侯爵家従士アーヴェイルの回想

 アーヴェイルは室内を見回す。

 さほど広くはないが、明るく、快適に整えられた部屋だった。


 あのあと――レダン子爵との会談のあと、子爵はアーヴェイルではなく、副使に書状を渡して船へ戻るよう告げた。


「悪いが、侯爵令息がこちらへ来るまで、そなたは屋敷に留まってもらう。

 船へ戻るのはそなた本人でなくとも差し支えなかろう。その程度の無理が聞けぬでもあるまい」


 レダン子爵の言葉は、体面を考えても妥当なものと思われた――それなりの譲歩を引き出した格好がなければ子爵の体面が潰れることになる――から、アーヴェイルはそれを受け入れた。

 面会を許された副使に指示を与え、彼らが屋敷を出るのを見送って、ではどこなりと、と告げると、この部屋へ案内された。


 正直なところ、地下牢でも文句は言えないと考えていたから、少々意外ではあった。


 今更毒を盛るでもないと思われたので、食事は出されたものを素直に摂った。


 王都を出て4日はほぼ動きづめ、ゆっくり寝ることができたのはマレスに戻ったあとの半日弱だけ。

 レダンへ向かう船の中では子爵家の家臣たちを調べ上げた書き付けの内容を頭に叩き込むので手一杯で、とても休んでなどいられなかった。


 今ならどれほど硬いベッドでも、否、牢の床に敷いた毛布の上であっても寝られる、という状況で、供されたのは温かく柔らかい羽布団だった。

 寝首の心配もしないことに決めて床に就いてからは、夜明けまで目が覚めなかった。


 供された朝食を平らげてまたひと眠りし、起きては食べ、そしてまた眠る。

 翌日はそのようにして1日を過ごし、ようやくまともに動く体力と気力が戻ったのは翌々日。


 とはいえ実質的に軟禁の身の人質であったから、何ができたわけでもない。

 室内でできる範囲で、鈍らぬようにと身体を動かすという程度でしかなかった。


 湯と手拭い、それに肌着の類は差し入れられはするが、上に着るものは文官としての官服しか持ち合わせがなかったから、身体を動かすと言っても思う存分というわけにはいかない。

 肌着は差し入れがあるとはいえ、たとえば食事のたびごとに肌着を要求する人質など、どう都合よく考えても奇異の目で見られるだけとしか思えなかった。


 そんなわけだったから、服を汚さぬ程度に身体を動かし、なんとはなしの習い性で部屋の片付けをしてしまうと、あとはぽっかりと穴の開いたような時間が続く。


 そのたびに、今お嬢様はどうされているのだろう、とぼんやりと考えた。


 4年前、17の歳に、当時13だった彼女の護衛を兼ねた側近としての任に就いてから、これほど長く側を離れたことはない。

 侯爵領にいたはじめの2年間は己の訓練や侯爵領軍の任務に出ることもあったが、それもせいぜいが3日か4日。

 2年前に王都に上ってからは、寝るとき以外はほぼ行動を共にしている。

 名代としての仕事の補佐と護衛を兼ねているのだから、必然とも言える状況ではあった。


 意見を求められれば応じ、必要と思われれば求められずとも助言をし、諫言も躊躇しない。

 自分に求められる補佐とはそういったものだった。

 それはお嬢様本人が己に課し、そして王太子に必要とされなかった任でもある。


 ――思えば、自分は幸運だったのだろう。


 諾否は別として虚心に意見を聞き、任せるべきところは信頼して任せてくれる主を持てたのだから。


 自分は間違いなくお嬢様を――己の主を深く信頼している。

 その能力と努力、そして度量に敬意を抱いてもいる。


 だからこそ、お嬢様には将来の王妃として正しく報われてほしいと思っていた。

 だからこそ、その価値を理解しようともせず、粗略に扱う王太子に、自分はよい感情を抱くことができなかった。


 釣り合わない婚約。

 あの日、馬車の中で思わず口に出してしまった言葉が、自分の偽らざる本音だった。

 たとえ王太子であれ、あのお嬢様を理解して、その能力を活かせないのであれば釣り合いなど取れるはずがない。


 努力して磨いてきたものを捨てられ、あまつさえそれが軋轢のもとになっていると理解したお嬢様がどれほど傷付いたか、あの王太子は顧みようともしなかった。

 そしてあの無法な追放の宣告。お嬢様が止めてくれていなければ、自分はその場で王太子を弑していただろう。


 あの夜が遠い昔のことのように思えるが、実際はまだ10日ほど。

 並べれば長い長いリストになるようなあれこれをこなして、今は無為をかこっている。


 今は休めるときだし、どうせそのうち忙しくなるのだから休んでおけばよいのだ、と理解はしていても、なかなか気が休まるものではない。

 お嬢様の側を離れ、何も為すべきことがない、ということが、これほど落ち着かないものだとは思ってもみなかった。


 結局のところ、自分はそれだけお嬢様に寄りかかっていた、ということなのかもしれない。


 ――侯爵閣下は、お嬢様を甘やかしている、と仰っておられたが。


 自分こそがお嬢様を信頼し、そして甘えていたのかもしれなかった。


 しかし、お嬢様もまた自分を信頼してくれていたのだろう、とは思う。

 信頼できない相手にこのような重大事を任せるとは思えなかったし、自分にしか頼めない、と口に出して言ってもくれた。


 ――そのお嬢様は、今どうされているのだろうか。


 もう何度目になるかわからない想像を弄ぶ。


 計画通りであれば、お嬢様はとうにマレスへ戻られているはず。

 そして、今日明日にも若様がレダンへ到着されるはず。


 若様と入れ替わりで、自分はマレスへ戻ることになるだろう。

 その後は?


 お嬢様の側へ戻り、ご指示に従って――。


 そこまで考えて、なるほど、とアーヴェイルはひとり頷いた。


 やはり自分はお嬢様に甘えていた、と気付いたのだった。

 小さく苦笑を漏らしたアーヴェイルの耳に、柔らかいノックの音が届いた。

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