第6話
将平は、少し色気を感じた。大好きな酒を呑みながら、仕事ができるなんて。こんな幸せなことはないと。しかし、中学の時からずっと習いたいと思っていた空手と、やっと出会えたのに。空手を習う時間が、ちょうど居酒屋みどりの、書き入れ時間と、重なってしまう。
「お父さん、前にこの店に名物があったらいいのにって言ってたでしょ」
「おう」
「カレーはどう」
「えっ、居酒屋でカレーか」
「いいと思いませんか。呑んだ後に小皿にちょっと。当てではなくて、ラーメンやうどんの代わりに」
「秋山さん、ありがとう」
「えっ」
「いや、以前の正美やったら、そんなこと考えもせんかったと思う」
「それは、考え過ぎですよ」
「いや、父親やからわかるんや」
将平と好昭は、正美を見た。
正美は、常連客と話しをしている。
「秋山さん、何かええことあったんか」
「えっ」
「正美が、いつもと違うんや」
「あのー、実はプロポーズしたんです。正美さんに」
「プロポーズ?」
「はい」
好昭はニコッとして
「あっ、そうか。それは良かった」
将平は、慌ててコップを置き、直立不動になって
「お父さん、こんな席ですいませんが、正美さんを僕にください」
「そんなこと、始めから思ってたことや。だから最初に店、継いでくれと言ったやろ」
「そうなんですけど、僕がなかなか定職に就かなかったもので」
「だからこそ、この店継いでくれと言ったんや」
「それが。今の仕事、自分にいちばん合ってると思えるんで」
「そうか、無理にとは言わんけど。いつでも待ってるわ」
「・・・」
正美が将平の横へ来て、将平のコップにビールをつぎながら、
「何の話しをしてたの」
「二人だけの秘密」
将平と好昭は、顔を見合わせて言った。
ひとり、家路につく将平は
(あー、たくさん食べて呑んだわ。帰って寝るだけや。あっ、ミンチカツ買ってたんや。明日の朝、喰お)
「今日は、基本一本を教える。基本一本というのは、いちばん最初に習う組手のひとつや」
下東はそう言って
「藤田さん」
と、輪になって練習されている藤田を呼んで
「藤田さん、私と基本一本をして、秋山君に見本を見せてやってほしいんや」
「押忍」
「ええか、秋山君。基本一本は、約束組手と言って、何処を攻撃するか、前もって相手に言ってから、突きや蹴りを行って、それを受ける練習や。ちょっと見ててや」
「はい」
藤田は、前屈立ち下段払いになって
「上段、えぃ」
と、藤田が下東に上段突きを行うと、下東は揚げ受けで、いとも簡単に受ける。
「中段、えぃ」
それを下東は、藤田の鳩尾への攻撃である中段突きを、外受けで受ける。
「前蹴り、えぃ」
下東は、藤田の前蹴りを、下段払いで受けた。
もうすぐ、60歳になろうかという年齢のひとと、60歳を越えた先生とはいえ、すごい迫力だ。
「今見た通りのことを、私と秋山君とでやってみよう」
「藤田さん、ありがとう」
「押忍」
と、藤田はみんなの練習場所へ。
一方、将平はまだ基本一本とはいえ、組手ができるのが、嬉しくてしようがない。
(この日のために、空手を習ってきたんや)
将平が
「上段」
と言って、下段払いを構えたが
「秋山君。ええか、基本一本というのは、先日教えた移動基本と同じで、基本中の基本やから。そのことを思い出して、下段払いの手は、蹴りを受けるんやから、自分の首のところまで拳を持っていって、そこから、相手の蹴ってくる足を折ったるぞという気持ちで、強く振り降ろす。その時、勿論、引き手をとる」
「はい」
「もう一度、下段払いから」
将平は、何度も下段払いを繰り返して、突きすらできないでいる。
やっと
「上段、えぃ」
と、将平が渾身の突きを下東に入れるが、いとも簡単にはね返された。下東は、もう60歳代なかばだと言うのに。
「今度は、秋山君が受ける番や」
「はい」
「真剣に受けるんやで。上段突きは、揚げ受けで受ける。中段突きは外受けで。前蹴りは下段払いで」
「はい」
下東が、軽く突いてはくれるが、その突きが重い重い。下東が蹴った前蹴りを受けた時など、腕がはね返されて、しかもものすごく痛い。将平は、下東の蹴りを受けた自分の腕を見返してしまうほど。しかし、下東は平然としている。
(なんや、この差は。このひとは、なんちゅうひとや。遠慮してくれてこれか)
「はい、もう一度」
「はい」
将平が
(どついたる)
と、突きを入れると
「肩が流れてる。肩は真っ直ぐで突く。引き手をしっかり取って」
「はい」
「もう一度」
「肩が流れてる。突きを俺に入れたい気持ちはわかるけど、とにかく肩は真っ直ぐ」
「はい」
「今度は、前傾姿勢になり過ぎ」
「はい」
「何度もやるで。少しずつ身体で覚えるんや」
「はい」
それこそ、修道館での一時間の練習時間では足りないくらいだ。
「ちょっと休憩しよ」
「はい」
将平と下東が休憩をしていると、下東が
「ええか、自転車や水泳は、一度覚えたら忘れへんもんやろ。久しぶりに自転車に乗っても泳いだとしても、自然とできる。つまり、身体が覚えてるからや。それと一緒で、空手も身体で覚えるんや。もし相手がどついてきた時、脳まで指令を出しに行ってたら、その分遅くなり、どつかれてしまうから、脳まで指令が行く前に自然と身体で反応する。そうなるために、日々練習に精を出して、身体が自然と反応できるようにする。そうなるためにも、継続は力なりと、言うわけや」
「はい」
「さぁ、もう一度、頑張ってみよか。今日、習ったことをひとつても多く、覚えて帰ってもらいたいからな」
「はい」
将平は今日の練習で、改めて下東との、ものすごい経験の差を感じた。そりゃたった数回習っただけの者と、先生と呼ばれる者の差である。まさしく雲泥の差、月とスッポンである。将平は、その時初めて思い返してみた。
(空手を習って初めて感じるんやけど、中学の時の吉岡は、空手を数回しか習ってなかったんやな。今の自分みたいに。それを吉岡が空手を習ってるというだけで、俺と黒崎は、勝手に ビビッてしまったんや)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます