第20話

「遅い! 一体どこまで見回ってきたの?」

 雪奈の怒声に竹彦は苦笑しながらこめかみを掻いた。

「すいません。途中で電話が掛かってきたせいで遅くなってしまいました」

「電話って誰から? 管理組合から何か緊急な用事でも入ったの?」

「緊急というわけではなく定時連絡です。今のところ死者は出ていませんが、さすがに負傷者の数は普段よりも多いとのことです」

 竹彦の報告を受けて、雪奈は下唇を噛み締めた。

 現在、雪奈と竹彦の二人は海沿いの歩道の中にいた。といっても近くには海水浴ができるような砂浜はない。その代わりに円筒型の建築物が堂々とそびえ立っており、その先端部分からは数キロ先の海からも視認できる一条の光が放たれていた。

  鬼啼島の象徴と呼ぶべき灯台であった。白く塗られたコンクリートで造られ、周囲を分厚い壁で覆われている。

「もう、こっちはずっと心配してたのよ。数分で戻ってくると息巻いておいて何分経っても戻ってこないんだもん。〈鬼〉に食われたのかと思ったわよ」

 頬を膨らませて雪奈は竹彦を睨みつけた。すると竹彦も心底悪いと思ったのか何度も頭を下げて許しを乞う。

「まあいいわ。こうして無事に帰ってきたことだしね。じゃあ君夜も戻ってきたら移動しましょう」

 そこでようやく竹彦は気がついた。

「そういえば君夜さんはどこいったんですか? まさか私を捜しに――ぐはっ!」

 突如、竹彦の身体が綺麗にくの字に折れた。雪奈の拳が竹彦の腹部に深々と突き刺さったからだ。位置的にはちょうど胃の辺りだろうか。

「馬鹿、少しは察しなさい。君夜があんたなんかを捜しにいくわけないでしょう」

 雪奈は頬を赤らめて明後日の方角に顔を逸らす。そんな雪奈の態度を見て竹彦はようやく事情が飲み込めた。

「ああ、そうですか。単なる生理現象ですね――うぐっ!」

 今度は拳ではなく蹴りが放たれた。それも踏み込み、腰の回転、体重移動が見事に合致した渾身の横蹴りだ。

  位置的にはまたしても胃の辺りだろうか。竹彦は腹部を押さえてもだえ苦しむ。逆に攻撃を加えた雪奈は、冷めた目で「もっと女性に気を使え」と吐き捨てた。

 それから一分も経たずに君夜が二人の元に戻ってきた。どうやら灯台を囲んでいた壁の向こう側にいたようである。

「ごめんなさい、遅くなってしまって」

「何言ってんの。遅くなったって三分も経ってないじゃない。こいつより全然マシよ」

 雪奈が人差し指を突きつけた先には、腹部を押さえたままの竹彦がいた。君夜は「どうしたんです?」と尋ねただ雪奈は平然と「躾け」と言い放つ。

 数分後、竹彦の回復を待った雪奈は次の〈結界柱〉までの距離と場所を確認する。

「竹彦、〈結界柱〉はこの近くにあるのね?」

「はい。次はいよいよ最後の〈結界柱〉ですから慎重に行きましょう。二人ともお疲れのようですしね」

「それはあんただって一緒でしょ。それにそろそろ弾も尽きかけているんじゃない?」

「ええ……実は」

 竹彦は隠していても仕方ないので正直に打ち明けた。竹彦が携えていた猟銃の残弾数は六発。決して多いとは言い切れない残弾数であった。

 三人はここまでの道中、合計八匹の中型タイプの〈鬼〉と遭遇した。もちろん遭遇した〈鬼〉たちはすべて還したものの、こちらもまったくの無傷とはいかなった。

 雪奈の腕には痛々しい包帯が目立ち、君夜も顔などに数箇所の切り傷があった。竹彦も負傷した肘の付け根や太股に包帯をきっちりと巻いていた。

 一方、三人の体力も限界に近づいていた。何せ移動の手段が歩きか走りなのである。車はこの非常時には危なくて使えないし、バイクなどでは山間部の奥には入れない。

 ただ、体力の消費を懸念している暇は微塵もなかった。

 このまま行けば、今回の〈鬼溢れ〉は乗り切れると三人は確信していたからだ。

 しかし、雪奈には一つだけ気になることがあった。これまで五つの〈結界柱〉の結界を強化してきたというのに、〈鬼〉の活動にあまり変化が見られなかったのだ。六つのうち五つも結界を強化させれば少しは〈鬼〉の動きも衰えると思っていたのに。

「どうしました、お嬢。どこか気分でも悪いのですか?」

 顔をうつむかせていた雪奈に竹彦が優しく声をかけた。

「え? ううん、何でもないわ。それよりも最後の〈結界柱〉の結界を強めたら一旦、九頭竜神社へ戻りましょう。おじ様に報告しないと」

 そう言って雪奈は竹彦に道案内を頼むと、これまでと同じ竹彦を先頭に周囲を警戒しながら三人は歩き出した。

 休憩していた灯台を離れ、三人はアスファルトで舗装された道路へと躍り出る。

  位置的には島の北西だろうか。この辺りは雪奈たちも滅多に訪れない場所であった。

  当然である。狭い島だからといって、すべての島民が島の隅々を知り尽くしているかといえばそれは必ずしも肯にはならない。逆に狭い島だからこそ自分たちが普段生活している一帯しか知らないということもあった。

  これは雪奈たちもにも当て嵌まる。

  旅館「神風」や商店街地区は島の南東の位置にあり、学校やその他の教育施設も南東辺りに密集していたため、雪奈たちはほとんど北の区域に近寄ったことがない。

  だが今は事情が違う。この道路の先には最後の〈結界柱〉が存在するのである。普段と違って何としてでも近寄る必要があった。

  人気も車もない道路の中を三人は縦一列で歩いていく。

「あれね」

 やがて三人の視線の先には小さな島が見えてきた。

  緩やかなカーブになっている道路からその小島までは赤い橋が掛けられ、入り口には頑丈な金属の扉が侵入者を遮っている……はずであった。

「雪奈さん。もしかして扉が開いていません?」

 最後尾にいた君夜ですら気づいたことを前方にいた二人が気づかないわけがない。

 君夜の言う通り、橋の入り口の扉が開いていた。それも誰かが鍵を開けて入ったわけではない。なぜなら、入り口の鍵はここにいる竹彦しか持っていないからだ。

「竹彦、あんた前もって鍵を開けておいたの?」

 竹彦は慌てて首を左右に振る。

「とんでもない。この鍵は今日初めて管理組合から借り受けたものです。それに普段は厳重に保管されていますし、前もっての持ち出しは不可能ですよ」

 雪奈も鍵を開けた人間が竹彦だとは思っていない。ただ念のため確認しただけである。

 だとしたら当然の如く疑問が残る。一体、誰が入り口の鍵を開けたのだろう。

 すると――。

「雪奈さん! 竹彦さん!」

 扉の近くまで歩を進めた君夜が入り口の鍵を見つめながら叫んだ。雪奈と竹彦も何事かと君夜の元に駆け寄る。

「この鍵の場所に光を当ててください」

 君夜の指示を受けて竹彦が動いた。持っていた懐中電灯で入り口の鍵を照らす。

「これって……」

 そのとき、雪奈は口元に手を当てて瞠目した。

 入り口の鍵が見事に壊されていたのだ。しかも歪に変形している。

「これは銃で撃った痕ですね。それもこの島にある猟銃の弾丸じゃない。44口径の拳銃で壊された痕ですよ」

「拳銃!」

 雪奈は思わず大声を上げた。

  この島には表向き狩猟用として認可されている猟銃などはあったが、拳銃となるとそうはいかない。そんなものは誰一人として所持していないはずだ。

「これはもしかして噂の外国人たちの仕業なのでは?」

 君夜の意見を聞いて雪奈は思い出した。

  九頭竜神社へ行く前に番頭の源五郎がそのようなことを言っていた。金髪の女性とチリチリ頭の黒人が島の至るところに出没していたと。

 島の人間も時期が時期だけに不安になり、片言の英語が喋れる人間を呼んできて話しかけてみると、その二人組みの外国人は流暢な日本語を話したという。

「でも仮にその外国人の仕業だとして目的は何? 拳銃まで使って鍵を壊したってこの先の小島には〈結界柱〉しかないのよ」

「お嬢の言う通りですね。その外国人が拳銃を所持していたとしても、こんなことをするメリットは何もありません」

 と竹彦が口にした瞬間であった。

 どこからか三人の鼓膜を刺激する甲高い音が聞こえてきた。

 紛れもない銃声である。しかも花火を鳴らしたような乾いた音ではない。もっと重苦しい空気をすり潰すような発砲音であった。

「お嬢、これは44口径マグナム弾の発砲音ですよ」

 竹彦はそれだけ言うと地面を蹴って勢いよく走り出した。銃声はまさに〈結界柱〉がそびえ立つ小島の方から聞こえてきたのだ。

 そして一目散に小島へと走っていく竹彦を雪奈と君夜は追っていく。

 五十メートルほどの長さの橋を渡ると、最初に雪奈と君夜の二人を出迎えたのは鬱蒼と生い茂る森林であった。そこから正面、右、左の三つに道が分かれており、正面を進んでいけば〈結界柱〉へと辿り着くと前もって管理組合から聞いていた。

「あれ?」

 橋を渡り終えた直後、雪奈と君夜は三つに分かれている道の前で立ち往生した。

 見事に竹彦の姿を見失ってしまった。橋を渡り終えたところまでは姿が見えていたが、橋を渡り終えた途端に姿が見えなくなってしまったのである。

 普通に考えれば正面の〈結界柱〉へと進むはずだが、竹彦は銃声を放った持ち主に固執していた。だとすると、どの道に進んだか分からない。

「ねえ、雪奈さん。ひとまず〈結界柱〉のところまで行ってみません。もしかすると竹彦さんもそこにいるかも」

 確かにここでずっと立ち往生しているよりも、まずは〈結界柱〉の結界を強化してから竹彦を探しても遅くはない。

 しばし思考した後、雪奈は大きく頷いた。

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