奏任書記官ラドミールの選択

 奏任書記官ラドミール・ハシェックは、母が暮らす家の寝室で目を覚ました。

 指示された公用はどうということもなく済ませ、昨日は旅の途上で買った土産を手に母のもとを訪れていた。


 急に帰ってきた息子に母は驚き、来るなら事前に報せておけと言い、なんの準備もないとぼやきながら、それでもできる限りの歓待をしてくれた。


 いささか飲みすぎたかもしれない、と思いながらベッドから起き上がる。

 普段、翌日に残るような酒の飲み方をすることはない。久々に会う母との食事で気が緩んだのだろう。


 とはいえ、今日明日にはここマノールを発って王都に戻らねばならない。

 当たり前のことだが、3年会わない間に、母は3年分歳をとっている。

 この調子ではあとどれだけ会いに来られるか、と想像してしまい、朝から少々気が塞いだ。


 まあ、休暇も以前よりは取れるようになってはいるからな、とラドミールは自分を納得させた。

 現にこうして、どうということのない公用のために、半ば休暇、半ば視察のような里帰りをしているのだ。


 そう言えば、とラドミールは思い出した。


 ――王都でひとつ荷を渡されていたな。公用を済ませてから開けろ、とか。


 思い返して、己の荷物の中から件の荷を取り出す。

 荷を解くと、封筒と小箱が出てきた。まず封筒の封を丁寧に開けて中の文書を手に取った。


「――は?」


 冒頭の一文を見たラドミールの口から、思わず声が漏れた。


『王太子殿下の勘気を被り、わたし、アリアレイン・ハーゼンは王国を追放されることとなりました。』


 眠気も、残っていた酒も、すべてを消し飛ばすような衝撃だった。

 たしかにあの令嬢の筆跡で、そしてあの令嬢らしい書きぶりで、しかしその内容はラドミールの頭を殴りつけるようだった。


 婚約を解消されたこと。

 王国貴族に相応しからぬという理由でもって追放刑に処されたこと。

 処分の発効は昨日の夕刻であること。

 自分は王都を引き払い、それを望む者とともにマレスへ向かうこと。


 そこにどのような事情があるか説明するでもなく、淡々と、これまで起きたことと、そしてあの令嬢がこれから行うことが記されている。

 なにがあったかは憶測に頼るほかないが、彼女が書くのであれば、起きたこと自体は事実なのだろう。


 どういった罪で追放に処されたかはわからないが、『勘気を被った』という書き方からすれば、おそらく、確たる罪があるというよりも王太子の気を損ねる何かがあった、ということだ。


 追放された者は親兄弟からでさえ一切の援助を受けることができない。

 手助けすれば手助けした者も同罪、というのが王国における追放刑の決まりごとだ。

 ゆえに歴史上、追放刑を受けて国境まで辿り着けた者は、実はそう多くない。

 過半は追放刑の布告がなされた直後からあらゆる相手に追われ、奪えるもの全てを奪われて悲惨な最期を迎えている。


 マレス侯爵令嬢の場合は、追放の発効までに猶予があったようだから、それを使ってマレスへ辿り着くことはできるだろう。

 その先はどうなるだろうか。


 王都を引き払ってマレスへ向かうということは、少なくともすぐに詫びを入れて済ませる気はない、ということだ。

 マレス侯と相談した上で対応を決める、ということなのかもしれない。


 考えながら文書を目で追っていったラドミールは、短い手紙の最後近くになって現れた一連の文章に、もう一度驚かされた。


『わたしはあなたの能力を高く評価しています。

 ともに侯爵領に来ていただけるのならば、現状に増す待遇を約束しましょう。

 路銀を同封しましたので、お受けいただけるのであれば、マノールから船に乗ってください。

 お母上の分も含めて、十分な額と思います。』


 慌てて小箱を開けると、宝石がいくつか収められている。

 宝石に詳しくないラドミールには、金貨にして何枚分になるのか、定かにはわからない。

 だが、街の商館で金に換えれば、相当な額になるであろうことは間違いがなかった。

 船賃と、そして母とふたり分の当面の生活費を賄って余りあることだろう。


 ――問題は。


 ラドミールは考える。

 形はどうあれ、明らかな叛逆の誘いだった。


 この誘いに乗ったならば、もう引き返す術はない。

 マレス侯とあの侯爵令嬢と、言うなれば『同じ船に乗る』ことになる。

 どこの港に着くかもわからない船に乗って、沈むときは一緒に沈まねばならない。


 王国の官僚として取るべき道とは思えなかった。


 しかし、とラドミールは更に考える。


 この船は、自分が乗るようにと誘われた船は、本当にそうやすやすと沈むのだろうか?


 マレス騎士団は精強をもって鳴るとはいえ、近衛騎士団の方が戦力としては各段に大きいだろう。

 まともに当たれば、たとえば平原地帯での野戦でぶつかれば、近衛騎士団が圧勝するに違いない。侯領軍と王国軍の比較であっても同様だ。

 では、まともに当たらないとしたら?

 そしてそもそも、即座に当たることができるのだろうか?


 ――自分が今ここにいて、しかもマレス侯の家臣団が王都から消えているならば。


 騎士団や軍を動かすための手配は確実に遅れる筈だった。

 あらかじめ糧食やその移送手段の手配、酒保商人との交渉と契約、そういったものがあってはじめて軍は動くことができる。

 その実務の中心を担う自分が今ここにいるならば。

 そして、執政府のあちこちの部署で執務を補助してきたマレス侯の家臣たちがまとめて引き上げられているならば。


 戻るまで事態はほとんど動きようがない。

 あの令嬢は、それを知っていて自分に出張を命じたのだ。王太子の初動を遅らせるために。


 笑い出したい気分になった。

 公用も母のことも単なる口実、視察という目的は自分が勝手に見出したつもりだっただけ。

 あの令嬢は自分を職務から遠ざけるためだけに公用を作り出し、その上こうして叛逆への加担を誘っている。


 ――そもそも自分だけなのか?


 このような手紙を受け取っているのが自分だけでないとしたら。

 執政府全体の動きを鈍らせるために最も効果的な、言ってみれば執務の結節点をあの令嬢が狙っているのだとしたら。

 複数の奏任書記官に同じことをしているはずだった。


 たとえば10人の奏任書記官に声をかけて、その中の半分でもそれに応じたとしたら。


 奏任書記官の激務は執政府の誰もが知っている。

 だからこそ、耐えきれなくなったかつての同僚が倒れ、余波を受けたラドミール自身もその寸前まで追い詰められたのだ。


 ラドミールは顔をしかめた。

 あのとき自分を救った侯爵令嬢はもういない。家臣団から差し向けてくれた祐筆も雑役夫も引き上げられている。


 そして始まるのはおそらく戦だ。


 王国の官僚たる地位を捨てて沈むかもしれない船に乗るか、王国への忠誠を取って確実な地獄へ戻るか。

 あの侯爵令嬢に感謝すべきなのか恨みを向けるべきなのか、ラドミールにはわからなくなっていた。


「ラドミール、食事の支度ができるわよ、そろそろ起きなさい」


 己を呼ぶ母の声で、ラドミールは心を決めた。

 本当の事情を伝えるわけにはいかないな、と口の端だけで笑い、手紙と小箱をしまう。


「ああ母さん、ありがとう、すぐ行くよ」



※ ※ ※ ※ ※



 前日に引き続いて代官所を訪れた奏任書記官は、代官に面会すると、丁寧な態度で幾通かの封書を手渡した。

 次の定期の公用使便で王都へ送ってほしい、と依頼する書記官に、代官は中身を尋ねた。


 視察の報告書です、執政府に宛てて、と書記官は答え、ではそのように、と代官は請け合った。


 同じ日の夕刻、港に停泊している快速船に、2人の客が乗り込んだ。

 旅慣れた風の若い男と、その母らしい老境に入った女性だった。


 ほどなく帆を上げた船は、滑るようにマノールの港から出航した。

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