王太子エイリークの変容

「どういうことなのだ?」


 王太子エイリーク・ナダールは苛立ちを隠そうともしなかった。

 もとより己の気分を表に出して咎められる立場でもない。


「近衛騎士団は、いつでも発てる状況でございます。

 しかし――」


 答えた軍務卿が、ちらりと居並ぶ諸卿へ視線をやる。


「軍を発する用意が、整っておりませぬで――しばらく、今しばらく」


 農部卿が平身低頭の態で詫びる。


「それはもう聞いた。

 なぜそうなっているのか、と訊いておるのだ」


「軍を発するにせよ、糧食その他の準備は必須でございます。

 いかほどの兵を動員するかにもよりますが、マレス侯領で動員できる数を確実に上回り、数でもって圧倒してやらねばなりません。

 そうなれば、その分だけ、マレス街道沿いの各所領で用立てさせる必要がございます。しかし――」


 軍務卿が顎髭を撫でながら補足した。


「わかっておる。備蓄が奪われたことも知っておる。

 であればエズリンよりも西から移送するほかあるまい。いったい何が整わぬのだ」


「ぶ、物資の備蓄と移送を担当する書記官が、突如辞職いたしまして――」


「――は?」


 王太子の声のトーンが一段上がる。


「このような折にか?この危急のときに?

 そなた一体部下にどのような監督をしておるのだ?」


「は、その、出張先から突如――辞表のみが」


「――卿のところもか」


 おろおろと言い訳を並べる農部卿に、商部卿が呻くような声をかけた。


「『も』?」


 王太子が訝しげな声を上げる。


「商部省でも同様のことがございましてな。

 商船の管理を担当する書記官が、出張先から辞表を」


 苦い顔をした商部卿が応じた。


「書記官が突然、引継ぎもなく辞職したうえ、省内で働いておった祐筆や下働きが引き上げられておるということでございまして」


「なんだそれは。誰がどこへ引き上げたというのだ、このようなときに」


 諸卿は互いに顔を見合わせた。

 誰もその名前を口に出したいと思っていなかった。


 自然と、視線がノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールに集まる。

 幾人かの顔は、お前は内大臣だろう、と言っていた。


「――かの追放者にございます、殿下。

 殿下御裁可のもと、執政府の人員が足りぬ部署へ、祐筆や下働きを送り込み、あるいは職務の一部を侯家王都邸で引き取っておったとか」


 勘弁してくれ、と心の中で悲鳴を上げながら、ルドヴィーコが説明した。

 そのルドヴィーコとて全てを把握しているわけではない。

 ここ数日で諸卿と会い、かき集めてきた話をまとめたに過ぎなかった。


 王太子自身もそのことを思い出したらしい。

 苦虫を数匹まとめて噛み潰したような表情になる。


「――どれほどの数になるのだ、それは」


「部署によって異なりましょうが、あちこちに派遣しておったとは伺っております。

 1つの部署には多くて2名ほどですが――」


 執政府はその部署の数が多い。

 国の発展、文書主義の徹底、商業と流通の発達につれて、必要な判断と文書の量は級数的に増大した。


 もともと省という名で9つしかなかった執政府の部署は、増大した職務を滞りなく回すために専門化によって枝分かれを繰り返し、巨大で複雑な機構を持つようになっている。

 省の名に卿をつけて呼ばれる大臣たちですら、よほど意識していなければ、省から分かれた枝の先で何が起きているかを把握できてはいないのだ。


 まして、その末端の部局で働くひとりひとりの書記官やその部下たちにまで、目を配れているかと言えば。


「ええい、もうよい」


 王太子が吐き捨てる。


「まずは欠けた人員の把握だ。

 欠けたところは補充をせねばなるまい。こたびの戦に必要な部署に人を配置するのだ。

 式部卿、よいな?」


「は、殿下、仰せのままに」


 人事を司る式部卿の顔色が悪い。


 下級の事務官であればどうにか補充ができぬこともない。

 だが、事務官たちを統括し、彼らに指示を出す役回りの書記官は、簡単に補充できるものではない。

 どこかの部署から誰かを引き抜けば、そこで混乱が起こる。その想像がついてしまったのだった。


 とはいえ、王太子の命であれば、やらずに済ませるわけにもいかない。

 ましてそれが戦に関わるとなれば、どうにかする、以外の答えがあるはずもなかった。


「いつまでだ」


「は」


 短い王太子の問いの意味を測りかねた式部卿の顔に疑問符が浮かぶ。


「いつまでに体制を整え、戦ができるようになるのか、と訊いておる」


 苛立った声で、王太子が問いを重ねた。


「は、なるべく早期にと考えてはおりますが――なにぶん、書記官は補充が難しゅうございまして――」


「だからそれがいつなのかと訊いておるのだ」


「その、畏れながら、殿下」


「なんだノール伯」


 横合いから口を挟んだルドヴィーコに、王太子が応じる。

 鋭い視線から解放された式部卿が、あからさまに安堵した表情になった。


 王太子の不機嫌さは相変わらずではあるが、幾分当たりが和らいでいる。

 相手が替わったという以上に、婚約者の父であるというところが大きいのだろう。


「いち早く、というのはごもっともではございますが、体制の整わぬうちに軍を発して、万が一、万が一ではございますが、負けるようなことがありますれば、殿下の威信に関わります」


 王太子が、ふむ、と唸るような声を漏らした。


「急がねばならぬことはノール伯、そなたにも解っておろう。

 もたもたしておっては冬が来るのだぞ」


「まことに仰るとおりでございます、殿下。

 戦であれば素早く動くに越したことはございませぬ。されど、やはり最低限の体制は整えねば、勝利が確かなものとは申せますまい。

 ひとまず幾人かの大臣にて協議をすべきかと存じます。

 誰が何をどう調べ、誰が何をどう動かすかを決めねば、いたずらに労を重ねるのみで事が前に進みませぬ」


 しばらく黙ったまま考えていた王太子が、わかった、と頷いた。


「そなたの言はもっともだ、ノール伯。

 必要と思われる諸卿でもって協議するがよい」


「は、お聞き入れいただき、まことに――」


「仕切り役はそなただ。1刻やる」


「――は?」


「は、ではない。そなたが言い出したことであろう、ノール伯」


「は」


「そなたが、協議を仕切り、結果を取りまとめて、余に報告せよ。よいな」


 1節1節を区切り、そのたびに指をルドヴィーコに突きつけながら、王太子は言った。

 なぜ、とルドヴィーコは解せない思いを抱えている。


「余は部屋へ戻る。ここは自由に使ってよい。

 ――よいなノール伯、1刻後だ。待っておるぞ」


 言うだけ言って、王太子はさっと席を立った。

 その場の全員の礼に見送られて、侍従が開けた扉からすたすたと退出する。


 執務室に残された諸卿とルドヴィーコは、互いに顔を見合わせた。


 省をまたぐ協議であるから、協議を仕切るのは省の長よりもルドヴィーコが適任ではある。

 とはいえ、数日前までの王太子であれば、式部卿あたりに対応を丸投げするか、あるいは苛立って怒鳴り散らすかだった。


 ――いったい何がどうなっているのだ?


 口にこそ出さないが、それが全員の疑問だった。

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