第8話
その日の夜は昼間とは違って波風が高かった。
鬼啼島の港に停泊しているクルーザーや漁船が波に揺られ、船体がギシギシと激しく軋んでいる。普段よりも波が高いこのような日は、波止場で夜釣りをする人間の姿もない。沖合ならば尚更である。海に出ているのは漁船くらいのものだった。
しかし、その中で一隻の船だけがエンジン音を響かせながら漆黒の海を進んでいた。
モーターボートである。
全長は十九フィート。小型で七人乗りタイプのモーターボートは、幾艘もの船が停泊している港を通り過ぎ、誰もいない浜辺にひっそりと近づいていく。
やがてモーターボートは浜辺の端に停泊した。
「Oh~、ここが
停泊した瞬間、モーターボートの中から一人の人間が意気揚々と飛び出てきた。
浜辺に着地した人間は黒人の男であった。
綺麗に巻かれたドレッドの髪型に色つきのサングラスをかけ、百九十センチ以上はある長身で細身の体型。小麦色をした褐色の肌は夜でも艶だって見えるが、それ以上に着ていた乳白色のスーツが闇夜の中でも一段と映えて見えた。
「Hey、ケリー。アンタも早く来いよ」
陽気そうな黒人の男はモーターボートに向かって手招きをする。
「そんなに急がせないで、ピンハート。貴方と違ってこっちはスカートなのよ」
そう言いながら颯爽とモーターボートから降りた人間は、腰まで伸びた流麗なプラチナブロンドが印象的な白人の女性であった。
切れ長の眉にほどよく高い鼻梁。その端正な顔立ちは思わずマネキン人形を彷彿させてしまうくらいに整っている。また糊の利いた黒のスーツドレスに穿いているスカートはスリットが大きく開いており、太すぎず細すぎない艶かしい脚線が露になっていた。
黒人の男に白人の女。どちらも年齢は二十代半ばか後半くらいだろう。幼い雰囲気は微塵も感じられない。言ってみれば一流の仕事人と一流の遊び人という感じである。
浜辺に降り立ったケリーは、風で揺れる前髪を押さえながら周囲の様子を一望した。
「誰もいないわね。民家も見えないし、本当にこの島に人間が住んでるのかしら」
別に皮肉を言ったわけではなく、ケリーは本当にそう思った。すると先に浜辺を歩いていたピンハートが高らかに笑い出す。
「HAHAHA! ちゃんとこの島にも人間様はいるさ。他の場所と違って極端に少ないだけだろう……それに」
唐突にピンハートは鼻の穴をリズムよく動かして拡大と縮小を繰り返した。
「う~ん、匂う、匂うぜ。この匂いは間違いねえ。〈フリークス〉の匂いだ」
ピンハートの言葉を聞くなり、ケリーの碧眼が異様な輝きを帯びた。注意深い眼差しで浜辺の中を睥睨する。
「だが、もうこの近くにはいねえな。いたのは間違いねえが、もう消えちまってる。残り香もひどく薄い」
ケリーは安堵の息を漏らすと、まだ鼻をひくつかせているピンハートに顔を向けた。
「教会の情報は正しかったということ?」
「多分ね」
ピンハートは頷いた。
ケリーとピンハートの二人は、一週間前にイタリアから日本へとやってきた。
来日した理由は観光ではない。歴とした仕事である。
イタリアの首都ローマ市の中にはローマ教皇が統治するキリスト教カトリックの総本山であるバチカン市国が存在する。警察ではないスイス人衛兵が国を守り、サンピエトロ大聖堂やシスティーナ礼拝堂などの歴史的文化遺産が豊富な世界最小の主権国家。
その中には全世界に十億人以上の信徒を保有するキリスト教の最大教派がある。旧約聖書およびイエス・キリストと使徒の教えを広く布教し、この日本にも多くの信徒を持っている教会――カトリック教会であった。
ピンハートとケリーはそんなカトリック教会の人間であり、今回来日した目的は世界的に見てもまだ信徒の数が少ないアジアへの布教のため……ではなかった。
「それでどうする? 教会に連絡するために一旦帰るか、それとも調査のためにしばらく居座るかは上司のアンタ次第だぜ。俺はただ従うだけさ」
ケリーはしばらく思案すると、白い歯を見せて笑っているピンハートを見た。
「さっきは消えたと言っていたけど、厳密にはまだ出る可能性があるのね?」
ケリーの厳しい視線を受けてピンハートは両手を広げた。
「バリバリ出るだろうね。消えたといっても何日も経っていない。出る可能性はかなり高いと思うね」
「じゃあ残るわ」
その言葉を耳にするなり、ピンハートは何故かその場で踊り始めた。腰を振ったり足を高く上げたりして喜びを身体全体で表現しているようにも見える。
さて、どうなることやら。ケリーは両腕を組んで島の様子を睥睨した。
ピンハートとケリーはカトリック教会の人間だが、その仕事は布教だけに留まらない。
バチカン市国にはイエス・キリストの使徒の後継者である司教という役職がある。厳密に言えばローマ教皇も司教の一人なのだが、使徒ペドロの権能を引き継いでいるとみなされ司教団の中でも特別な地位を認められていた。
そしてその司教の中にロイドと呼ばれる人間がいた。この男はローマ教皇から直々に密命を受け、秘密裏にある部隊を創り上げたのだ。
対〈フリークス〉殲滅部隊『タダイ』。
タダイとは新約聖書に現れるイエス・キリストの使徒の一人だ。
ユダともいうためにイエス・キリストを裏切った、イスカリオテのユダと混同されることが多かった聖人であった。
そのため「忘れられた聖人」とも呼ばれ、伝説によればタダイの遺骸は現在のサンピエトロ大聖堂の場所に埋葬されたという。
だからこそ部隊にはこの名前が付けられた。人々に忘れられていながらも、影からローマを守っていた守護聖人の名前がである。
ケリーはモーターボートに近づくと、船内から二つの荷物を取り出した。
アルミ製のアタッシュケースであった。ケリーはその一つをピンハートに無造作に放り投げる。
「ちょ、おいおい。丁重に扱ってくれよ。俺の相棒は繊細なんだ」
ピンハートはアタッシュケースを両腕でしっかりと受け取った。慌てて中を開けて自分の相棒が無事だったことを確認する。
その相棒とは――。
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