番外編短編集

ノール伯爵ルドヴィーコの憂鬱(前)

 『謹啓

  マレス侯爵 ランドルフ・ハーゼン閣下

  ひとかたならぬ恩ある閣下にこのような書状をしたためることとなり、大変に申し訳なく存じます。わが娘クラウディアが、』


 そのように書き出して、ノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールのペンが止まった。


 ――クラウディアが、なんだ?


 取り返しのつかぬことをいたしました?

 貴家の御令嬢に、無礼を働きました?

 貴家の御令嬢のお心を傷つけました?


 どれもこれも適切とは思えなかった。ため息をついて顔を上げ、窓に視線を移す。よく手入れをされた庭の木々と、その向こうに秋らしいよく晴れた午後の空が見えた。


 執務室ではなく、談話室である。執務室はたしかに効率的に仕事を進められるよう整えられていて、だからちょっとした手紙や書き物をするには最適な場所ではあった。昨日、王太子の婚約解消とマレス侯爵令嬢の追放の一件を聞いて、ルドヴィーコはいささか睡眠不足に陥っている。今朝から執務室で、本来の職務――ノール伯爵としてのあれこれを放り出すように悶々と考え続けたが、結局、詫びの手紙の一通も書くことができなかった。


 昼食を摂って、午後は少し気分を変えようと、ルドヴィーコはこの談話室で白紙に向かっている。


 ――一体この先、どうなるのだ?


 娘であるクラウディア・フォスカールは王太子の婚約者の地位を奪い、王太子はもとの婚約者、マレス侯爵令嬢アリアレイン・ハーゼンに追放の処断を言い渡している。

 追放刑そのものは当人の謝罪で解いてもよい、と王太子は言っていた。それはそれでよい――よくはないが、よいことにできなくはない。問題は婚約者の、つまり将来の正妃としての椅子の方だった。


 クラウディアによれば婚約解消の宣言は衆人環視のなかで行われ、侯爵令嬢は一切の異を唱えることなくそれを受け入れた、という。つまりその場にいた全員が証人で、王太子自身が念を押すように「皆もそのように知りおけ」と言っていた、とのことだった。

 少なくとも婚約解消の一件については、王太子は考え直す気がない、ということだ。


 なぜあの侯爵令嬢を、という疑問は尽きない。

 己の娘にもたっぷりと手と金をかけ、育て上げたルドヴィーコだからわかる。親の欲目を差し引いても伯爵令嬢に求められる水準を超えた知識と教養を、娘のクラウディアは持っている。だが、聞こえてくるマレス侯爵令嬢の噂のあれこれから見れば、どう考えてもクラウディアが並び立てるような相手とは思えない。何しろ相手はクラウディアと同じ年頃にも関わらず、王都におけるマレス侯爵の名代を任されているような才媛なのだ。


 ――まあ、人の心はわからない。理屈だけではないものが、そこにはある。


 ルドヴィーコはそれを、身に染みて知っている。理屈でいくならば、妻が――ベアトリーチェが自分と結婚することだって、相当に考えづらい話だったはずなのだ。


 首を振って、書きかけの手紙に視線を戻す。貴家の、と書こうとして、文字がひどくかすれた。羽ペンの先についたインクが、長い考えごとの間にほぼ乾いていたのだった。

 ため息をついてペンを放り出し、書きかけだった手紙を丸める。朝から数えて4枚目だった。目上の相手に出す詫び状であるから、それなりによい紙を使っている。自分は一体なにをやっているのか、と思いながら、もう1枚を紙挟みから取り出して机に置いた。


 鍵穴に鍵を差し込む音がした。ルドヴィーコはのろのろと視線を上げて、扉の方を見る。この屋敷でこの部屋の鍵を持っているのは3人しかいない。自分自身と家宰、そして妻のベアトリーチェ。


「あら」


 扉から姿を見せたベアトリーチェが、ルドヴィーコを認めてにこりと笑った。

 たっぷりとした金の髪に形のよい紫色の瞳。甘く整った顔立ちに染みひとつない白い肌。すらりと伸びた手足。妻の美しさは、出会ってから20年を超える今でも衰えることがない。


「こちらでしたのね、旦那様」


 ついていた侍女に、お茶を、と柔らかく命じる。


「お菓子はほら、昨日買ってきてもらった、あれがあるでしょう? 切り分けてお持ちして。旦那様と私と、ふたり分。お茶は合うものをお願い」


 愉しげに言う妻を見て、ルドヴィーコは小さく息をついた。

 妻はいつも、ルドヴィーコの悩みのすべてを理解してくれるわけではない。だが、妻は妻の楽しみを、いつも自分と共有しようとしてくれる。殊更に力づけようとするわけではなく、助言や諫言をするわけでもなく、ただ自然に「こんな素敵なお芝居がかかっているのですよ」とか「こんなお菓子が評判なのです」とか「侍女が綺麗なお花を飾ってくれたのですよ」とか、そのようにしてその日あった楽しいことを、自分にも分け与えてくれるのだ。


 そういう他愛ない、しかし心の休まる会話があればこそ、自分は味気なくつらい現実にも立ち向かってゆけるのだ。ルドヴィーコは常々、そう考えている。


「こんなところでお仕事ですの?」


 一礼した侍女が下がると、ベアトリーチェは、自然な所作でルドヴィーコの隣の椅子に座った。


「ああ、どうにも捗らんでなあ」


 ため息をつきながらルドヴィーコが応じる。


「場所と気分を、少々変えようと思ったのだが」


「――お邪魔でしたかしら?」


 小さく首を傾げるその仕草に、ルドヴィーコはひどく弱い。

 邪魔だ、などとはけっして言えなくなってしまう。


 首を振りながら、ルドヴィーコは言った。


「儂がいままで、一度でも、君を邪魔だなどと口にしたことがあるかね?」


「ございませんわ、旦那様」


「そうだろう。――思ったこともないのだからな」


 ふふ、と小さくベアトリーチェが笑う。


「お上手ですこと」


 ルドヴィーコはまたひとつ、ため息をついた。

 どうやら、詫び状はしばらく後回しにするほかなさそうだった。




*********************************

【追記:注釈】

一切の注釈がなく、あまりにも不親切だったと反省しましたので追記しておきます。

本稿は書籍版「侯爵令嬢アリアレインの追放 上」の発売に当たって新規に書き下ろした短編(前後編)の前編です。


時系列的にはWEB版本編「ノール伯爵ルドヴィーコの信頼」の前日あたりの出来事ですね。王太子の婚約解消と己の娘との婚約の話を聞かされた翌日、悶々と悩み続けていたというルドヴィーコさんの一日、その午後のお話です。

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