第5話
将平は、空手を習い始めてから毎日に、すごい張り合いを感じている。
(一生懸命頑張ってる姿を、正美に見てほしい)
これは、将平の素直な気持ちだ。
将平は42歳、正美は34歳。付き合って四年、そろそろプロポーズをしないといけない将平なんだが、いろいろな仕事を、転々としていては仕事の安定が優先で、正美を養っていくことができない。そして、警備員の仕事に就いて
(やっと、俺の仕事が見つかった)
と、将平は思ったのだった。空手を習ったのも、原田が香山師範に言われた
「おまえ、家族を護るんやろ」
のひとことだ。正美に対して、まだ家族とは言えず、プロポーズもしていない将平なんだが、正美を護るんだと。
まだ将平は、空手練習の輪の中に入れてないが、下東の指導の元、一生懸命だ。
「今日は、移動基本を教える。まず、いちばんの基本となる前屈立ちの立ち方からや。ええか、前屈立ちは身長にもよるが、前足と後ろ足の幅は80cmくらいで、両足の開きは肩幅くらい。これが、開き過ぎても狭すぎても安定しない」
「それでは前へ、イチ、ニ、サン」
将平が前進すると、自然と頭の上下動が、起こってしまう。
「頭の高さを変えないで、それと前進する時の足の動きは、半円を描くように」
「はい」
けれど、やっぱり頭は、高くなったり低くなったり、してしまう。
「一辺にはできんけど、継続や。それしかない」
「はい」
将平は、練習を続けながらも、修道館の玄関が、気になってしかたがない。正美は、ほんとうに来てくれるのか。
将平は、ある決意をしている。
(あいつは、絶対に見に来てくれる)
「ちょっと休憩しよか」
下東のひとことで、将平は水分補給のため、カバンの置いてあるところへ行って、ペットボトルの茶を飲みながら、タオルで汗を拭って玄関の方を見てみると、正美がいた。薄いブルーのワンピースにレモンイエローのカーデガン姿である。正美の姿を見掛けた将平の顔は、満面の笑みで、目が何処にあるかわからない。将平は、玄関へ駆けてゆき
「遅かったな」
「探したんだから。真っ暗で。ほんとうに、ここまで来るの苦労したんだから」
「ありがとう。もう少し待っといて」
「うん」
下東が、玄関の方を見ながら
「誰や、今のひと」
「はい、自分の彼女です」
「そうか、もう少し頑張ろう」
「はい」
将平は、正美に目配せしてから、下東と一緒に道場の端へ行って、受けと移動基本の練習を。
汗ビッショリになって練習を終え、将平は正美と一緒に下東にお礼を言って帰ることに。
「来てくれて、ありがとう。呑みに行こか」
「うん」
「森ノ宮駅の方へ行ったら、呑むとこいっぱいあるけど、原田さんに連れて行ってもらったとこにしよか」
「うん」
今日の空は、大阪には珍しく星がたくさん見える。修道館から森ノ宮駅までは、ゆっくり歩けば、20分はかかる。大阪城の周回コースでは、今日も大勢のひとが、21時を廻っているのに走っている。そのひとたちを横目に、将平が
「ごめんな、いろいろ」
「何のこと」
「あれっ、最近電話ないと怒ってたやろ」
「へぇ、そんなことあったっけ」
「もう、これやから」
「何」
「いえ、何も」
将平は、正美の性格が熱し安く、冷め安いことを知っているので、あえてしつこく聞かないことに。
「修道館に来るのに迷った?」
「もう、日が暮れて真っ暗なんだもん。掲示板は見えないし、私には森ばっかりで怖かったわ」
将平は無言で、歩きながら正美の肩を抱いた。
将平は、ある決意をしている。だから空手を頑張ってる姿を、正美に見てもらったんだ。まだ酒も呑んでないのに、将平の身体中にアルコールが染み渡って行く感じだ。
肩を抱かれた正美は無言で、将平の方を向いただけ。年月の推移が、二人の沈黙を補うのだろう。正美はあえて、将平の肩にもたれかかり、将平は正美のその行為で、不満が、解消したと思った。見上げると、三日月かとても美しい。
「ここや」
と、正美を森ノ宮駅すぐの地下の店に、案内した。その店は、原田に連れて来てもらった酒の穴という店である。
「いらっしゃい」
店は、テーブルとカウンターがあり、半分程度、席が埋まっている。そこでカウンターの端に二人で座って
「生ビール2つと、ドテカツください」
「はい」
店の中を、見回してる正美に
「ここは、ドテカツが名物なんや。旨いで」
「私とこも、名物になるような物、出したいな」
「そうやな、いろいろ考えてみるのも面白いと思うよ」
「うん」
「例えばさあ、お父さんの店でカレーを出すとか」
「えー、以外といいかも」
「そうやろ、呑んだ後に小腹が空いて、それでカレーとか」
「いいわね。帰ったら父さんに言おうと」
やがて、生ビールとドテカツが来て、二人で乾杯し、正美がドテカツを食べて
「美味しい」
「そやろ」
「今日はわざわざ来てくれて、ありがとう」
「空手、頑張ってるのね」
「うん、正美を護るためにな」
「何」
「正美を、悪い奴から護るっいうこと」
「それって、プロポーズってこと?」
将平は、正美をじっと見て
「うん。俺でええんか。定職になかなか就かんかった、こんな俺で」
「警備員で、頑張るんでしょ」
「うん」
「私もお父さんの店で頑張るから、大丈夫よ」
「うん。もう一度、乾杯」
そして将平は、正美を家まで送っていく。
居酒屋みどりは、商店街の入り口にあり、近くに大きな自動車工場があって、従業員の客が多い。カウンターだけの立ち呑み屋で、10人も入ればいっぱいに。1階が居酒屋で、2階が正美と父親の住居になっている。
将平と正美が、居酒屋みどりの暖簾をくぐると、父親である店長の好昭が
「秋山さん、いつもすまねえな」
と、大きな声で。坊主頭に大きな身体で、一見怖そうに見える好昭だが、何故か将平を大層気にいっている。店は、閉店前なので、常連客がひとりだけ。正美が
「トイレ」
と言って、将平のそばを離れているあいだに、好昭が
「秋山さん、二人だけの話しやけど、良かったら、正美と結婚して、この店を継いでくれへんか。ここだけの話しや。正美に言うたらあかんで」
好昭はそう言いながら、瓶ビールとほうれん草バターを出してくれた。将平のこの店の好物である。じゃこが、かくし味として入っていて、安くて旨い。
「えっ」
「しっ、正美が来たから」
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