マレス侯爵ランドルフの欠点(前)
マレス侯爵ランドルフ・ハーゼンは、領民の生活改善に心を砕く名領主、という評判だ。
父である先代、ランベルトほどの戦の才を見せたことはないが、そうであっても国境を守りつつ民の生活水準を向上させた手腕に疑いの余地はない。
だが、ランドルフには、彼に仕える誰もが知るささやかな欠点があった。
※ ※ ※ ※ ※
マレス街道を公用使として下ったアーヴェイルが、街道の終点であるマレスへ辿り着いたのは、王都を出立してからおよそ4日の後だった。
ただ移動のみというわけではない。
道中あちこちの領主に文書を手渡し、商館では協力を依頼し、街では噂を撒きながらの旅程だった。
疲労の極に達していたアーヴェイルではあったが、無論、彼に休むことなど許されていなかった。
侯爵公邸に辿り着いた彼は、馬を下りるや侯爵本人への面会を請う。
「王都名代様から、緊急の報せでございます。
閣下へ至急お目通りを」
落ち着いた口調と態度ではあったが、目の色に鬼気迫るものがあった。
「すぐに取り次ぐ。
メイロス殿、そなた王都から駆けて来たのか」
よほど重大なことに違いない、と察したのだろう、年配の騎士が頷いて請け合った。
「左様です。
ことは侯家の安危に関わりますゆえ、どうか」
「わかった――おい、誰か!誰かあるか!
王都から急使だ、至急閣下へお伝えせよ!王都からの急使である!」
騎士が声を張り上げると、いくつかの声とともにばたばたと足音が駆け去った。
「ひとまず部屋と軽い食事を用意する。
――それと着替えもな。一息入れて、身支度を整えたがよかろう」
「お気遣い有難く存じます」
答えてから、アーヴェイルはふと気付いた。
声を一段落として尋ねる。
「やはり臭いますか」
「少しな」
年配の騎士が苦笑とともに答えた。
「王都から駆け通しでは仕方あるまいよ。
閣下もお咎めはなさるまいが、まあ、身綺麗にしておくに越したことはない。
いずれにせよ、急使とは言え、すぐさまお会いになられるでもない。時間はある。
湯浴みとまではいかずとも、湯と手拭いくらいは用意させよう」
※ ※ ※ ※ ※
「――がお会いになられるとのことです」
誰かの声が聞こえた気がした。
目を開いたアーヴェイルは周囲を見回す。
窓から日が差し込む、広く明るい部屋だった。
いつの間にか、椅子に腰かけたまま眠っていたらしい。
「メイロス様?」
ノックの音とともに、訝しげな響きを帯びた侍女の声がもう一度響いた。
その声がアーヴェイルを現実に引き戻した。
侯爵公邸。これから侯爵に謁見して諸々を報告せねばならない。
「ああ、済まない。
すぐに出る」
言いながら立ち上がる。
身体を拭いて汚れた服を着替え、水を2杯とオレンジの果汁を1杯飲んで、軽食を口にしたところまでは記憶があった。
白パンにハムと薄切りしたチーズを挟んだ軽食が4つ並んでいた皿の上には、3つが手を付けられないまま残されている。
どうやら自分は、2つ目を食べようとして力尽きたらしい。
水差しからグラスに水を注ぎ、飲み干して息をつき、アーヴェイルは扉を開けた。
侍女と先刻の騎士が待っていた。
「少しは休めたか?」
「おかげさまで、どうにか」
頷いた騎士が廊下を歩きだした。
アーヴェイルが後に続く。
「名代様も無茶な人遣いをなさる。そなたなればこそ、かもしれないが」
「まあ、生きるの死ぬのの話ではありませんから。
――自分はどれほど休んでいたのでしょうか」
騎士の言葉の後半には答えず、アーヴェイルは自分の疑問を投げかけた。
「四半刻かそこらだ。大した時間ではない。
閣下もすぐに時間を空けてくださった。名代様からの急使となればな。
――ときに、報せはどのようなものなのだ?」
「お話しできません。少なくとも、閣下のお許しを得るまでは」
鉈かなにかで叩き切るようなアーヴェイルの返答に、騎士が小さく笑った気配がした。
「そうであろうな。まあよい、必要ならばいずれ知れることだ」
最初から期待などしておらず、話の接ぎ穂という程度のものだったのだろう。
足早に歩きながら短い会話を交わすうちに、2人はもう侯爵の執務室の前までたどり着いていた。
「閣下、王都の名代様からの急使を御案内いたしました」
扉をノックした騎士が声を張る。
「通せ」
扉の向こうから、落ち着いた声が響いた。
騎士が扉を開け、アーヴェイルは執務室へ足を踏み入れる。
礼をすると同時に、背後で静かに扉が閉まった。
大きな机の向こうで立ち上がったのがマレス侯爵、ランドルフ・ハーゼン。
白いものが混じり始めた赤褐色の髪に灰色の瞳。
穏やかな顔立ちではあるが、立ち居振る舞いには地位に相応の威厳を備えている。
「アーヴェイルか。よく戻った。
息災そうで何よりだ――半年ぶりか?」
「はい、春に王都へいらした時以来でございます、閣下」
「そうかしこまるものではない。アリアはどうしている?」
「お嬢様から文をお預かりしております。
閣下、まずはお人払いを」
執務室には執事と幾人かの祐筆がいた。
ふむ、と頷いたランドルフが彼らへ視線を向ける。
「聞いたとおりだ。
皆、話が済むまで外で一息入れてこい」
こういうところの言葉の選び方が、いかにもこの侯爵らしいと思わせる。
執事と祐筆たちは黙って立ち上がり、めいめいに一礼すると執務室を出ていった。
全員が退出するのを待って、アーヴェイルは書状を差し出す。
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