侯爵令嬢アリアレインの婚約
アーヴェイルが意識を取り戻したのは、それから2日後だった。
顔に当たる日の光の眩しさと、頬を撫でた風の冷たさに目を覚ましたアーヴェイルは、しばらくぼんやりと天井を眺めていた。
自分が今どこにいるかわからず、なぜ眠っていたかも理解できていなかった。
ずきりと自己主張する左腕の痛みが、アーヴェイルに、あのときのことを思い出させた。
「――お嬢様は」
自分でははっきりと口に出したつもりが、ほとんど声にならなかった。
かすれたような音が、唇から漏れ出ただけだ。
それでも、その音は、部屋を整えていた侍女の耳に届いたらしい。
驚いたように振り返った侍女と目が合う。
身体を起こそうとしたが、頭を持ち上げることさえできなかった。
「お嬢様は」
唾液すら出ない渇ききった口だったが、今度はもう少しはっきりと発音できた。
「ご無事でいらっしゃいます」
侍女の返答に、全身の力が抜けた。
枕からどうにか浮かせかけていた頭が、もう一度枕に落ちる。
目を閉じたアーヴェイルの耳に、慌ただしく誰かを呼ぶ侍女の声が残った。
※ ※ ※ ※ ※
アリアレインがその報せを受け取ったのは、父侯爵ランドルフの執務室だった。
「メイロス様が、目を覚まされたとのことです」
ノックとともに入ってきた従僕が告げた。
祐筆たちから、おお、という声が上がる。
左腕を失う重傷を負ったアーヴェイルは、あれからただちにお抱えの医師によって手当されていた。
その場では一命を取りとめたものの、目を覚ますかどうかは五分と五分、というのが医師の見立てだった。
目を覚ましたのであれば、ひとまずの峠を越えた、ということなのだろう。
あれこれと言葉を交わす祐筆たちには加わらず、アリアレインは天井に視線を向けて、深く深く息をついた。
安堵とともに、後悔と申し訳なさがアリアレインの心の中に広がる。
「会えるのですか?」
「いいえ、まだお会いには。
しかし、もう命の心配はなかろう、と」
「そう。
では、会えるようになったら教えて。見舞わなければ」
素気ないとも思えるような言葉だった。
もう一度、今度は小さく息をついて手許の書面に視線を戻したアリアレインの、その口許がわずかに笑っているのを見たのは、ランドルフだけだった。
※ ※ ※ ※ ※
主従が面会を許されたのはさらに4日後のことだった。
アーヴェイルは、どうにかベッドの上で身体を起こして過ごせるようになっている。
お抱えの医師も驚くほどの回復ぶりではあった。
部屋に入って来たアリアレインを見て背筋を伸ばしたアーヴェイルを、そのまま、とアリアレインが手振りで制する。
ついてきた侍女に、あなたは外で待っていて、と柔らかく命じた。
黙って一礼した侍女が退出し、扉が閉められる。
当のアリアレインは、アーヴェイルのベッドに腰を下ろした。
「お嬢様」
「――良かった。
お礼と、お詫びを言わなければと思って」
「このような姿で、申し訳ありません」
どうにか立ち上がって用を足せるようになったのが2日前。
それでもまだ、ベッドから立ち上がるためには他人の手を借りねばならない。
「いいの。
わたしを救ってくれたのだもの。
ありがとう、アーヴェイル。ごめんなさい」
アリアレインの視線が、包帯に包まれたままの左腕に向けられる。
アーヴェイルがあのとき自分で断ち切った手首と肘の半ばから、その先がない。
「いいえ、お嬢様が謝られることなどありません。
私が望んだことです。あなたを守ることができた。
私もまだこうして生きている――手当をしてくださったおかげです」
それは偽りなく、アーヴェイルの本心だった。
それでも、胸を締めつける心残りはある。
以前のように護衛として側に立つことはできそうになかった。
傷が癒え、体調が元に戻ったとしても無理だろう。
片腕では護衛としての役目を果たすこと――アリアレインを守ることはおぼつかない。
「もはや護衛としてお側に立つことは叶わないでしょうが」
「――そうかもしれないわね」
珍しく曖昧に濁した口調だった。
「ともかく、戦は終わりよ。
アラスの峠では雪が降ったそうじゃない。
もう春まで、あちらから軍が峠を越えることはできないわ」
アリアレインの言葉に、アーヴェイルははい、と頷く。
「それに、王の影も。
あれだけの人数を使って仕損じたのだもの。
当分は動かせないはずよ」
「はい」
「だからね、アーヴェイル、あなたは心配せずに傷を癒して」
「――はい」
自分を少しでも力づけようとしてくれている。
そう思ったから、アーヴェイルは、笑みを作って頷いた。
小さな部屋に、短い沈黙が落ちる。
「ねえアーヴェイル」
沈黙を破ったのはアリアレインの方だった。
「あの夜あなた馬車の中で、釣り合わない婚約だった、って言ったじゃない?」
アーヴェイルの胸の中で、心臓がひとつ大きく脈を打った。
――覚えておられたとは。
何の気なしに漏らしてしまった言葉のはずだった。
「そう申しました、たしかに」
「どういう相手なら釣り合うの?」
答えようとしてアーヴェイルは言葉に詰まった。
地位や身分ではない。それは確かだ――王太子が釣り合わなかったのだから。
人柄か、能力か、あるいはそれ以外のなにかか。
数瞬考えて、自分では答えようがない話だ、と思い至る。
「お嬢様を理解して、お嬢様がお幸せになれるお相手であれば」
それ以外にない。アーヴェイル自身が願うものがそうであるから。
そう、とアリアレインが小さく頷く。
「お嬢様は、どのような殿方であれば、とお考えなのですか?」
ものの弾みのように尋ねてしまってから、しまった、とアーヴェイルは思った。
聞いてどうなるものでもない。
それに、お嬢様の望みを体現したような相手がこの先現れたとして、それを自分が心から祝福できるものかどうか、まったく自信が持てなかった。
そうね、と応じたアリアレインが小首を傾げた。
なんとなく気まずくなったアーヴェイルが、開かれた窓に視線を逸らす。
カーテンが揺れた。
風が運んできたのだろう、潮の匂いがした。
槌音が。
人々の歩く靴音が。
誰かが誰かを呼ぶ声が。
石畳の通りを走る馬車の音が。
会話の途切れた部屋の中に、街の喧騒が聞こえてくる。
「わたしのことを、よく知っていて」
ゆっくりとアリアレインが話しだす。
「わたしのことを、きちんと理解してくれて」
ひとつずつ、指折り数えるような。
「わたしを、側で支えてくれて」
区切りながらの口調だった。
「わたしに向けられた理不尽には、わたしのかわりに怒ってくれて」
おや、とアーヴェイルは小さな違和感を抱く。
今更のように、自分に向けられた視線を感じた。
「いざというときには、わたしのために戦ってくれて」
「お嬢様、お戯れならば――」
耐えきれなくなったアーヴェイルがアリアレインに視線を向ける。
正面から目が合った。
言葉を止めず、ひとつひとつ話しながら、灰色の瞳を持つ切れ長の目が、まっすぐにアーヴェイルを見つめていた。
「片腕を犠牲にしてでもわたしを守ってくれる、」
アーヴェイルが無事な右腕を伸ばしてアリアレインを引き寄せるのと、アリアレインが最後の一言を口にしたのが同時だった。
「――わたしの従士」
「お嬢様」
熱と激情を押し殺しきれないかすれた声で、アーヴェイルがアリアレインを呼んだ。
抱き寄せたアーヴェイルの肩口で、アリアレインが安堵したように小さく息をつく。
「駄目よ、アーヴェイル」
そう言われて身を離そうとしたアーヴェイルの背中に、アリアレインの腕が回される。
自分からアーヴェイルにそっと身体を預け、アーヴェイルを抱きしめながら、アリアレインが囁いた。
「――こういうときは、アリアと呼んでくれなければ」
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