侯爵家従士アーヴェイルの奔走(後)
その朝、街の小さな広場に店を出す屋台の主は、いつものように肉を炙り、パンに挟んでは売っていた。
街の中心、商館がある一画からは少々離れた小さな広場にはいくつかの屋台が店を出しており、朝のこの時間でも食事を求める者がいる。
これから仕事にでも出るのであろう工人、どうやら夜番を終えたところであるらしい衛士、そういった客が並び、朝食を買ってゆく。
炭火で炙られる肉のいい匂いが漂っていた。
幾人かの常連を捌いたあとに顔を見せたのは、普段見ない顔だった。
短い焦茶色の髪、疲れた顔ではあるが整った体格、腰には長剣と小剣を帯びている。
「なかなかの景気だね、親父さん」
肉を挟んだパンをひとつと茶を注文したその客が、銅貨を置きながら世間話を振る。
「ええ、おかげさまで――ああ、お代はそこじゃなくてこっちの木箱にお願いしやす。
ま、ご覧のとおりの繁盛ぶりで。有難ぇことです。お客さんは?」
「俺ぁしがない傭兵だがね、東へ向かってるとこさ。
何やらあっちが騒がしい気配、ってんでね」
なるほど傭兵か、と屋台の主は納得の思いで頷く。
たしかに銅貨を出したその手は、武器を扱う人種の手だった。
「まぁた戦ですかい?」
他愛ない話に応じながら、屋台の主は慣れた手つきでパンに切り込みを入れ、串に刺して炙っている肉の塊からいくらかをそぐように切り分けていく。
肉から滴る油が熾火に当たると、小気味いい音と同時に食欲をそそる匂いが広がった。
「どうやらね。
そういや、さっき執政府の公用使が御領主んとこへ入ってくのを見たよ。
随分と慌てた様子だった――ま、公用使の連中はいつもそんなもんだが」
「商売繁盛を祈りてえとこですが、戦になると何もかも高くなっていけねえ」
手際よくパンに肉を挟み、別の火で温めていたポットから銅のマグに茶を注ぐ。
「マグは終わったらそこの桶に放り込んでおいてくだせえ」
「ああ、そこだな。
――まあ、戦にならずとも、戦が近いあたりってのは傭兵の食い扶持も増えるもんだからね。
そっちを祈っておいてくれよ」
「そうしやしょうか、お互いのために――ほい、毎度ォ」
主人が応じて注文の品を差し出す。
受け取って場所を空けた傭兵に、別の客が声をかけた。
そこそこの身なりの商人風の若い男だった。自分のパンはあらかた食べ終えている。
身綺麗にしているから商売が危ういという風ではないが、こんなところで食事をするのならそう大きな稼ぎがあるということでもないのだろう。
大きく稼いでいる商人ならば、街の商館にいるはずだった。
「さっきの話は、あれ本当なのか?」
「どっちがだい?
東の方が、ってのは王都で聞いた話だ。
俺ぁ西から馬車の護衛で雇われたんだが、どうにも渋い仕事でね。
まあ、それでもこうして東へ行ける路銀くらいは稼げたんだが」
己の顔とパンを傭兵の視線が往復していることに気付いた若い商人が、ああ悪い、と詫びた。
じゃあちょっと失礼して、と傭兵がパンにかぶりつく。
「ふぉいえ、ふぁ」
品のない傭兵らしく、口にパンを詰めたまま喋ろうとする。当然ながらまともな言葉にはならない。
銅のマグから茶を一口含んで一緒に飲み下し、傭兵が改めて口を開いた。
「それで、まあ、知り合いの傭兵から話を聞いてこっちへ足を向けたってわけさ。
そいつは東から王都に来たところだったが、東がどうもきな臭い、ってね」
「小競り合いなら年がら年中、とも聞くが」
「そういう程度なら王都まで情報が来ないだろ」
会話の合間に、傭兵は器用にパンを口に運んでは食べている。
「そういうもんかね……公用使の方は?」
「いや、見たまんまよ。
ここの領主――伯爵様だよな?あそこのお屋敷に、公用使の馬衣を着けた馬がな。
さすがに街中で駆けやしなかったが、あの様子だと夜通し走って来たんじゃねえかな」
「それも東の?」
「そこまで俺ぁ知らねぇよ、運んでる文を見られるわけでなし」
肩をすくめる傭兵に、まあそれもそうか、と商人が笑って頷く。
「だが、まあ、普通の公用使なら夜通しは走らねえ。なにか急な報せではあるんだろうな。
ま、何かあるなら商館あたりでも動きはあるんだろうさ。でかい商人ほどそういうことには敏感だ」
なるほどね、と若い商人が頷き、よし、と呟いて広場に面した小さな宿に足を向ける。
「お出かけで?」
「ああ、荷物をまとめてから、商館の方へちょっとね」
何の気なしに尋ねた屋台の主に、若い商人はそう答えた。
「まだどういう商売になるのかはわからんが、こういうのは早めに手を付けないとな」
傭兵が、パンを食べながらうんうんと頷く。
「いいネタをありがとう、あんたの旅の無事を」
立ち去り際、声をかけた商人に、傭兵は小さく手を挙げて応じた。
「ああ、あんたも、いい商売を」
会話を畳んで商人を見送った傭兵が、程なくパンを食べ終える。
ひとつ息をついてマグの茶を飲み干し、桶へマグを入れた。
「それじゃあな、親父さん、美味かったよ」
「へぇ、またのお越しをォ」
いつものように答えた屋台の主は、それきり傭兵のことを忘れた。
客はまだしばらく絶えそうにもなく、彼にとってその傭兵は、よくいる一見の客に過ぎないからだった。
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