王太子エイリークの憤激
「どういうことなのだ?」
王太子エイリーク・ナダールは苛立ちを隠そうともしなかった。
もとより己の気分を表に出して咎められる立場でもない。
「ですから教会が――大司教猊下も、とのことで」
「それはもう聞いた。
なぜそのようなことになったのか、と訊いておる」
それはその、と報告に来た法務卿が口ごもる。
「なぜ教会が我が物顔でマレス候邸に陣取っておるのだ。
公布と時を同じくして接収に出向いた筈ではないか。
――式部卿?なにか手違いでもあったのか?」
は、と応じた式部卿の顔色が悪い。
「左様なことはございませぬ。
王都の各市門、王城の城門、商館、それに聖レイニア聖堂ほか主だった教会――通例のとおり、日の出から各所への掲示をもって正式に布告を行っております。
また、各所領への布告についても早馬を出しております」
「わ、わが部下どもも日の出と同時にマレス候邸へ踏み込もうといたしましたところ――」
法務卿が言い募ろうとしたところを、王太子がうるさそうに手を振って遮った。
「教会か。
連中は何と言っておるのだ?」
「は、それがわけのわからぬことを。
ここは『アリアレイン記念王都修道院』であるゆえ許可なき立ち入りは許されぬ、とかなんとか」
法務卿が発した言葉に王太子の顔が歪む。
「――どういうことなのだ?」
更に苛立った声音と表情。
ここに来て己が追放した令嬢の名を聞くとは思っていなかったのだろう。
もっとも、集まった重臣一同にしても、それは同様だった。
「――あ」
ノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールには、思い当たるところがあった。
「どうした、ノール伯」
「殿下、マレス候令嬢は、教会に屋敷を寄進したのではございますまいか」
追放された者は人としての権利すべてを剥奪される。物の所有や取引から生命身体の自由に至るまで、すべてを。
追放を境に、物の売り買いはできなくなり、売掛や買掛は『なかったこと』になり、追放者から何を奪っても罪に問われず、傷付こうが殺されようが法は追放者を保護しない。
追放を境に、であるから、当然のことながら、追放以前であれば取引は可能だ。
そして寄進は一種の取引と言える。
「3日前、当家の者が聖堂でかの令嬢を見かけております。
わたくしめはそれを、遁世の準備と考えましたが――」
そうでなかったとしたら。
――あの令嬢が理由もなくそんなことをするはずがない。
あのとき自分はそう考えたのではなかったか。
「わざわざ寄進の談判に出向いたとでも言うのか。
馬鹿な。そんなことをして侯爵家に何の利があるというのだ」
「……我らの手に渡さぬため、としか」
「単なる嫌がらせではないか、それでは」
忌々しい、と王太子が吐き捨てる。
「強いて挙げるならば、教会への貸し、というところかと」
ルドヴィーコが付け加える。
値を付ければ相当なものになるであろう家屋敷も、数日で売れるようなものではない。
代金にしてもぽんと出せるものではないから、普通ならば年賦になる。追放される侯爵令嬢には、それでは意味がない。
であれば、教会へ渡してしまい、何らかの見返りを受け取るか貸しを作るか。
理屈で言えばそうなる。
「待て待て、ノール伯、そなたの家臣が聖堂であれを見かけたというのは3日前であろう?」
「はい、殿下、左様でございます」
「追放宣告の翌日の昼だぞ。
たかだか17の小娘が、1日も経たずにそこまで――」
「よほどの胆力と行動力が必要でございましょうが、事実を見る限りはそのようにしか」
ぐぬう、と呻くような声を上げて王太子が腕を組む。
いかに王太子と言えど、教会と正面切って事を構えるのは容易なことではない。
「もうよい、屋敷の件はやむを得ぬ。
所詮、追い詰められたあれの悪あがきに過ぎん。
法務卿、確認しておけ。寄進の証拠がなければそこから叩く」
「は、そのようにいたします」
王太子と法務卿のやり取りを傍で聞きながら、ルドヴィーコは、あの令嬢ならば、と考えていた。
書面まできっちりと作り上げているだろう。見てわかる隙などあるはずがない。
気まずい沈黙が落ちた部屋に、侍従が入ってきた。
ルドヴィーコのそばに寄り、耳打ちをする。
なぜ自分に、と口に出しかけてルドヴィーコは理解した。
内大臣就任は公布こそされていないものの、宮中では既定の事実として共有されている。
気がつくと、室内の全員が自分に注目していた。
何とも言えない居心地の悪さを感じながら、王太子のもとへ歩み寄る。
「殿下、近衛騎士団長が御目通りを、と。
マレス騎士館の件とのことでございます」
「また何か――まあよい」
一瞬顔をしかめた王太子が頷く。
「通せ」
ルドヴィーコが侍従に命じると、侍従は一礼して引き下がった。
ややあって、近衛騎士団長の入室を告げる声が響いた。
略装の近衛騎士団長が姿を現し、王太子の前まで進み出るとうやうやしくひざまずいた。
「殿下におかれては――」
「仰々しい挨拶はよい。
そなたはマレス騎士館の接収に出向いたのであったな」
「はい、殿下、仰せのとおりでございます」
「また人手にでも渡っていたか、それともマレスの騎士どもが立て籠もってでもいたか?」
「いいえ、殿下、騎士館はもぬけの殻でございました。
扉を破ったほかは、滞りなく接収してございます」
ふむ、と王太子が頷く。
「さすがに騎士館までは手が回らなかったと見える――して、騎士団長、そなたの報告はそれだけか?」
「はい、殿下、騎士館の広間にこれが残されておりました」
騎士団長が捧げ持つように、両手で一振りの短剣を差し出した。
柄にも鞘にも、華美な装飾が施されている。
「――それは」
短剣を目にした式部卿が思わず声を上げた。
「陛下御下賜の短剣ではないか」
騎士に叙任された者は、みな国王から短剣を受け取る。
王都で最高の鍛冶師によって鍛えられ、王室お抱えの細工師によって装飾を施されたそれは、騎士たる身分の証であり、誇りそのものと言えた。
であるから、騎士はいついかなるときでもその短剣を隅々まで磨き上げ、肌身離さず持ち歩く。
死んだあとですら離すことはない――葬儀の際には棺に入れられ、遺体の胸の上に置かれるのが通例である。
それが騎士館の広間に置かれていた、ということは。
「その一振りだけか?」
険しい表情になった王太子が問う。
「いいえ、殿下、26ございました――マレス騎士館に滞在していた騎士の人数と同数でございます」
「――どういう、ことなのだ?」
王太子の言葉は内に押し込めた怒りを示すかのようにくぐもっている。
「畏れながら、殿下、わたくしめには、ひとつの理由しか思い当たりませぬ」
ルドヴィーコの声に震えが混じる。
「言ってみよ、ノール伯」
「全員が騎士館を離れ、未だ戻っておらぬこと、そして置き捨てられた短剣を考え合わせますれば――」
このようなことを口に出したくはない。
口にするのも恐ろしい。ルドヴィーコは心の底からそう思った。
その意に反して、ルドヴィーコの舌は言葉を続ける。
「陛下との主従関係を解消したいとの意思表示――つまりこれは、マレス騎士の謀叛かと」
王太子が、すさまじい形相で差し出された短剣を睨みつけていた。
全員が固唾を飲んで見守る中、王太子は短剣を取り上げ、息を大きく吸い、そして吐いた。
ひざまずいたままの騎士団長の肩を叩き、立ち上がらせる。
「ご苦労であった。下がってよい――ああ、騎士館に戻ったならば、いつでも出られるよう支度しておけ」
は、と答えた近衛騎士団長が、騎士の礼をとって退出した。
「軍務卿を呼べ。今すぐにだ」
重臣と侍従が残った部屋に、王太子の声はむしろ平板に響いた。
「――あの不忠者どもに、思い知らせてやらねばならぬ」
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