第20話
原田が
「どうやった」
「夢中でした。もうしばらくは、審査はいいです」
「そりゃ、審査のあとは誰でもそう思うわ。けど、ホッとしたやろう」
「そうですね。全力を出し切った感じです」
あすかが、道場を後にしながら、将平に頭を下げてくれた。
エレベーターを降りて、ビルから外に出た将平は、空に向かって、大きく身体を伸ばした。
原田が
「呑みに行こか」
「押忍。下東先生は」
「そやな、待っとこか」
「押忍」
将平と原田は、道場のあるビルの前で待っていると、将平と組手の対戦相手だった国友がエレベーターから降りてきて
「お疲れ様でした」
「お疲れ様」
「また、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
全力を出し切った者同士の、正直な気持ちである。
しばらくすると、下東始め、先生方がエレベーターで降りて来られ、原田が
「お疲れ様でした。下東先生、ちょっと行きますか」
「お、おう。そうやな」
三人は、道場の入ったビルの1階の、中華料理屋へ。
16時頃の店は、まだ空いていて、三人はいちばん奥の四人掛けのテーブルへ。店員に原田が
「とりあえず生3つとギョーザ5人前」
店員が下がると、下東が
「秋山君、初段おめでとう」
のひとことと、手に黒帯を握っている。その黒帯には『秋山』とネームが。
「あっ、ありがとうございます」
(幼い時から親父に、気の小さい奴と言われ続けられたこの俺が、空手でとうとう黒帯になれた。ちょっとオーバーかもしれんけど、よくここまで頑張ってこれたもんや)
と、将平はつくづく思った。
ちょうどそこへ、正美から携帯が。
「どうやった」
将平は、嬉しさを思い切り正美に伝えたいのだが、あえて抑えて
「あー、黒帯になれたよ」
「ほんとう、良かったね。ちょっと待って」
「えっ」
「好昭です」
「えっ」
「将平君、おめでとう」
「あっ、ありがとうございます」
「帰ったら、一杯やろう」
「はい」
将平は、黒帯になった地点で、正美と入籍することを決めていた。
(これで俺は、けじめを付ける)
将平が帰宅すると、好昭が
すでに来ていて三人で呑むことに。テーブルには、鯛の尾頭付きが乗っている。
「将平君、おめでとう」
「ありがとうございます」
「よう頑張ったな。40代という年で空手始めて。失礼やけど、俺はけつ割ると思ってたわ」
「はい、けど俺はガキの頃から、やりたいと思ってたんで。絶対に最低でも黒帯は取るんやと、つよく思ってました。しかし、黒帯で終わりやとは、思ってません」
将平は、正美を見て
「義父さん、いつまてもぐずぐずしていて、すいませんでした。明日、正美と入籍します」
「おっ、そうか。そりゃまた、乾杯や」
「はい」
将平は、鯛の尾頭付きを見ながら
「奮発してくれたんやな」
「父さんからのプレゼントよ」
「あっ、そうか。義父さん、すいません」
「いやいや、これくらい」
「入籍したら、次は孫の顔を早く見せてや」
「はい」
将平は昇段審査後、心新たに修道館へ出掛けた。
(寒っ。けど今日から黒帯締めるんや。嬉しいな)
もう年末で、とにかく寒い。夏には夕凪の時らしく、風が吹かないのに、北風が将平の頬をさらってゆく。気のせいか、大阪城を走っているひとも少ない。
(もう5年も、修道館に通ってるんや。走ってた頃は、修道館を見て、何をやってるとこやろと思ってた時が、懐かしいわ)
修道館の更衣室で、将平がひとりで黒帯を締めて、鏡を前に
(何か似合わんわ。まだ見慣れてないからなのかもしれん)
初めて将平が黒帯を締めて道場へ行くと、原田が
「おめでとう。俺らの仲間入 りや」
曽は
「まだ帯、締めにくいでしょ。硬くて」
下東が
「帯を、もう少し下に締めんと。丹田の下で帯を締めるんや」
と、下東が直してくれた。もう将平は、道場の寒さを忘れている。長西も
「これからやぞ」
と、それぞれ暖かい言葉をくれた。
あすかも
「おめでとうございます」
「あっ、ありがとう。道場に来てくれて」
「えっ、いえ」
「これからも、頑張りますので」
あすかは、ニコッとして
「はい」
と。ふと道場を見渡すと、下東、長西以下、黒帯が似合う先輩ばかり。下東が
「黒帯、締めた感触はどうや」
「押忍。帯がまだ硬くて」
「締めていくほど、馴染んでくるわ。以前も言ったと思うけど、人間のすることに無駄なことは、ひとつもない。昇段審査は、しんどかったやろ。けど、この苦しさを乗り越えてまた、秋山君という人間の器が大きくなったんと違うかな。どうや」
「そ、それはまだ」
「今日は、裏拳を教える」
「押忍」
形の中には、裏拳はあるにはあるが、まだ将平は力の入れ方がわかってはいなかった。
「拳に、身体全体の力を使って。スナップをきかせて」
「押忍」
将平はその時、中学時代の、黒崎と吉岡の決闘で、永末の
「裏拳使え」
の言葉が思い浮かんだ。もう何十年も前の言葉が。
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