王太子エイリークの軍略(後)

「大きく出たな、軍務卿」


 からかうように応じながら、王太子はやはり嬉しそうだ。

 勝利への道が見えて喜ばない人間はいない。


「しかしその点には、あれらも気付いておるのではないか?

 レダンは王都よりもマレスに近い――というよりも、周辺の小領を挟むのみで、ほぼ境を接しておろう?

 先手を打たれるのではないか?」


 王太子の疑問はもっともなことではある。

 戦になれば、その焦点はレダンとアラス峠。王都からは10日以上を要する距離があるが、マレスからはわずか数日。


 距離もさることながら、軍の初動を制約されたのが今になっては大きな痛手だ。


「そこでございますな、殿下。

 機先を制されれば危ういところがあったのは、まさに仰せのとおりでございます。

 しかし――」


 軍務卿が、とん、と机の上の書状を指で押さえた。


「それは彼奴らが意図を悟らせぬままレダンを攻撃できれば、の話でございます。

 奇襲となれば、さすがにまともな抵抗はできますまいが――」


 現実には配下の騎士の離脱を許し、レダンに叛逆の意図が漏れている。

 あらかじめ備えることができていれば、たとえば、時間を稼ぎながら援軍を待つ、というような戦い方も可能なのだ。


 と、執務室の扉がノックされた。


「殿下のお召しにより、工部卿閣下が参上されました」


 侍従の声が響く。


「お通しせよ」


 型通りの返答はルドヴィーコの役回りだった。

 扉が開かれ、何やら大きな図面と書類の束を抱えた工部卿が入ってきた。


 王太子が、ここへ、と手で席を示した。


「ご所望の地誌でございます。

 念のため地図もお持ちいたしましたが――」


 工部卿の言葉に、王太子がおお、と頷く。


「まさに必要なものだ、工部卿。

 ここへ――いや、地図の方だ」


 言われるままに工部卿が大ぶりの地図を机に広げる。


「少々大きゅうございますが、竜翼山脈から東側の地図でございます。

 これが竜翼山脈、ここがアラス峠、この先で街道がふたつに分かれておりまして、南側がマレス街道、北側が側道のリナール街道でございますな。

 マレス街道沿いにレダンの港、さらに東でレド川を越えた先がマレス侯爵領、と」


 広げながら簡単に説明した工部卿が、軍務卿とルドヴィーコの顔へ、交互に視線を送る。


「ええ、今、殿下と、今後の軍略についてご相談をしておったところでございましてな」


 説明する気のなさそうな軍務卿のかわりに、ルドヴィーコが補足する。

 王太子が地図の下から書状を取り出して、工部卿に手渡した。


 書状と地図の間で視線を往復させた工部卿が、ほう、と小さく声を上げる。


「リナール街道とマレス街道、それぞれどのようにしてレド川を越えておるのだ、工部卿?」


「ええ――いずれも橋でございますな。

 リナール街道は木橋、マレス街道は――ああ、川幅も広うございますし、水量もございますから、舟橋で」


 王太子の質問に、書き付けの束を繰った工部卿が答える。


「橋の近辺で、渡渉はできるか?」


「まず無理でございましょう。空荷であれば泳いで渡れぬこともないやもしれませぬが。

 特に上流側、リナール街道の橋の近辺は、川幅はさほどでもございませんが流量も水勢も相当のものでございます。

 そうそう対岸へ渡ることはできますまい。徒歩どころか、騎乗でも難しいかと。

 下流側のマレス街道の舟橋のあたりでは――まあ、これも空荷で、好天に恵まれたならば、というところかと存じます。

 こちらは、騎馬ならば現実性があるかと」


 ふむ、と王太子が頷き、リナール街道を示す線を指で辿った。


「ここを通ってアラス峠を押さえようとしておった、と」


 峠を押さえられれば、こちらは援軍を送り込めなくなる。

 そして、子爵領と侯爵領の規模の差は、そのまま動かせる兵力の差でもある。

 援軍がなければ、いずれ峠の向こうは侯爵領軍に平らげられることになるだろう。


 あの侯爵令嬢であればそう考える――だからこそ、時間をかけずに峠を押さえに行こうとした。


 人がみな理屈で動くのであれば、とルドヴィーコは思う。


 あの侯爵令嬢の構想は、そのまま実現していたに違いない。

 目的に対する最短距離にして最善手。あの侯爵令嬢らしい一手だった。


 王室への忠誠を捨てきれなかったか、あるいは国そのものに歯向かうことへの恐怖に駆られたか。

 理屈で動くことのできなかった騎士ひとりの離反が、事態を大きく変えている。


「この先は、どう動く」


「リナール街道はあくまでも側道。大軍を動かせる道ではございません。

 さればこそ、レダンを迂回しての奇襲、という一手だったのでございましょう。

 奇襲の意図がレダン側に漏れていることを悟られない、というところが最善ではございましたが、いずれにせよもはや奇襲は為しえません」


 軍務卿が答えた。


「力押しになる、ということか」


「は、仰せのとおりにございます、殿下」


 力押しの戦であれば、それは純粋な数と練度の掛け算だ――そこになんの障壁もないならば。

 だが、今回は、あらかじめマレス侯爵の叛意が漏れている。

 そして、簡単には渡れない川がある。


「レダン子爵も確信には至っておらぬかもしれませんが、レド川の線で警戒しているとの由。

 レド川は大河です。川沿いで防御を固めれば、戦力差があったとて容易に突破できるものではございません」


「それが勝機、ということか」 


「左様でございます、殿下。

 レド川でレダン子爵が防御している間に、こちらから援軍を送り込めば、侯爵軍の企図を挫けます。

 そうして作り出した時間でもってレダンを守れば、更なる援軍が」


「あとは兵力の差でもって彼奴らを磨り潰せばよい、か」


「まさに、殿下」


 よし、と王太子が頷いた。


「すぐに動かせる兵はいかほどか、軍務卿?」


「3000にて、殿下」


「近衛ですぐ動ける騎兵は?」


「王都に残すべき数を考えますれば、250から300というところかと」


「では300だ。合わせて3300を先遣隊とする。

 近衛からひとり、指揮官を選べ。人選は近衛騎士団長に任せるゆえ、そのように伝えよ」


 は、と軍務卿が礼で応じた。


「ノール伯、レダンへ早馬を出せ。

 援軍3300を送るゆえ、橋を落としてでも持ち堪えよ、と」


「かしこまりました、殿下」


 ルドヴィーコが応じる。


 ――呆気ないものだ。


 頭を下げながら、ルドヴィーコは思った。


 ここまで鮮やかに殿下と我々を欺き、操ってみせたあの侯爵令嬢の企てが。

 ただひとりの配下、その離反でこうも呆気なく崩壊するものなのか。


 意味のない行動がない。

 理屈に合わないことをしない。


 そうやって道を切り開いてきたあの令嬢ではあったが、周囲の人間すべてがあの令嬢のようであるわけではない。


 王国史に名を残したかもしれない才媛は、おそらく、汚名のみを残すことになるだろう。

 深い安堵とともに、わずかな同情が、ルドヴィーコの心をよぎった。

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