第17話
将平が、海老江へ練習に行くのと反対に、海老江道場のあすかという小学校六年生の女の子が、修道館へ習いに来だした。ショートカットで可愛らしい。将平が、修道館へ空手を習いに行く張り合いもできた。
あすかは、日本空手松濤連盟大阪府本部のアイドル的存在だ。修道館の練習でも、何故か将平の横にいて、目の前に大きな鏡があり、将平が練習している時にも、常にあすかの姿が写っている。
(可愛いな)
勿論、将平が見ているのを、あすかも気付かないはずはない。
バレンタインデーの日など、先生方に、あすかがチョコレートを配っているのを見て
(羨ましい)
と思っていると
「はい」
と将平の目の前に、あすかの手からチョコレートが
「あっ、ありがとう」
まさか、チョコレートをもらえると思わなかった将平は、有頂天になってしまった。
(やったぁ)
この時、将平は正美のことは頭にはない。夜空には、大阪らしくないたくさんの星が。
将平が自宅へ帰ると
「はい、バレンタインデー」
と、正美にチョコレートを渡されても
「ありがとう」
と言ったが、心ここにあらずだ。あすかから貰ったチョコレートはカバンの奥に大切にしまってある。
将平は、地道に一歩ずつ空手道上達への道を進んでいく。原田から借りたベスト空手の本の中に
◎練磨の汗の中から人格完成を図ろうとするもの
◎人に勝つ前に自己に克つ
と、書かれてある。
冬、世間のひとが仕事を終えて、こたつに入り鍋をつつき、酒を呑んでいるであろう時間に将平は、大阪城をひたすら歩いて、空手を習いに修道館へ。もう何年通っているのだろう。まさしく
「人に勝つ前に自己に克つ」
だ。
「そろそろ昇段審査、受けてみるか」
下東の、そのひと言に
「えっ」
(苦節5年、やっと黒帯挑戦だ。嬉しい)
その日から初段への道、黒帯への挑戦が始まった。
あすかはすでに黒帯で、抜塞大という形を井村先生に教えてもらっているが、将平自身も昇段審査で必要な形である。あすかが修道館に習いに来るように、将平も含めてだが、たくさんの先生方に形を見てもらうことは大事で、上達につながる。
昇段審査まで、あと1ヶ月。修道館での練習後、将平が原田たちと酒の穴で一杯やっていると、正美から携帯が。
「将平さん、お父さんが倒れたの」
「えっ、す、すぐ帰るわ」
将平の顔色が変わったのに、原田が気付き
「どうした?」
「義父が倒れたと、嫁から連絡がありまして」
「すぐ帰ったり」
「は、はい」
将平が、カバンの中をごそごそしているのを見て、原田は
「金はいつでもええから。とにかく早く」
「押忍」
とりあえず、家の近所の駅まで帰ると、正美から携帯で
「松本病院の前まで来て」
「了解」
松本病院は、居酒屋みどりから歩いても15分ほどで、駅から行く方が近い。
病院の前には正美が待っていて、将平の顔を見るとホッとしたように見受けられ
「どう、義父さんの様子は」
「今は、元気な顔してる。倒れた時は、どうなることやろうと思ったけど」
「義父さんに会える?」
「とりあえず、先に先生に会って」
「そやな」
しばらく待ったが、時刻はもう0時前だ。
担当医は、背の高いメガネを掛けた実直そうなひとで
「ここにお掛けください」
将平と正美とが、丸椅子に腰掛けると、将平が
「どうなんでしょうか」
「一応、頭のCTと心電図、採血とMRIを調べたんですが。過労ですね。1ヶ月ほど、病院でおとなしくしていたら、大丈夫ですよ」
将平はホッとして、正美の肩に手を置くと、正美は涙目で将平を見た。
「ありがとうございます。義父さんに会えますか」
「いいでしょう」
二人は、医者に頭を下げて、好昭の病室へ。好昭は二人の顔を見るとニコッとして
「心配掛けて、すまねえな」
「いえ、ゆっくり休んでください。義父さん、もう何年も休んでないんでしょう」
「そんなことないよ。毎週、定休日があるし」
「店は、私に任せてください」
「えっ」
正美は、将平の顔を見たが
「仕事が泊りなので、勿論その間の日しか、店を開けられませんけど」
「えっ、ええんか」
正美は、将平の服の袖を引くが
「やってみるんで。おでんの出汁の取り方を、教えてください。メニューは、だいぶ少なくなりますが、頑張ってみます」
「ほんとうにすまんな。レシピは、レジのある台の横に、吊るしてあるから。無理せんとな」
「押忍。いえ、はい」
病院の帰りに、正美が
「あんなこと言って。仕事は泊りでたいへんなのに。そして空手は、もうすぐ昇段審査なんでしょ」
「そうなんやけど、何とかなるわ。義父さんがたいへんな時なんやから」
「将平さんの、身体が心配なの」
「大丈夫、おまえがいてくれるから」
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