ノール伯爵ルドヴィーコの信頼

 ノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールがその報せを聞いたのは、その日の夕刻、王城の一室でのことだった。


 婚約の発表と婚約者のお披露目の日取りを決めたい、と王太子に呼び出されていた。

 喜ばしい席だというのに気は浮かない。身体と心の奥に、疲労が染みついている。


 昨日ほぼ丸1日、ルドヴィーコは悶々と考え続けていた。

 マレス候にどう詫びたものか、ということである。


 手紙を書こうとしては止め、書きかけては破り、ということを幾度か繰り返し、結局何を書いても嫌味にしか見えないことに気付いて絶望的な気分になった。

 妻に話してみても、なぜそんなことで悩むのか、と返され、絶望感を共有してくれる人間が己の周りにいないとわかっただけだった。


 あの令嬢がこのまま王都に居られるとも思えないから、いずれ侯爵自身が王都へ上るか、あるいはいくつか下と聞く令息を新たな名代にするかだろう。

 本人なり令息なりに直接詫びるしかあるまい、とルドヴィーコは思っている。


「ノール伯、どうであろうな?」


 上機嫌な王太子の声が耳に入り、ルドヴィーコは思案の淵から現実に引き戻された。

 お披露目の宴の趣向について話を聞いていたのだった、と思い出す。


「――御意のままに、殿下。たいへんよい趣向かと存じます」


 無理やりに笑みを浮かべて答える。

 勿論、ここまでの話はなにも頭に入っていなかった。


「わかってくれるか、さすがクラウディア、そなたの父だ。

 これはな――なんだ?」


 ますます機嫌を良くした王太子の長広舌が始まる、そう思ってまた思案の淵に沈みかけた意識を、急速に不機嫌そうになった王太子の声が引き戻す。

 侍従のひとりが王太子に何やら耳打ちをしていた。

 王太子の顔に怪訝そうな表情が浮かび、次いで舌打ちでもしそうな顔になった。


 あの令嬢のことで何かあったのか、というのは、ルドヴィーコならずとも察せるところだ。


「いかがされましたか、殿下?」


「あれのことでな。

 王都の屋敷を引き払った、と」


「侯爵家のお屋敷を、でございますか」


「うむ。

 それと近衛のマレス騎士館」


「マレス騎士館がなにか」


「総員がどこかへ出たそうだ」


 ルドヴィーコの背中を汗が伝う。


「――どういうことでございましょうか?」


「知らぬ。

 あれは王都の市門を出たのちレーナ街道を下ったというから、コルジアの港へ向かったのだろう。

 騎士たちも同道したと聞く。見送りというところか?」


 本当にそれだけか、とルドヴィーコの小心な部分が警告を発していた。


「たしかに、船の上では追放の布告も届きはいたしますまいが……」


「さすがにそういうところでは頭が回る。たしかに、目的地へは着けよう。

 おそらくはマレス候領であろうが、あそことて王国に違いはない。逃げて逃げられるものではない」


 ルドヴィーコが密かに弄んでいた最悪の想像は、自暴自棄になったあの令嬢がマレス騎士に王都で一戦させる、ということだった。

 自暴自棄とは縁遠い人物に見えたが、そういう者こそ本当に自暴自棄になったときには何をしでかすかわからない。


 とにもかくにも王都を出てくれたのならば、最悪の想像が実現することはなくなった、ということだ。


「そういえば」


 ふと思い出したことを口に出す。


「昨日は聖レイニア聖堂へ出向いておられたようですな。

 うちの使用人が、聖堂で見かけた、と話しておりました」


「聖堂?」


「意図は、わたくしめにはわかりかねますが」


「打つ手がなくなって今更頭も下げられず、では教会を頼ろうというところか」


 王太子の口調は、侯爵令嬢を嘲笑うようだった。


「そのあたりは、わたくしめには何とも。

 しかし、俗世で保護を得られなくなった者が教会を頼るのは定石ではございます」


 言いながら、彼女がそんなわかりやすい人物だっただろうか、とも思う。


「手垢のついたやり口だ。

 だが、まあ、修道院にでも入って俗世に出てこぬのであればそれはそれでよい」


 落飾して隠棲するのであれば、赦免せずとも問題はない。

 この先二度とあの忌々しい侯爵令嬢の顔を見ずに済む、ということだ、と王太子は思っている。


 王太子の言葉に、ルドヴィーコは腑に落ちないものを感じていた。


 ――だとすれば王都の聖堂で足りるはずだし、そもそも屋敷を引き払う必要もない。


 普通に解釈すれば、どうにもならなくなったからこその教会なのだろうし、最後の手段としての落飾なのだろう。

 しかしそうであるならば、逃げるように屋敷を引き払って王都を発つ理由がなくなるはずなのだ。


 あの令嬢が理由もなくそんなことをするはずがない。


 そこまで考えて、ルドヴィーコは思い至った。

 自分はどこかで、あの侯爵令嬢を深く信頼しているのだ。


 理屈に合わないことをしない、理由のない行動がない、そういうことを前提にすればこそ、腑に落ちないと思っている。

 つまりそれはあの令嬢を信頼しているということだ――たぶん、目の前の王太子よりもよほど。


 ぱん、と手を打つ音が、ルドヴィーコの思考を遮った。

 王太子だった。


「さて、とんだ邪魔が入ったものだが、クラウディア、そなたのお披露目の話だ。

 衣装のことだがな、ノール伯――」


 どうやら機嫌を直したらしい王太子の長広舌が始まり、ルドヴィーコは曖昧に相槌を打ちながら、意識をどこかへ沈めていった。

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