第2話
あれから二十年以上が経ち、道場の敷居をまたげずじまいのままだった将平だが、他のひとより、たまたま走るのが早かったので、走ってただけ。仕事も将平の性格に似たようなもので、何度も転々とし、勿論、独身のままである。
初めて将平が、警備員の仕事に就いた時に教えてくださったのが、原田である。空手二段で、将平と原田がスポーツの話しをしていて将平は知った。二人は同年齢である。
「秋山さん、警備員という仕事は、いつ何処でどんな相手と遭遇するか、わからない。だから最低限、自分の身を護るためにも、護身術を習ってる方がいいと思います。私には、嫁と二人の子供がいます。私は以前、空手の香山師範と話す機会があり、聞けたんです。その頃私は初段で、もう空手はある程度マスターできたと自分では思ってたんですが、香山師範の言われた言葉が忘れられずに、今でも空手を習い続けているんです。その言葉とは、
『おまえ、家族を護るんやろ。それやったら、空手を続けんかい』
この一言は大きかったんです。そうや、嫁さんと子供を護るんやと。それで今でも空手を習い続けて、二段になれたんです」
その言葉を聞いて、将平は突き動かされた。勿論、元々空手を習う気持ちは、失ってはいなかったのだが。原田が香山師範から聞かされた
『おまえ、家族を護るんやろ』
という言葉が。そこで将平の脳裏に浮かんだ顔が、正美だった。
将平が空手を習うのは、今日で3回目で、2回までは原田について修道館へ行ったけれど、42歳にもなったんだからひとりで行けないと、ということで今日は原田が用事があって、空手練習を休むというので、将平はひとりで行くことに。
初めて修道館へ行った時のことを将平は、昨日のことのように思い出す。原田が
空手メンバーに、将平を紹介してくれる。下東先生、長西先生、そして空手を習うもうひとつのきっかけとなった、55歳から空手を習い始めた藤田。
このひとは白髪で、年齢よりも老けてみえる。あと二十代の男性と女性。みんな勿論、空手道着だが、将平はまだTシャツに短パン姿である。
まず
「秋山君、こちらへ」
という下東のうしろについて行って、鏡の前で個人レッスンだ。向こうでは、長西指導の元、輪になって原田以下が、練習をしている。将平は
(やっと、ほんとうの空手を習うんや)
中学の時、黒崎と二人で空き地て練習していたのが、空手の始まりだが。
下東が
「人間というものは上手くできていて、単に相手を突こうと、突くことばかりを考えるのではなく、突く手と反対側の引く方の手に、意識を持っていく。そうすれば強い突きを打つことができる。ブロボクサーも引き手を意識してるんや」
と言われた。そして
「相手に当たるところで、拳を捻る」
とも。
「ただ釘を打つよりも、ネジの方がしっかりしてるやろ。それと同じで、拳を捻ってネジ込む突きの方が、よりきつい突きになるんや。それだけ、相手へのダメージも大きくなる」
と。
目の前の大きな鏡は、下東の話しを、真剣に聞いている将平の姿を写している。
突きの次に下東は、将平に蹴りも教えてくれた。
「ええか。蹴りというのは、軸足の膝の上まで足首を上げ、蹴ったあとに突きと同じように引き足を自分の尻に当てるような気持ちで蹴るんや。足を上げる時は、真
夏に砂浜を歩いて熱いと思って、足を上げるような感覚で」
修道館での一時間の練習は、あっという間だった。
(なんや、空手って。こんなに難しいんか。たかが突き、たかが蹴りと思ってたんやけど。すごく深い、深すぎるわ)
その後、原田と将平は森ノ宮駅から歩いてすぐの、酒の穴という居酒屋で一杯。
「どう、初めて習った空手の感想は」
「はい、正直言って、すごく難しいですね」
「そりゃそうや。石の上にも三年というけど、十年は必要やと俺は思うよ。空手だけやない、何ひとつとして習い事に簡単なものはないと思うよ」
「そうですね。けど二十年以上前から、やりたいと思っていた空手に、やっと出会えることができたんです。自分も原田さんのように、生涯空手のつもりで、頑張っていきたいと思います」
「その意気や。それが仕事にも生きると思うし」
「はい」
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