第19話

  闇が果てしなく広がっている山林の中を何かが移動している。

  その何かとは人影であった。必死に呼吸を殺し、鋭敏に感覚を研ぎ澄ませながら山林の中を移動していく。

  どのぐらい走っただろう。眼前には煌々と周囲を照らしている篝火が見え始めた。

  九頭竜神社の境内の様子である。

  手にはそれぞれ武器を持ち、仕切りに周囲を警戒している人間たち。中には猟銃を所持している人間の姿も見て取れた。

  チッ、と人影は小さく舌打ちをした。さすがにあの人数と武器を相手に真正面から行くのは得策ではない。それに身元が割れるの当然の如く避けたい。

  数十メートル手前の境内の様子を窺いながら、人影は自分が身を潜めていた山林の中を慎重に突き進んでいく。

  ほどしばらくすると、人影は山林の中から広場へと飛び出した。

 目線だけを動かして周囲を見渡す。そこは拝殿のすぐ隣の広場であった。僅かな芝生と砂利で覆われている。

 広場に姿を現した途端、人影は休憩もせずに目的地へと急いだ。

 数十秒後、人影は目的の場所へと辿り着いた。

  木造建築の小さな建物。入り口に柵が設けられていた本殿である。

  人影は柵を開けて本殿の敷地内に足を踏み入れた。木造製の階段を一歩ずつ噛み締めるように上がり、威厳が感じられる扉の前へと立つ。

  もう後戻りはできない。人影は意を決して扉を開け放った。

  中に広がるのは十人ほどしか入れない手狭な空間。明かりは四方の隅に置かれた燭台の中に立てられた蝋燭の灯火のみ。そのせいか実際よりも余計に狭く感じられた。

「誰であろうと本殿には立ち入るなと言っておいたはずだ」

 部屋の奥には袴姿の秀柾が正座をしていた。さらにその奥には木台の上に枠を組み立てた八脚台が置かれ、八脚台の中央には榊の枝に紙垂と木綿が取りつけられている。

  秀柾は進行中だった祈祷を中断し、顔だけを緩慢な所作で振り向かせた。

「理由を訊かせてもらおうか……九十九」

 本殿で結界の遠隔強化に努めていた秀柾の視界には、必死に呼吸を整えている武舎九十九の姿が映っていた。

  黒地のタンクトップの上から迷彩柄のシャツを重ね着し、穿いていたハーフズボンもシャツと同じ迷彩柄である。また金色に染めた髪や銀色だった左耳のリングピアスが蝋燭の炎により赤く映えて見えた。

「実はおじさんに話があるんだ」

 そう言って九十九は秀柾に近づこうとするが、すかさず秀柾が鋭い視線を浴びせて歩みを制止させる。

「お前、ここをどこだと思っている。この本殿は〈鬼詠み〉を行う神聖な場所だ。誰であろうと私の許可なく立ち入るのは許さん」

「そう邪険にせず俺の話を聞いてくれよ。これは大事なことなんだ」

「大事なこと? それは〈鬼溢れ〉についてか?」

 九十九は首を左右に振った。

「おじさん、落ち着いて聞いてくれ……君夜は死んだよ」

「何だと?」

 一瞬、秀柾は唖然とした。が、すぐに九十九が発した言葉の意味を理解する。

「どういうことだ! 詳しく教えろ、九十九」

 秀柾は血相を変えて立ち上がると、案山子のように佇む九十九に歩み寄った。そして九十九の胸倉を摑むなり、互いの息が届くほど身体を引き寄せる。

「さっき雪奈から連絡があったんだよ。中型タイプの〈鬼〉と戦闘中に死んだって」

「嘘を言うな。君夜が死んだなど私は信じない。あいつは雪奈とともに島の未来を守る大事な義務があるのだぞ」

 胸倉を摑んでいた手を離すと、秀柾は九十九の横を通り過ぎた。実際に娘の生存を確認しに行こうとしたのだろう。

 しかし、このとき秀柾は九十九に背中を無防備に晒すべきではなかった。いや、その前に九十九の右手が後ろ腰に隠れていたことを見逃すべきではなかった。

 扉に手をかけようとした瞬間、秀柾は背中の一部に鋭い痛みを感じたのだ。

「き、貴様……何を……何をする」

「うるせえ、黙りやがれ!」

  九十九の怒声が響く中、木造の床には大量の水滴が滴り落ちる。

  血であった。秀柾が着ていた純白の上着から滴り落ちる血は、時間が経つにつれて木造の床にむせ返るような匂いを放つ血溜まりを作っていく。

  やがて秀柾の身体は血溜まりの中に緩やかに没した。

「はあ……はあ……やっちまった」

 物言わぬ骸と化した秀柾を見下ろしながら、九十九は白い歯を覗かせた。そして腎臓の位置に深々と突き刺さっていたサバイバルナイフを引き抜いていく。

「早く……早く手に入れないと」

 大量の血が付着したサバイバルナイフを握り、九十九は幽鬼の如き足取りで八脚台へと向かった。

 だが目的は八脚台自体ではない。九十九は八脚台の横を通り過ぎると、一枚の掛け軸が垂れ下がっている壁の前へ立つ。その掛け軸には二匹の鬼が描かれていた。

 江戸時代初期の画家であった俵屋宗達が描いた風神雷神図と酷似していたが、よく見ると微妙に細部が異なっていることが分かる。二匹の鬼は両手に日本刀を携えているのだ。

「これか」

 九十九は乱暴に掛け軸を壁から取り外した。

  すると掛け軸で隠されていた壁には三十センチほどの穴が開けられており、その穴の中には埃を被った木箱が綺麗に収められていた。

 九十九はそっと木箱を取り出し、鼻息を荒げながら慎重に蓋を開ける。

  木箱の中に保管されていたのは一本の短刀であった。柄も鞘もすべて光沢を放つ黒で統一され、試しに抜いてみると刃自体も柄や鞘以上に光沢を放つ黒色であった。

〈闇烏〉という名の〈結界柱〉と同様の素材で鍛えられたという特殊な短刀だ。

「これがあれば……これを使えば」

 九十九は頬を吊り上げて笑うと、空になった木箱を再び壁の中に戻した。

  それだけではない。床に置いていた掛け軸も元通りに掛け直す。

  第一段階は成功だ。それにこうして無事に〈闇烏〉を入手した今、一刻も早く第二段階を成功させるべく動かなければならない。

 九十九は颯爽と振り返り、出入り口の扉に向かって歩き出した。途中、秀柾の死体が嫌でも目に入ったが九十九は悪びれた様子もなく死体を見下ろす。

「おじさん……全部あんたが悪いんだからな」

 秀柾の死体を跨ぎ、九十九は静かに扉を開けて屋外へと出た。そして木造製の階段を下りつつ携帯電話で時刻を確認する。

  午前一時二十七分。

  人知れず九頭竜秀柾を殺害した九十九は、九頭竜神社の家宝であった〈闇烏〉を握り締めながら深い闇の中へと消えていった。

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