第31話
将平は、雨音を聞くのが好きだった。正美と一緒に暮らす前の古いアパートは、よく雨音が聞こえ、将平はアパートの窓を開けてみたりした。
走っていた頃は、雨の日もヤッケを着て走りもした。雨の日の公園には、ひともいなくて、将平の独占だったから。
けど、今住んでいるマンションは、雨が降っているのかも窓を開けないと、わかりはしない。
将平にとって、このことはいいことなのか。
(そんなこと、思うこと自体が贅沢やな)
窓から雨が降るのを見ながら、そんなことを考えていると正美が
「何してんの」
「うん、俺は幸せな奴やなと思って」
「当たり前じゃない。奥さんは正美さんだぞ」
「失礼しました」
「将平、準備しろよ。今日、修道館やろ」
「おっと、忘れてた」
「もう将平さん。二段に合格して、ボケちゃったんじゃないの」
「そんなことはないよ」
「明日は、仕事なの」
「うん」
「けど、呑んでくるんでしょ」
「ちょっとだけ」
「空手道着は持った?帯は?傘は?」
「うん、ありがとう。行ってきます」
将平は雨の降る中、大阪城公園を一路、修道館へ。散歩するひとは、ほとんど見掛けない。ジョギングしているひとも、僅かだ。
(よく走ったよな、こんな雨の中を。走ることに集中できたんや。だから雨は好きやった)
将平が更衣室で着替えていると
「おめでとうございます」
と高橋が。将平は
「ありがとう。高橋君も、早く黒帯にならな」
「そうですね。早く秋山さんと同じ、黒帯になりたいです」
「そうや。一緒に頑張ろう」
「押忍。秋山さんはやっぱり、目指せ三段ですか」
「そうやねんけど、まだ二段になったばかりやから。とにかく『継続は力なり』やと思う」
「そうですね。雨の中を20分ほど歩いて、空手を習って、一つずつ進歩していかなあかんのですね」
「そうや。決して焦らす、少しずつ一歩ずつや」
「押忍」
「高橋君は、押忍ってよく言えるな」
「何故ですか」
「いや。俺なんか、なかなか
押忍って言えんかったから」
「いゃあ、福島隊長に原田さん、そして秋山さんが、押忍って言ってるのを聞いていて、俺も言いたいなと思ってたんです。悪いですか」
「いや、悪いことではないんや。俺も早く押忍って言いたかったけど、なかなか言えんかったから」
そこへ下東と長西が
「おっ、二段おめでとう」
「ありがとうございます」
「さあ、改めて頑張っていこや」
「押忍」
みんなは道場中央へ。
下東が
「今日から、順路の形を教える。順路の形は初段から五段まであって、初段は四十挙動。二段は三十二挙動。三段は四十五挙動。四段は五十挙動。五段は、四十五挙動や」
将平は
(抜塞大が四十二挙動やのに、それより多い挙動数や。これはたいへんやぞ)
横で高橋も戸惑っている。
「それじゃまず、順路初段から」
「イチ、ニ、サン」
と、下東指導の元、長西も一緒に習うが、高橋はやっと平安の形を覚えたばかりだ。修道館での練習を終えて、将平と高橋は森ノ宮駅前の酒の穴へ。まず
「秋山さん。二段の昇段、おめでとうございます」
「ありがとう。けど、今日の新しい形、戸惑ったやろ」
「そうなんですよ。やっと平安の形を覚えたばかりやったのに」
「下東先生に聞いたら、昇段審査の指定形に入るらしいから、必ず覚えなあかんらしいで」
「そうなんですか」
「そうや。長西先生も一緒に習うくらいやから、たいへんやけど、お互い頑張ろうや」
「押忍」
将平は、八尾に住んでいるので、香山師範の八尾道場にも、子供らの指導の手伝いに行った。香山師範には、学ぶべきものがいっぱいある。自分のことよりも、子供らへの教え方に将平は注意を払うのだ。そして香山師範は
「秋山君、ええか。形はなぁ、四方に四人の相手を仮想して、実戦でやる気迫を出す。攻撃は、相手を倒し、受けは腕をへし折るつもりでやる。更に必要なのがハートや。気持ちの凄さ、強さ、気力、そして根性の充実と、自分の技を信じた闘争本能。そうすると形が生きてくる。これは組手ても言えることだが、負けない気持ちがいちばん大切や」
「押忍」
(ええこと聞かせてもらった。これをすぐにメモせな)
将平は早速、道場の隅に行って、メモを始めた。そしてメモを終えて
(せっかく八尾道場に来たんや。巻き藁を突かんと)
そして、巻き藁を左右200本づつ突き終えて、香山師範に
「ありがとうございました」
と言った後、将平が巻き藁をしみじみ見ると、突いている場所だけが変色していて、香山師範の血と汗の結晶が巻き藁に。
(香山師範は、この巻き藁を数えきれないほど突いてきたんや)
その巻き藁を、突かせてもらうだけで、ありがたい。
(ほんとうに、ありがとうございます)
その後、将平は正美と入籍してから、八尾道場へ行くのが遠退いてしまった。
修道館で下東が
「単に、形の順番を覚えるだけでは、役に立たない。この挙動の意味は」
と教えていただく度に、将平はメモを取る。香山師範が八尾道場で言われたことと、まさしく重なる。その日から、将平の形を演じる取組姿勢に変化が。
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