侯爵家従士アーヴェイルの出立
アリアレインが方針を示し、執事と祐筆たち、そしてアーヴェイルがそれに修正を加え、あるいは細部を詰めて実務に落とし込む。
侯爵家王都邸のいつもの執務のあり方で、今回もそれはさして変わるところがない。
問題は、短い時間の間に大量の文書や書簡を出さねばならないことで、祐筆たちは繁忙を極めている。
苦労は保証する、と言い切ったアリアレインの言葉通りだった。
「これは余程の給金を頂戴できねば割に合いませんな」
ひとつ文書を書き終えてペンを置き、束の間席を立って肩と首を回しながら、年嵩の祐筆が冗談を飛ばす。
「安心して、娘さんの婚礼衣装がぽんと買えるくらいには弾むから」
文面を確かめてサインを走らせ、アーヴェイルに手渡しながらアリアレインが応じる。
当の祐筆は王都で雇った者ではなく侯爵領の出で、家族は侯爵領に残している。
家族のもとへ戻るよい機会、くらいに考えているのかもしれなかった。
「娘とお嬢様のためとあらば、」
笑いながらペンを手に取った祐筆が、もう一度席についた。
「己にもう一鞭入れねばなりませんなあ」
書斎にいる皆も、笑いながらも手を止めない。
文書の内容は多岐にわたり、書簡の宛先も領主貴族から代官、商家、国の書記官、教会と様々だった。
アリアレインはすべての内容を確かめ、ときに自分でも一言書き添えながら、次々とサインをしてゆく。
もう一度内容を確認し、封筒に入れて封蝋を施し、封印を捺すのがアーヴェイルの役回りだった。
アリアレインからの指示があったいくつかの書簡は、封をしないまま封筒と揃えて机に置く。
時折執事が入ってきては新たな文書を置き、あるいは溜まった文書を取り上げて出てゆく。
今日のうちに届けられる文書は、従僕を走らせている、ということのようだった。
合間に軽く夕食と夜食を済ませながら、作業は夜更けまで続いた。
夜半を過ぎたあたりで、今日はもう休みなさい、とアリアレインが命じた。
疲れた表情を浮かべた祐筆たちが紙とペンを片付け、アリアレインに丁寧な礼をして書斎を出てゆく。
残ったアーヴェイルは、扉の外に控えていた侍女に熱い湯で濡らした手拭いを持ってこさせ、黙ってアリアレインに差し出した。
何も言わずに受け取ったアリアレインがソファに身体を投げ出し、髪飾りを引き抜いて髪を下ろし、乱雑に畳んだ手拭いを目の上に置く。
家族とアーヴェイルの前以外では絶対に見せないであろう姿だった。
「――さすがに疲れたわね」
しばらくそのままの姿勢でいたアリアレインの口から、深いため息とともに、愚痴とも弱音ともつかない言葉が漏れ出る。
「夕刻からろくにお休みも取られないままです。お嬢様もお休みください」
「そうね。
あなたも、と言いたいところだけれど、アーヴェイル」
ゆるゆるとソファから身体を起こしながら、アリアレインは顔の上半分ほどを覆っていた手拭いを外して手に取った。
「はい」
短く応じたアーヴェイルが手を差し出す。その手拭いを、という意図だった。
差し出された手を見つめたアリアレインはその手を両手で握り、上目遣いにアーヴェイルを見上げる。
口の端にほんのわずかな苦笑を浮かべたアーヴェイルがゆっくりとアリアレインを引き起こした。
「使いを頼まれて」
「これからですか」
「ええ、すぐに出てもらわないと」
「私は、お嬢様、あなたの護衛でもあるのですが」
「わかってる。あなたにしか頼めないのよ。
身辺の警護は、明日の朝にもクルツが来てくれる手筈だから」
「若様ならばご安心でしょうが」
「影は今あちこちへ動かしているから警護には使えないけれど、他に近衛のマレス騎士館から手練れをふたり。
それに、動きだしてしまえば安全でしょう?」
「――仰るとおりですね」
心からの賛成はできませんが、という意図を込めたわずかな間のあとで、アーヴェイルは頷いた。
机の上の手紙の束を手に取ったアリアレインが、もう一度ソファに腰を沈める。
「そこの封印と封蝋を――いいえ、いつものじゃなくてそっちの方。
そう、それを持ってきてちょうだい」
言われるままに封印と封蝋を取ってきたアーヴェイルが、ソファの傍らに置かれた低いテーブルにそれを置く。
「ありがとう。
説明するわ。座って」
テーブルを挟んで反対の小さな椅子に腰を下ろそうとしたアーヴェイルに、そっちじゃないわ、と首を振り、自分の隣を手で示した。
「失礼」
小さくため息をつき、一言だけ断って、アーヴェイルが隣に座った。
アリアレインはまだ封をしていない書簡を一通ずつ手に取り、内容をアーヴェイルに説明して封筒に入れてゆく。
同時に、それぞれの宛先で何をすべきかを簡潔に命じた。
――たしかにこれは。
話を聞きながらアーヴェイルは考える。
自分にしかできない仕事なのかもしれない。
ただの使者ではなく、体力と胆力と臨機応変さが求められるその仕事そのものが、アリアレインからの信頼の証のように思われた。
一通りの話を終えたアリアレインが手ずから封筒に宛名を書きこみ、1通ずつ封をしてゆく。
封蝋に捺される印章は、侯爵家のそれとは異なるものだった。
「大臣より下で何が起きてるか知ろうともしないから、こういうことになるのよね」
そういうところが侮ってるって言うのよ、と封をし終えたアリアレインが言い、手紙の束をまとめて鞄に入れてアーヴェイルに手渡す。
アーヴェイルが立ち上がり、わずかな間、差し出された鞄を見つめた。
恭しく両手で鞄を受け取り、丁寧な所作で礼をする。
「確かにお預かりしました、お嬢様」
「任せたわね、アーヴェイル」
ほんの少しだけ、迷うような間を置いて、アリアレインは付け加えた。
「――どうか、無事で。頼んだわよ」
「はい、必ず」
頷いたアーヴェイルは、扉の前でもう一度丁寧に礼をした。
「行ってまいります。
お嬢様も、どうかお気をつけて」
それだけ言って、アーヴェイルは退出した。
廊下を足早な靴音が遠ざかる。
しばらく閉じられた扉を見つめていたアリアレインは、ややあって天井に視線を逸らした。
きつく目をつむり、心の中のなにかを追い出そうとするかのように深く深く息をつく。
「――大丈夫」
小さく口に出して言い、軽く自分の頬を叩く。
立ち上がったアリアレインは呼び鈴を手に取り、控えている侍女を呼んだ。
※ ※ ※ ※ ※
「メイロス様?」
戸惑ったような馬丁の声が、アーヴェイルを考えごとから現実に引き戻す。
鞍と、そして公用使であることを示す馬衣を付けられた駿馬が馬丁に引かれていた。
「ああ、すまない。ありがとう。
夜更けに悪かった、お嬢様から急な使いを言いつかってね」
馬丁に声をかけて鞄を鞍に取り付け、鐙に足をかけて一息に乗る。
いえいえ、と欠伸混じりに馬丁が応じ、部屋へと戻っていった。
アーヴェイルが考えていたのは命じられた使いのことではない。
――あの手。
書簡を入れた鞄を差し出した、あのお嬢様の手が、かすかに震えていたことを思い出していた。
その直前の、甘えたようなふざけたような態度も。
不安でないはずはない。誰にも気づかれぬように、それを押し殺しておられるだけなのだ。
叱られるのを覚悟で戻るべきか、とふと考え、そういう扱いをお嬢様は望まないだろう、と思いなおす。
明かりの消えた書斎の窓を一度だけ振り仰いで、アーヴェイルは屋敷を出ていった。
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