侯爵家従士アーヴェイルの死線(後)

 変事が起きたのは翌日の夜半。

 火事だ、と叫ぶ声が聞こえた。本館の方であるらしい。


 起き出してきたアリアレインに、アーヴェイルが頷いてみせる。


「本館で火が出たようです。

 賊か否かは定かでありませんが、念のためお支度を」


「お支度、と言ってもね」


 髪をまとめるくらいかしら、とアリアレインが応じた。

 身に着けているものは夜着ではなく、ゆったりとした部屋着だ。


 せめて夜着はご容赦を、と主張したアーヴェイルとの、それが妥協の結果だった。


「わたしはべつに気にしないわよ」


「私と周囲が気にするのです」


 そういう会話のあとで、アリアレインは少し古くなった部屋着を持ってこさせたのだった。


 念のため、とは口にしたものの、アーヴェイルはそれが偶然や事故だとは考えていない。

 陽動か本命かは別として、間違いなく侯爵一家の暗殺を目的とした動き、と推測していた。


 廊下が騒がしくなり、賊が侵入したようです、という声がかすかに聞こえた。


「お嬢様、こちらへ」


 窓に近いベッドに腰かけていたアリアレインに声をかけ、窓から離れた部屋の中ほどの壁際に置いた椅子に座らせる。

 アーヴェイル自身も丸い小椅子を近くに置くが、腰は下ろさない。


「座らないの?」


「長くなるようならば」


 腰を下ろした状態からでは、何かあったときの反応はどうしても遅れる。

 だが、身体も精神も、緊張した状態を長時間保てるようにはできていない。

 そのあたりを見極めて必要なときに必要なだけの休息を、自分に与えてやらねばならない。


「お嬢様も、あまり気を張りすぎではもちませんから」


 言いながら、それもそう簡単なことではない、とアーヴェイルは思っている。

 自らの命を誰かが狙いに来ているという状況で、なかなか平静を保てるものではない。


「あら、そう見える?」


 髪をまとめた――長い飾り紐を使って、簡単に後ろで束ねただけだったが――アリアレインが首を傾げた。


「案外落ち着いているのよ、これでも。

 そのためにあなたに、ここにいて、と言ったのだもの」


 小さく息をついて、アーヴェイルは扉の方へ向き直った。


 緊張を強いられる状況であっても、落ち着いて臨めることはある。

 たとえば、あらかじめできることをし尽くした、と確信できるようなときがそれだ。


 ――お嬢様もそうなのかもしれない。


 いざ事が起きたときに、アリアレイン自身ができることはほとんどないだろう。だから徹底して護衛にこだわったのだ。

 体面や外聞を気にして最善を尽くしたと言い切れないとき、アーヴェイルは結果に納得できるのか、とまで言って。


 その最善の選択肢が自分であるということが面映ゆくもあり、嬉しくもあった。


 ――閣下からは、また甘やかしているとお叱りを受けるかもしれないが。


 それはそれでいい。

 自分がお嬢様の、いざというときの最善であるのならば。


「それならば、ようございます」


 肩越しに振り返って頷いてみせる。

 アリアレインが小さく笑い――すぐに口許を引き締めた。


 次の間から、激しくドアを叩く音が聞こえた。


「本館に多数の賊が侵入した模様でございます、増援を――」


 かた、と小さくアリアレインの椅子が鳴った。


 扉一枚、その向こうから、詰めている従士たちの緊張感が伝わってくる。


 腰を浮かせて目顔で問うアリアレインに、アーヴェイルは首を振った。

 1箇所に集めて守ろうとしなかった、ということはそういうことだ。


 誰かが――侯家の誰かが、確実に生き残らねばならない。

 そのために分散したのだ。他所へ増援を送ることなどできない。


「あれが本物である保証もありません」


 それだけ言って、手近な燭台に手を伸ばし、蝋燭の火を消す。

 ひとつ、ふたつと同じように燭台の灯りを落とし、最後のひとつの前に立って、アーヴェイルはアリアレインを見つめた。


 緊張した表情ながらも背筋を伸ばして座るアリアレインが小さく頷くのを確認して、最後の灯りを消した。

 寝室が、闇に包まれる。


 アーヴェイルは記憶と身体の感覚だけを頼りにアリアレインの側まで戻り、囁くような低い声で告げた。


「お側におります。どうかご心配なさらず」


 アーヴェイルにも、アリアレインの表情は見えない。

 だが、かすかに笑うような気配があった。


「わかってる。ありがとう」


 アリアレインの返答を聞きながら、アーヴェイルは腰の剣帯から小剣を引き抜く。

 黒鋼を鍛え、短くも幅広で肉厚の刃を持つそれは、室内での取り回しを考えてアーヴェイル自身が選んだ武器だった。

 その重さのゆえに扱いに慣れが必要ではあるが、小剣ながら骨をも断ち切るだけの威力がある。


 激しい音が扉の向こうから響いた。

 廊下に続く扉自体を破られたか、あるいは窓から身体ごと誰かが突っ込んできたか。


 幾つもの足音、金属同士が打ち合わされる音、叫び交わす声、苦痛に満ちた悲鳴、何か重いものが絨毯の上に落ちる音。


 小さな寝室とその隣室は、今や戦場と同じような喧騒に包まれている。


 窓を破って外へ逃げるか、と一瞬だけ考え、アーヴェイルはそれを諦めた。

 ここは3階。

 アーヴェイルひとりならばどうとでもなるが、アリアレインを抱えて飛んで無事に済ませられる自信はなかった。


 加えて、確率は高くないとはいえ、窓の下に誰かが配置されていればそれまでだ。


 ほんの寸刻で、隣室からの物音は、急速にその数を減らしていった。

 室内に沈黙が落ちる。隣に詰めていた従士たちは全滅したに違いなかった――賊の方がいなくなったのならば、従士たちからその報告があるはずだ。


 ややあって扉が乱暴に開かれた。

 隣室からの明かりで室内が照らされる。


 扉の向こうに、倒れた人間の手と足が見えた。


 暗く影に沈む部屋の壁を、そこだけ明るく切り取ったようになっている扉から、するりと3人の賊が入ってきた。

 いずれも相応の手練れ、とアーヴェイルは踏んでいる。


 ある程度の間を取って並ぶ3人からは、どのような隙も感じ取れない。


「マレス侯爵が息女、アリアレイン――相違ないな」


 中央に立つ賊が尋ねた。

 わずかに照らされる顔は、残るふたりよりも年嵩。頭目、ということなのだろう。


「――そうであれば?」


 アーヴェイルが問い返す。


「お命を頂戴する」


 知れ切った返答だった。

 儀式のようなもの、ということなのかもしれなかった。


 ――と。


 一度は静かになった廊下から、また物音がした。

 装具を鳴らして駆けるいくつかの足音。


 そして。


「姉様!」


 クルツフリートの大声が響く。

 ほんの半瞬、賊が扉の外へ意識を向けた隙を、アーヴェイルは逃がさなかった。


 足下にあった丸い小椅子を、頭目へ向けてふわりと蹴る。

 同時に賊の方へ向けて一挙に間合いを詰めながら、奇術かなにかのように左手に現れた短刀を一動作で右の男へ投げつけた。


 短刀を避けられなかった男の喉元に、刃が深々と突き立った。男は崩れるように後ろへと倒れる。


 アーヴェイルは頭目の間合いに入る直前で強引に方向を変え、左に立っていた男の方へ踏み込んで小剣を振る。

 突進に反応していた頭目は小椅子を片手で受け止め、小さく舌打ちした。


 首を横薙ぎに狙った斬撃を辛うじてかわした賊が、短刀でアーヴェイルの腕を狙った。

 アーヴェイルは左手で賊の腕をはたいて刃を逸らし、次いで賊の脚に蹴りを入れて体勢を崩させる。

 大きく身体を泳がせた賊の右腕を取り、その手が握る短刀を賊自身の左脚に突き刺した。


 数瞬の攻防を終えて二歩三歩と飛びすさり、小剣を構えなおす。


 目の前で、己の脚に突き立てられた短刀を、賊が恐怖のまなざしで見つめていた。


「ひ」


 慌てて刃を抜くまでの1呼吸、そのわずかな時間で、それは効果を発揮していた。


「あ、あ――ぐあ、あああああああああ」


 己の足を抱えるようにして賊が倒れ込む。


「あ、あがっ、がっ」


 身体を折り、胸を掻きむしるように腕が動くが、無論なんの効果もありはしない。

 咳き込むような呼吸を二度三度と繰り返し、そのたびに口から血を吐き出す。


 吐き出した血のついた口の周りが、見てそれとわかるほどに爛れていた。


 すぐに賊は動かなくなった。

 短刀が足に刺さって、ほんの数呼吸の時間しか経ってはいない。


 アーヴェイルの背後で、小さく息を呑む音がした。


生き血喰らいブラッド・イーター、か」


 アーヴェイルが呟く。

 ただひとり残った頭目は答えずに、己の短刀を抜いた。

 その刃が、夜目にも黒く濡れている。


 生き血喰らいブラッド・イーター

 暗殺用の、即効性にして致死性の毒だった。


 生き血喰らいブラッド・イーターは、それ自体で毒性を持つわけではない。

 だが、血液と混和した途端、それは血液そのものを、強烈な腐蝕性を持つ猛毒に変じさせる。


 わずかな量が傷口から入っただけであっても、毒と化した血液は全身を廻る。

 心臓、そして肺も例外ではない。


 結果、犠牲者は短くも激しい苦痛とともに、確実な死を与えられる。


 解毒剤も中和剤も存在するにはするが、身体に入ってしまえばものの役に立つことはない。

 薬が効く前に、確実に命が奪われているのだから。


 廊下からは、また戦場のような喧騒が聞こえてきた。

 いかに腕が立つとはいえ、あの毒刃を持つ賊を相手に侯家の子息が立ち回るなど、およそあり得る話ではない。


 ――結局のところ若様もお嬢様の弟君、先代様の孫、か。


 アーヴェイルは小さく笑った。


 己の危機を斬り抜けて、そして館の中を駆けて来たのだろう。

 次代の侯爵たる姉、アリアレインを救うために。


 しかし、とアーヴェイルは口許を引き締めた。

 ここで倒れれば、アリアレインは勿論のこと、クルツフリートの命まで危うい。


 ――最悪でも相討ちには持ち込まねば。だが。


 目の前で短刀を構える賊の頭目の、その刃をかすらせもせずに勝てるものかどうか。

 アーヴェイルにはまったく確信が持てなかった。


 ――ならば。


 即座に覚悟を固めて間合いを詰める。

 無造作に思えるほどの所作ではあったが、己の身体を頭目とアリアレインの間に置いていた。


 視線と肩の動きでアーヴェイルを牽制する頭目に構わず、間合いの半歩外から踏み込んで小剣を振るう。

 紙一重のところでかわした頭目が、アーヴェイルの左側に回り込んだ。


 体勢を立て直しながら、アーヴェイルが小剣を振り上げる。

 その重さのゆえに、動作がわずかに遅れた。


 左の肩口を狙って突き出された短刀の一撃、死をもたらす毒が塗られたその刃を、アーヴェイルは左手で受け止める。

 掌から手の甲までを短刀が貫き、鍔のところでようやく止まった。


 半瞬ののち、毒刃を突き立てて勝利を確信した頭目の目が、驚愕に見開かれた。

 アーヴェイルが振るった小剣は、アーヴェイル自身の左腕を、手首と肘の間で斬り落としていた。


 アーヴェイルは返す一撃で短刀を握った頭目の右手首から先を飛ばし、更に踏み込んで頭目の首に小剣を突き込む。

 柔らかい感触のあと、アーヴェイルの右手に、硬い手応えが伝わってきた。

 刃を引き抜くと、頸椎を絶たれた頭目が、物も言わず、前のめりに倒れた。


 小剣を構えたまま一歩二歩と退き、頭目が動かないこと、そして生き血喰らいブラッド・イーターがもたらす死が訪れないことを確認して、ようやくアーヴェイルは小剣を手放した。

 毛足の長い絨毯に小剣が落ちるくぐもった音を聞きながら、膝をつく。


 出血を止めようと右手で左腕を押さえたが、既におびただしい血が失われていた。

 身体の平衡感覚が失われ、床と壁とがぐるりと廻る。


「い、」


 倒れたアーヴェイルの耳に、


「嫌ぁああああああああ!」


 今まで聞いたことのない、アリアレインの悲鳴が聞こえた。

 遠のきかけたアーヴェイルの意識が、また繋がる。


「いや、嫌よアーヴェイル」


 震える声。

 震える手で、髪を止めていた飾り紐を引きむしるように外し、


「こんな、こんなの嫌」


 意外なほどの力でアーヴェイルの腕に巻き付けて縛る。


「お願いだから、お願いだから!」


 抱きかかえるように、首に腕が回された。


 ――お召し物が、汚れてしまうではないですか。


 どこか他人事のようにそう思い、アーヴェイルは、頬に雫が当たるのを感じ取った。

 視線だけを上げて仰ぎ見た、周囲がかすむ視界の中で、美しい顔を歪ませたアリアレインが泣いていた。


「――お嬢様」


 かすかに笑みを浮かべたアーヴェイルが呼びかけて、右腕を上げる。

 ただそれだけのことに、残っている気力をすべて使い尽くすほどの努力が必要だった。


 持ち上げた右手が、アリアレインの頬に触れる。


 ――そのようなお顔を、なさらないでください。


 口に出したつもりだったけれど、それは言葉にはならなかった。

 扉からばたばたと駆けこんでくる誰かの足音を最後に、アーヴェイルは意識を手放した。

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