侯爵令嬢アリアレインの欺罔

 王太子エイリーク・ナダールは不機嫌だった。

 手許にはエズリン伯爵の使者が持参した書状と封筒がある。


「――それで」


 押し殺しきれなかった怒りが声に乗る。

 ひざまずいたまま顔も上げられない使者が、は、とその身体を更に一回り縮めるようにして答えた。


 居並ぶ重臣たちも、黙って事の成り行きを見守るだけだ。


「伯爵はそちらの書状のご指示に従ってございますれば――」


 王太子が手許の書状に視線を落とした。


『エズリン伯爵 レナルト・リアルディ殿


 陛下からお預かりした執政府内務省及び農部省の権限において、下記3項をただちに実施されるよう求める。


 1 西部にて偽公用使が出来せる件につき、執政府は次のとおり対応を決定した。

 (1) 全ての公用使に共通の合言葉を伝達すること。

 (2) 合言葉については定期的に変更し、変更内容も同様に伝達すること。

 (3) 当面、合言葉は『怪物』と『深淵』とすること。

 (4) 合言葉に対してしかるべき応答なき場合は偽公用使と見なし、ただちに捕縛・詮議すべきこと。

 (5) 詮議が10日以上に及び、なお確たる背後関係を得られぬ場合は、内務省にその旨通報すべきこと。


 2 東方メルザード王国にて大規模な動員の兆候ありとの情報あるにつき、執政府は次のとおり対応を決定した。

 (1) 貴領内にて備蓄せる糧食について、ただちにマレス侯領へ移送すべきこと。

 (2) 移送は軍用備蓄分の全量とすること。

 (3) 移送は直近の海港から船便によるものとすること。

 (4) 移送に要したる経費については移送及び受領の確認完了後、農部省宛てに請求すべきこと。


 3 前2項について、別添する貴領近在の各領主宛てに本状の写本を送付すべきこと。


 なお、本状については、機密保持の必要性に鑑み、受領の確認をせざるべきこと。


 執政府内務省勅任書記官職務代行者

 兼 執政府農部省勅任書記官職務代行者 アリアレイン・ハーゼン』


 簡潔な内容。

 あの侯爵令嬢の署名が入っている。


「――これに、従った、と?」


「仰せのとおりにございます」


 消え入るような声で使者が答えた。


「これに騙されて公用使を捕え!」


 王太子が立ち上がって叫んぶ。


「これに騙されて糧食をマレスへ送り!」


 使者に向かって書状を投げつけた。

 ばさり、と音を立てて、書状と封筒が毛足の長い絨毯に落ちる。


「あまつさえ近在の領主にこれをばら撒いたと!」


 荒い足取りで、平身低頭する使者の元へ一歩二歩と歩み寄る。


「そなたの主は、そう申しておるのだな?」


 もう使者はまともに答えることすらできない。

 許しを乞うようにひたすら頭を下げるのみだった。


「帰ってそなたの主に伝えよ、そなたの主は――」


 列席していたノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールは、まずい、と思った。


 ――これを最後まで言わせてはならない。


「お待ちくださいませ殿下!」


 そう思った瞬間には、反射的に飛び出して叫んでいた。

 ちょうど王太子と使者の間に、肥えた身体を割り込ませる形になった。


 緊張と恐怖のあまり声が裏返っていた。

 無論、本人に気にする余裕などはない。


「邪魔立てするなノール伯」


「殿下、ここはしばらく、しばらくお待ちくださいませ」


 王太子の怒りを押し留めるべく歩み寄ろうとしたが、膝が笑って言うことを聞かない。

 大勢の目の前で転がるという無様をどうにか晒さずに済んだのは幸運と言うべきだった。


「ノール伯、余の命が聞けぬというのか?」


「だっ、誰か、使者殿を別室へお連れするのだ!

 使者殿、沙汰は追って伝えるゆえ、しばし別室にて待たれよ!」


 首だけを振り向かせて侍従に命じる。

 それをきっかけに、凍えついたように動かなかった周囲が、ばたばたと動きだした。


 侍従がふたりがかりで使者の両脇を抱え、引き立てるようにして部屋から連れ出す。

 ルドヴィーコは、居並ぶ諸卿にも、ここはいいから、と目配せを送った。


 顔を引き攣らせていた内務卿が皆を取りまとめて退出する。

 慌ただしく扉が閉められ、室内に一応の静穏が戻ってきた。


 ルドヴィーコがふと気付くと、書状と封筒が絨毯の上に散ったままだった。

 身を屈めて拾い上げる。絨毯にぽたりと汗が落ちた。

 ハンカチを取り出して汗を拭く。手がわずかに震えていた。


 大きく息をついた王太子が、乱暴に腰を下ろす。

 先ほどまで座っていた執務机ではなく、ソファの方だった。


「なぜ止めた」


「御為にならぬと思ったからでございます、殿下。

 無礼のお叱りはいかようにも」


「――エズリン伯はあの書状に騙され、貴重な時間と糧食を浪費したのだ。

 罰されるのが当然であろうが」


「騙されたことは事実にございます。しかし――」


 ルドヴィーコが、拾い上げた書状と封筒を、ソファの傍らのテーブルの上に置く。


「封蝋に捺された封印も本物ならば、肩書も署名も本物。

 内容も辻褄の合わぬものではございません。

 定められた馬衣を着けた馬に乗った公用使がこれを届けたならば、誰が疑いを抱けましょうか」


「それでも王国に害を為したことに変わりはあるまい」


「まったく仰せのとおりでございます。

 しかしエズリン伯爵は忠誠のゆえに偽りを見抜くことができず、忠誠のゆえに従ってしまったのでございましょう。

 我らはかの追放者の一件を知っておればこそ、この内容が偽りと判断できますが、エズリン伯爵は何も知らずにこれを受け取り、そして従ったものでございます。

 これを罰すれば、エズリン伯爵は法と陛下への忠誠のために罰されることになってしまいます。

 公用使からの書状であっても、誰もかれもがもう一度確認せねば行動を起こせぬようになれば、国政はいかほど停滞いたしましょうか」


 ルドヴィーコは必死だった。

 こんなことで王国にひびを入れるわけにはいかない。

 やがてこの国の王となる王太子の、その未来の妻は己の娘なのだ。


 不機嫌な表情のまま、王太子が視線を逸らした。


「殿下、こたびの一件、そもそも陛下の公用使をもって偽りを行ったはかの追放者にございます。

 その罪を殿下はお咎めなさるのでございましょう。わたくしめも、叛逆への罰はいかに厳しくとも差し支えなしと存じます。

 しかしながら――」


「ではどうせよと言うのだ」


 視線を戻した王太子が問う。

 既に腹を括っていたルドヴィーコは、視線を逸らさなかった。


「お許しなさいませ、殿下」


「あれを許せと言うのか」


「お気持ちは重々、わたくしめも重々お察しいたします。

 使者殿もエズリン伯爵もお怒りは察しておりましょう。

 だからこそ殿下、お許しなさいませ」


「わかった、もうよい。

 許す。ノール伯、そなたが使者に伝えてこい」


「なりませぬ、殿下。

 どうか御自身でもってお伝えくださいませ」


「――この上まだ言うか」


 言葉こそ不満に満ちているが、語調は先のそれよりも落ち着いていた。


「御為を思えばこそでございます。

 無礼のお叱りは――」


「それはもうよい、聞き飽きた」


 ため息とともに王太子が吐き出す。


「なにゆえ余が自ら伝えねばならんのだ」


「使者殿はあの有様でございました。恐縮の限りだったことでございましょう。

 畏れながら、御前から退出させたのはわたくしめにございます。

 そのわたくしめが伝えたのでは、王太子殿下の御寛恕が使者殿にもエズリン伯爵にも伝わりませぬ。

 ここは御自ら、じかにお伝えくださいませ。こたびのことは罪に問わぬ、より励め、と」


「それで変わるものなのか」


「じかにお言葉をお掛けくだされば、使者殿は感じ入りましょう。

 お怒りを見せたあとであれば尚更でございます。罰されるべきところを広い心でお許しくださった、と。

 御心はエズリン伯爵にも必ずや伝わりましょう。伯爵は忠節の士にございます。

 御心が伝わったならば、今までにも増して忠誠を尽くすことでありましょう」


「――よい、余の負けだ。

 許す。出向いてそのように伝える。案内せよ、使者はどこにいる?」


 ふ、と息を吐き、王太子が立ち上がる。

 汗を拭いていたルドヴィーコが慌ててそれに倣った。


 ばたばたと扉へ駆け寄り、押し開いて手近にいた侍従に声をかける。


「使者殿をどこへお連れした?

 殿下がお会いになる、すぐに殿下を御案内せよ」


 は、と侍従が答えて腰を折る礼をした。


 すぐに王太子が姿を見せ、侍従が先に立って歩き出した。

 王太子が続き、ルドヴィーコが更にその後に続く。


 別室で待たされていた使者は、王太子の来訪を告げられて気を失わんばかりに驚いた。

 半ば平伏の態で出迎えた使者に、王太子は労いの言葉を与え、罪には問わぬからより励むよう伝えよ、と声をかけた。


 先刻とは別の意味で顔を上げられなくなった使者を置いて部屋を出た王太子は、廊下を歩きながら、低い声でルドヴィーコに尋ねた。


「あれで良かったのか、ノール伯」


「殿下がお示しになられたお姿こそが、まさに王たる者の度量にございます。

 わたくしめはまったく感服いたしました――使者殿の感服たるや、それ以上でございましょう」


 そうか、と先に立って歩く王太子が呟く。


 小さからぬ安堵を覚えながら、ルドヴィーコは、己になぜあのような行動ができたのか、と思い返す。

 理由は結局のところ、自分でもよくわからなかった。

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