先遣隊長ゴットハルトの進軍(前)

 冷たく湿った風が、山肌を吹き上げてゆく。

 王国軍の先遣隊長ゴットハルト・フォルクランツは、馬上で大外套の襟を合わせなおした。


 竜翼山脈の麓を少々離れた小さな宿場街を明け方に発ち、今は昼過ぎ。

 くねくねと曲がる峠道が、いつ果てるともなく続いている。


 山麓ではまだ秋の半ばという時期ではあったが、いま周囲の風景はもう冬のそれに近い。

 ここまで峠道を上ってくる間に、季節がひとつ進んだようだった。


 木々はすっかり葉を落とし、道や斜面に積もった落ち葉が風にかさかさと乾いた音を立てている。

 傾き始めた太陽が、山上を覆う雲を通して、弱い日差しを投げかけている。


 日が落ちてからの冷え込みは麓よりもいっそう厳しくなるのだろうし、朝ともなれば霜も降りるのだろう。

 

 ゴットハルトは、ここまで来た道を思い返し、そしてこの先の道行きを思い浮かべている。


 王都を出てここに来るまでに10日ほど。その行軍で、3300――輜重その他の非戦闘要員を含めれば4000近くいた軍は、100名以上も減っていた。

 敵に襲われたわけではない。行軍そのものが、麾下の先遣隊をすり減らしている。


 マレス街道を王都から下る旅人にとっては、アラス峠に至るこの峠道が、最大にして最後の難所だ。

 無論、それは徒歩で移動する軍にとっても変わらない。

 ゴットハルトとしては、長旅に疲れた兵たちの、更なる損耗を覚悟しなければならないところだった。


 本来であればそのようなことが起きぬよう、王都を出る数は最小限とし、道中で徐々に部隊を増やしてゆくものだ。

 今回は急な出動であったことと、そして執政府内の混乱が、通常ならば可能な準備を滞らせていた。


 ゴットハルトに不安はあるが、それを表に出すことは許されていない。

 指揮官が見せる不安はすぐに部下たちに伝わるものであるし、そうなれば無用の混乱を招き、士気と注意力が低下して――つまりは悪循環に陥るからだ。


 ――それにしても。


 ゴットハルトは、つづら折りになった道を見上げて思う。


 峠を侯爵領軍に押さえられなかったのは僥倖だった。

 侯爵領出身の騎士の離反がなければ、そしてその騎士が持ち込んだ情報がなければ、奇襲によって峠は敵手に落ちていたことだろう。


 アラス峠は麓からの――最寄りの街からの距離が長い。

 道は急な上に曲がりくねっており、荷馬車はごく小さなものを除いて通れないから、行軍にはどうしても多数の荷駄を引き連れていかねばならない。


 王都で騎士団長に指名されてから出立するまでに4日、出立してからここまででさらに約10日。

 その間にもレダンからはいくつか報告の書状が届けられた。


 いち早く――王都からの指示が届くよりも早く――橋を落としたレダン子爵は、レド川の河岸で侯爵領軍と対峙しているらしい。

 渡河しようとする兵を押し返してはいるものの、数の差が響いてか、苦戦を余儀なくされているようだった。

 通常は行われることのない周辺諸領からの動員まで行っているというから、やはり数が問題なのだろう。


 報告の末尾はどれもほぼ同じだ。


『急ぎ援軍を送られたし』


 王都を出る前にこちらの到着予定は伝えてあるが、それでも書かずにはおれないのだろう。

 昨日受け取った報告も同じだった。


 戦況を書き、自軍の取った行動を述べ、損害について綴る。

 そしてお決まりの一文だ。


 ――急ぎ援軍を送られたし。


 川を挟んだ対峙であるから、損害は決して多いものではない。だがそれは、直轄領軍や近衛を指揮する立場から見たものだ。

 もともとが大きくはない子爵の手勢からすれば、無視してよい損害ではないはずだった。


 毎回、到着する筈の日付を知らせ、その日まで何としてでも持ち堪えるよう、と返信をしてはいる。

 そして、そうであるから、その日付が遅れることのないよう、配下の兵たちに進軍を急がせてきた。

 1日1日を己の血でもって贖っている子爵領軍が援軍の到来遅延を知ることになどなれば、それこそ士気の崩壊に繋がりかねない。


 白い息を吐く兵たちが、俯き加減で黙々と峠道を上ってゆく。

 やがて隊列の先頭の方から、小休止、という号令がかかった。


 背負った荷を下ろす者、水筒から水を口にする者。

 誰もが言葉少なに身を縮め、ひとときの休息を味わっている。

 だが、ずっとそのようにしているわけにもいかない。

 歩いている間は汗ばむほどの熱を発する身体も、立ち止まればすぐに冷える。冷たく湿気を含んだ風が、容赦なくその熱を奪い去ってゆくからだ。

 この季節の行軍、特に山越えの行軍は、暑いか寒いかで中庸というものがない。


 ――この分では、今日はどれほどの落伍者が出るのだろうか。


 上るにつれて深まる疲労の度合いを、小休止の間にどうにか軽くしようとする配下の兵たちを見ながら、ゴットハルトはもう一度大外套の襟をかき合わせた。


 ここはもう竜翼山脈の中だ。少々歩けば街があるような平野部とは違う。今日と、そしておそらくは明日も露営になる。

 落伍者もそのまま放り出してゆくわけにはいかない以上、誰か動ける者をつけてやらねばならない。

 それ自体は必要な措置ではあるが、すり減った部隊を、更にまた減らすことになる。


 ゴットハルトは道の続く先、竜翼山脈の高みを見上げた。

 曲がりくねる道の先は濃い乳白色の霧に覆われ、稜線は見えない。


 先の見通しの利かぬその光景は、ゴットハルトにとって、この先に待つなにかを暗示しているように思えてならなかった。



※ ※ ※ ※ ※



 朗報がもたらされたのは、露営の準備が始まった頃合いだった。

 ゴットハルトは、峠道の途中、台地状に広がる平坦で開けた場所を、今夜の露営地と定めていた。


「隊長!」


 騎士のひとりが、白い息を吐きながら駆け寄ってくる。


「そう慌てるものではない。どうした」


 つとめて鷹揚に対応しながら、ゴットハルトは騎士の来た方――峠へと続く上り道を見やった。

 騎馬が1騎。伝令だろうか、と思いながら、近くまで来た騎士へと視線を戻す。


「レダンからの伝令です、隊長」


「すぐにここへ」


 足早に去った騎士が騎乗のままだった伝令と何やら言葉を交わし、伝令が馬を下りるのが見えた。

 早足でふたりが戻ってくる。


「子爵領軍の伝令でございます」


 ゴットハルトの前で、片膝をついて頭を下げた伝令が言う。


「お立ちを。

 近衛先遣隊の隊長、フォルクランツです。

 悪天のなかご苦労でした。ご用件は」


 一礼して立ち上がった伝令が、はっきりとした口調で答えた。


「は、子爵領軍の輜重を1隊、峠の向こうに待機させております。

 荷馬車が4輌と荷駄のみでございますが」


「それは子爵のお心遣いか」


「はい、この時期のアラスの峠越えは厳しい、おいでいただくからにはでき得る限りの支援を、と」


「有難くお受けする。

 子爵によろしくお伝えいただきたい」


 はい、と立ち上がる伝令に、ゴットハルトはもう一度声をかけた。


「すまぬが教えていただきたい。峠まではあといかほどか。

 霧で稜線も見えぬゆえ、兵たちもどれほど歩けばよいのかわかりかねておりましてな」


「通常の行軍で1刻ほどかと。

 輜重は更に半刻ほど下った先で待機しております」


 では、と駆け去る伝令を見送って、ゴットハルトは騎士に話しかける。


「聞いたか」


「はい。

 峠の先に馬車があるのであれば――」


 その利点は計り知れない。


 落伍しかけた兵を、それ以上歩かせずに済む。

 彼らを安全な場所まで運ぶために、更なる兵を使うこともない。


 そして距離は1刻半行程。先が見えていれば、兵の士気も変わってくる。


「みな聞け!」


 ゴットハルトが声を張った。


「レダン子爵は、峠を越えた先に輜重を――馬車と荷駄とを差し回された!

 露営後明朝、我らはただちに出発し、子爵の差し向けた輜重と合流してレダンへ向かう!

 峠まではあと1刻、その先半刻で輜重と合流!重い荷を担いで歩かねばならんのもあと一息だ!」


 おお、とどよめきが起こった。

 疲労に澱んでいた兵たちの表情が目に見えて明るくなる。


 先が見えれば、と状況を伝えたゴットハルトの考えたとおりの反応だった。


「みなここまでよく歩いてくれた。

 ここが最後の難所だ――それも明日の朝、残す距離はあと1刻分!

 そのあとは峠を下り、明後日にはレダンで身体を休められるぞ!」


 兵たちの中に広がってゆくざわめきを、ゴットハルトは止めなかった。

 たとえそれが私語であれ――軍ではけっして歓迎されることのないものであれ――確かで、しかも望ましい情報が広がるのであれば、敢えて止める理由はないからだった。

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