王太子エイリークの軍略(前)

 その日の夕刻、ノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールは、王太子エイリーク・ナダールの執務室を訪れた。

 これこれの時間に、と伝えると、ふたつ返事で承諾の旨を伝えられていた。


 ここ数日、ルドヴィーコはその立場を大きく変えている。


 まず、諸卿が王太子に召される折に、同席を求められるようになった。

 必要に応じて諸卿の説明を補足し、王太子の疑問があればその意図を汲んで答え、度を過ぎた叱責があれば間に入ってまあまあと取りなす。


 臣下への人当たりが決していいとは言えない王太子ではあったが、なぜかルドヴィーコへの当たりは――他の者よりも若干、という程度ではあったが――柔らかかった。


 次いで、まずい報告――王太子の気を損ねるような報告が、ルドヴィーコに集まるようになった。

 俺にどうしろと言うのだ、と思いながら、ルドヴィーコはいちいちそれを報告した。


 必要とあれば事前に諸卿に説明を求め、己でもある程度の補足ができるような状態にしてから、ひとりで王太子の執務室に向かうのが通例になっていた。


 ノール伯爵のご説明であれば殿下もお聞きくださる、というのが面倒を持ち込む諸卿の言い分だった。


 婚約者の父だからだろう、とルドヴィーコは思っている。

 あまりきつく当たるわけにもいかないということなのか、不機嫌にはなりつつも一通りの説明は聞いてくれる。


「それでノール伯、そなたはこれをどうすべきだと言うのだ」


 それがここ数日間、ルドヴィーコが報告に入る際の、王太子の口癖のようになっている。

 よくない報告であるから、王太子の機嫌は当然よくはならない。


 一度など、執務室に顔を見せるや、またそなたか、と口に出して言われたこともある。

 またわたくしめでございます、とルドヴィーコが答えると、まあいい、座れ、とソファを勧められた。

 供された茶を飲みながら、ルドヴィーコは王太子にあれこれを説明したものだ。


 ルドヴィーコは知らなかった。

 本当に不機嫌な王太子は、臣下に椅子を勧めることなどない。無論、茶など供されるはずもない。


 そのようないきさつで、今日もルドヴィーコはひとり、ソファで王太子と向き合っている。


「畏れながら殿下、早期の征討はもはや成らぬとお考えいただくしかございませぬ」


 王太子が黙ったまま視線を逸らす。

 ルドヴィーコがちらりと盗み見た横顔は、やはり不機嫌そのものだった。


「理由は」


「糧食でございます。

 エズリンよりも東の軍用備蓄はほぼ払底しております。

 西から運び込もうにも――」


「船か」


「はい、殿下。

 仰せのとおり、船が足りませぬ。

 大型船はどうやらすぐに動かせるようなものではなく、前々から計画しておかねばならぬものだとか」


「小型中型の船を集めればどうなのだ」


「積荷の量も大したことはなく、また長らく港を離れての航海にも向きませぬ。

 加えて申し上げれば、その、船を持つあたりに繋ぎをつけられる者がおりませぬ」


「――うまくゆかぬものよな」


 視線を戻し、小さく笑った王太子が言う。


「至りませぬで――」


 頭を下げて詫びようとするルドヴィーコを、もうよい、と手を振って王太子が遮る。


「それで、ノール伯」


 王太子がいつもの台詞を口にした。


「そなたはこれをどうすべきだと言うのだ?」


 ルドヴィーコはごくりと唾を飲み込んだ。


「畏れながら、殿下、動かす兵数を減らさざるを得ぬかと……」


「兵を動かして万が一敗ければ、と言ったのはそなたではないか、ノール伯」


「仰せのとおりにございます。

 しかし現状では糧食がどう計算しても足らぬのです。

 飢えた兵で戦はできませぬ。また、無理に徴発すれば民の不満を招きましょう。

 それでなくとも、徴発を行えば各所領の蓄えを食い潰すこととなります。

 幸いにもこの冬は、極端に厳しくなるものとは予測されておりませぬが――」


 天候は天候、なってみなければわからない部分もある。

 無理に戦をして、死なせずともよい民を死なせたとあれば、それは戦の勝敗以上に王室の威信を傷つける。


「ならばどうする?」


「国全体として見れば、備蓄は足りておるのです。

 むしろ余裕があると申し上げてもよろしゅうございます。

 されば――」


 軍務卿と作り上げた腹案を説明しようとしたそのとき。

 ノックの音が室内に響いた。


「なんだ、殿下はいま――」


 お忙しいのだぞ、と続けようとしたルドヴィーコの声を遮るように、扉の向こうから侍従の声がした。


「軍務卿閣下がお目通りを、と。

 至急の御用とのことでございますが」


 ルドヴィーコと王太子は顔を見合わせた。

 王太子が頷く。


「お通しせよ」


 扉の向こうの侍従に、ルドヴィーコはそう答えた。


 通すように、と言いながら、ルドヴィーコは不審な思いを抱えている。

 そもそもこの案件を王太子に説明してくれ、と言ってきたのは軍務卿だ。


 ルドヴィーコ自身が望んだことではけっしてなかったが、自分が説明すればすんなりと話が通るのだから、と引き受けた。

 ひとりで説明をする理由は単純だ――ルドヴィーコ自身にはなかなか怒りが向かないが、他の諸卿は厳しい言葉を浴びせられる。

 結局ルドヴィーコが割って入って取りなすことになるのであれば、最初から怒りの対象がいない方がよい。


 諸卿とルドヴィーコの間の、それが暗黙の了解だった。


 まあ気が変わったのかもしれない、と思いなおして軍務卿の入室を待つ。


 待つほどのこともなく、軍務卿が執務室に入ってきた。

 ここ最近には珍しく、喜色を浮かべている。


「殿下、お喜びください、勝機でございますぞ」


「なんだ唐突に。

 勝機とはどういうことだ?」


 王太子が訝しげに問う。


「こちらを、殿下。

 先ほどレダンから届いたものにございます」


 軍務卿が書状を差し出した。

 受け取った王太子の手許にあるそれに、ルドヴィーコの視線が向く。

 ふと視線を上げた王太子と目が合った。


 小さくため息をついた王太子が、書状を机の上に置く。


「――ご無礼を」


「よい」


 小声で詫びたルドヴィーコに、王太子が素気なく応じた。


 書状を一読した王太子が、もう一度視線を上げた。


「どういうことなのだ?」


「叛逆者どもも一枚岩ではない、ということでございましょう」


 嬉しさを隠しきれない声音で、軍務卿が答える。


「――本物なのか?」


 王太子の問いに、やはりそこを疑わねばならなくなってしまったか、とルドヴィーコは思う。


「以前のレダン子爵の書状と引き比べてみましたが、疑わしい点はございません」


 軍務卿が応じた。


「だとすれば、軍務卿、そなたの言うとおりであろうな。

 彼奴らも一枚岩ではない、ということだ」


 レダンからの書状は簡潔なものだった。


 レダン子爵邸を訪れたマレス侯爵領の騎士を保護したこと。

 騎士の言によれば、マレス侯爵がアラス峠への侵攻を企てていること。

 これも騎士の言によれば、攻撃はレダンを迂回し、リナール街道を経由して行われること。

 レダン子爵はマレス侯爵に叛逆の意思ありと判断し、侯爵領との境にあたるレド川で警戒していること。


 最後に、王都からの情報と指示を求める文言で書状は終わっていた。


「この、リナール街道というのは?」


 書状の一行を指して王太子が尋ねる。


「すぐには解りかねますが、察するに、マレス街道の側道ではないかと、殿下」


 ルドヴィーコの返答に、王太子がふむ、と頷いた。


「工部卿をここへ。

 レダン近辺のマレス街道とリナール街道、それからレド川近辺の地誌を持てと伝えよ」


「は、ただちに」


 答えたルドヴィーコが席を立ち、侍従を呼んだ。

 殿下が工部卿をお召しである、と告げ、持参すべきものを伝える。


 席へ戻ると、待っていたかのように、王太子が口を開いた。


「それでノール伯、そなたの話が途中であったな。

 工部卿が来るまでの間、続きを聞こうか」


「は、ええ、この書状とも関わることでございますが」


 やはり慣れない、と思いながら話を始めたルドヴィーコは、そこで一旦軍務卿と視線を交わした。

 軍務卿が小さく頷いたのを見て、そのまま続ける。


「軍務卿閣下とわたくしめとで、今後について協議をいたしました。

 先ほども申し上げましたとおり、糧食の問題により、早期のマレス侯爵領征討は困難でございます。

 ただし、全土を見渡せば糧食の備蓄はあり、運ぶための時間が必要、という状況が確認できております」


 王太子は黙ったままルドヴィーコの話を聞いている。


「つまり、運ぶ手段と物資を集積可能な場所があれば、冬であろうと軍を送り込むことは可能、ということでございます。

 即座の征討は難しくとも、軍を揃えて送り込むことが可能であれば――」


「勝てる、か。

 物資や兵を運ぶ手段として船を、ということなのだな。

 それとこれと、どのような関わりが?」


 ルドヴィーコは、再びちらりと軍務卿に視線を送る。


「つまり殿下、彼奴らもそのように考えておる、ということでございましょう」


 幾分得意そうな表情と声音で、軍務卿が説明を始めた。


「第一に、アラス峠を重視しておるのは、そこがマレスへ続く街道として唯一、竜翼山脈を越える道、というところが理由でございます。

 あの峠を押さえられれば、物資も援軍もレダンへ入ることが叶いません。

 彼奴らがアラス峠を押さえようとするのはまさに道理に他なりません」


 調子のいいものだ、と思いながらルドヴィーコはそれを聞いていた。

 厄介な報告は自分に押し付け、成果が出そうと見るや己でそれを売り込みにかかる。


 ――まあ、自分もそういう人間なのだ。あまり他人のことをとやかくは言えない。


 娘が、そして娘の将来の夫が関わる話でさえなければ、自分は真っ先に全てを放り出していただろう。

 ひとまず職務を職務として全うする気がある分、自分よりはだいぶ責任感というものがあるのかもしれない――それが権勢欲と結びついたものであったとしても。


「第二に、レダンそのものの重要性がございます。

 アラス峠よりも東でマレスを除けば、大型船の出入りできる港はレダンのみ。

 こちらがレダンを押さえている限り、我々は港を通じて兵であれ物資であれ、さほどの制約なく送り込むことができましょう」


 軍務卿の説明は続いていた。

 ときに手振りを交えながら熱弁を振るう。


「そうなれば、殿下の勝利は決まったも同然でございます」

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