まずは竹彦の猟銃が火を吹いた。
銃口から亜音速で発射された弾丸は馬鬼の胴体に命中した。全身に浸透する激痛にその場で馬鬼の足が止まる。
直後、止めとばかりに君夜は先端の鏃に護符が仕込まれている矢を引き放った。
風を切り裂きながら一直線に放たれた矢は、誘導されるように馬鬼の左側の頭部――眉間の位置に突き刺さった。
それだけではない。頭部に突き刺さったはずの矢の勢いは衰えず、そのまま貫通して後方の森の奥へと消えていったのである。
そして今度こそ馬鬼の力は尽き果てた。馬鬼は身体を震わせながら歩き出し、〈結界柱〉へと向かっていく。
それはまるで誘蛾灯に誘われる蛾のようにも見えた。求めるのは光ではなく仲間の解放だったのだろう。
やがて馬鬼は〈結界柱〉に辿り着いた時点で土塊と化した。〈結界柱〉の一部に〈鬼〉の成れの果てである土塊が降り注ぐ。
「お嬢、ご無事でしたか?」
慌てて竹彦が雪奈の元に駆け寄っていく。
「それはこっちの台詞よ。あんたこそ怪我はない? やけに激しく転倒してたけど」
竹彦の左肘には痛々しい擦り傷の痕があった。地面に転倒したときに小石か何かで傷ついたのだろう。
「こんな傷は怪我の内にも入りませんよ。何せ戦場では常に死が……い、いえ、何でもありません。こんな傷は唾でもつけておけば治るでしょう」
竹彦がにこりと笑って答えると、小首を傾げた雪奈の元に君夜が近づいてきた。その手には念のために新たな矢が番えられており、仕切りに周囲に目を配らせている。
「どうやらこの近くにいた中型タイプの〈鬼〉は今の一匹だけだったみたいですね。だったら今が絶好の機会かもしれません。雪奈さん」
「うん、分かってる」
雪奈は踵を返すと、目を閉じたまま〈結界柱〉へと歩を進める。一歩、二歩、三歩と、地面を足で噛み締めるように進んでいく。
〈結界柱〉まで歩み寄った雪奈は、滑らかな表面の部分に両手を軽く添えた。
突如、〈結界柱〉の周囲の空間が夜空に広がる極光と同じ紫色に染まり始めた。
それは雪奈が〈結界柱〉と同調していることを意味していた。
どのぐらい経っただろうか。ふと雪奈は閉じていた目を開けて呟く。
「貴方たちは還らなくていいのよ。ここに何時までも留まりなさい」
そのとき、どこからか澄んだ鈴の音が聞こえてきた。
リーン、リーン、と澄んだ音色が。
しかし、鈴の音は一分も継続しなかった。そして鈴の音が鳴り止むと同時に〈結界柱〉から放出されていた光も次第に消失していく。
〈鬼治め〉が成功するや否や、雪奈は〈結界柱〉から離れて吐息した。
「やり方はおじ様から聞いてたけど、やっぱり実践となると違うわね。意思を強く保ってないとあっという間に取り込まれるわ」
雪奈は目の前にそびえる〈結界柱〉を見上げた。その頂上には小さな象形文字が浮かんでおり、ぼんやりと紫色に光っている。結界の強化に成功した証であった。
「お見事です、お嬢」
「ええ、何て鮮やかな〈鬼治め〉なのでしょう」
惜しみない拍手をくれた二人に対して、雪奈は込み上げてくる嬉しさをぐっと堪えて激を飛ばした。
「さあ、次々と行くわよ。まだ〈鬼溢れ〉は始まったばかりなんだからね」
竹彦と君夜の間を通り過ぎた雪奈は、次なる〈結界柱〉を目指して歩き出していく。
だが、このときの雪奈は知る由もなかった。
午前零時三十四分。
島民たちと〈鬼〉たちとの戦闘が繰り広げられている中、ある場所ではそれ以上の危機が訪れようとしていたことに。
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