侯爵家従士アーヴェイルの憤懣

 走り出した馬車の中で、口を開いたのはアーヴェイルと呼ばれた従士だった。


「なぜあっさりと受け入れられたのですか、お嬢様」


 均整のとれた身体つきに焦茶の短髪、深い緑の瞳。

 普段は落ち着いた優しげな声が、今は硬い。

 整った顔立ちの奥に、まだ怒りが燻っているようだった。


「王太子にして摂政殿下の仰せですもの。

 お似合いだと思うわよ、あのふたり」


「そちらの話ではありません」


「それだって殿下の仰せじゃない。

 だいたい、わたしが何を言っても聞こうとしなかったのよ。

 今更ちょっと殊勝にしてみせたくらいで――」


 アーヴェイルと向かい合って座ったアリアレインが肩をすくめた。

 まあそれはそうかもしれませんが、と、そこはアーヴェイルも認めざるを得ない。


「そもそも侯爵令嬢と王太子の婚約解消を『そちらの話』呼ばわりなんて、ねえ?」


「話をはぐらかされたのはお嬢様ではありませんか」


 からかうように話題を変えたアリアレインに、アーヴェイルがまた渋面になる。


「――時間の問題でした。

 釣り合わぬ婚約だったのです」


「耳が痛いわね、これでも一応あなたの主家の一員なのだけれども」


「そちらの話ではありません」


 不機嫌さを隠そうともせずにアーヴェイルが応じた。


「お嬢様『に』釣り合わぬと申し上げております」


 わかっておいででしょう、と言いたげな表情だった。


「――不敬よ、その言いぐさは」


 ふい、と視線を窓に逸らしてアリアレインが言う。

 口にした言葉ほどには責める口調ではない。


「敬うべきものを敬わぬから不敬なのです」


「今の言いようがいちばん不敬ね」


 くすくすと笑ったアリアレインが視線を戻した。


「じゃあ、『そちら』じゃない方の話をしましょうか。

 屋敷に帰ったら支度をしなければ。

 戻ったらすぐに全員を集めて。わたしから話をします」


「屋敷にはすでに人をやりました。

 ひとまずは広間に集まるようにと伝えてあります」


 馬車に乗り込むときに、随行してきた従僕のひとりを走らせてあった。

 そういえばわたしを乗せたあとで何かやり取りしていたわね、とアリアレインは思い出す。


「さすがね、アーヴェイル」


「屋敷の者たちに暇を出さねば、と仰いましたから」


 当然です、とでも言いたげに応じたアーヴェイルが、声のトーンを一段落とす。


「――本気なのですか」


「皆に説明をしなければいけないのは本当。

 あとはまあ、時間稼ぎね。咄嗟に思いつけたそれらしい口実があれくらいしかなかったのよ」


「やはりわかりません、お嬢様。

 どう考えても謂れのない処断です。なぜ――」


 ふ、と息を吐き出したアリアレインが首を振った。


「それはいいの。

 綸言汗のごとし、と言うでしょう。

 あの場で口に出してしまったら、殿下は取り消せないわよ」


「御自身では取り消せないでしょうが、お嬢様が頭を下げてお慈悲を、と願うならば」


「そうかもしれないわね。でも、わたしに詫びるような謂れはないもの。

 理のない断罪に許しを乞うて下げるほど、わたしの頭は安くないのよ。

 それに、アーヴェイル、あなた気付いた?」


「何にですか」


「わたしが王国の貴族たるに相応しくない、と言ったとき、御付の者が止めに入ろうとしたわよね」


「ええ、確かに」


「ということはつまりよ、あれはあの場での思いつきなの。

 事前に決めていれば、あの場であんなことをするはずがないもの」


「思いつきならば尚更です。

 そのようなことで大功ある侯爵の令嬢を」


「言ったでしょ、思いつきだろうと何だろうと綸言は綸言。

 言ってしまったからには『やっぱり間違っていました、ごめんなさい』なんて言えやしないわよ」


「しかしそれではあまりにも」


「大事なのは単なる思いつきだってことよ。

 何の準備もしてないわ。追放するにしてもあれこれと根回しや準備は必要なのに」


「そうかもしれませんが――。

 では、そうだとして、この後はどうなさるのですか?」


 尋ねたアーヴェイルに、アリアレインはにこりと笑って応じた。


「決まっているわ。

 あの男はね、」


 アリアレインの灰色の目がぎらりと剣呑な光を帯びる。


「わたしと父上と、マレス侯爵家を侮ったのよ。

 追放刑と言って脅せば畏れ入って許しを乞うだろう、自分にひれ伏すだろう、と」


 こういうときのお嬢様が、とアーヴェイルは思った。

 倒すべき敵を見つけたときのお嬢様が、いちばん生き生きとしておられる。


 それはアリアレインが王太子から隠そうとした表情だった。


「おじい様に教わったの、こういうときにはどうすべきか」


「先代様はどのように?」


「マレス侯爵家は尚武の家だ、その侯爵家がもっとも避けるべきこととは何か、とお尋ねになられたのよ。

 もう十何年前かしらね、わたしがまだほんの子供の頃」


「どうお答えになられたのですか」


 尋ねながら、アーヴェイルには概ね想像がついている。


「負けることでしょう、と答えたわ」


 幼かったアリアレインの答えは、アーヴェイルの想像そのものだった。

 正解だったのでしょうか、と目顔でアーヴェイルが問う。


「おじい様はね、勝つに越したことはないけれど、勝ち負けはどうにもならないことがある、と。

 それより大事なのは、侮られないことだ、と仰ったのよ。

 要らぬ血を流さず、ただ武威をもって安寧をもたらすことが尚武の家の役割だ、と」


「そのためには侮られぬことが肝要、ということですか」


「まさに。

 侮られたならば理解させてやらねばならぬ、とね」


 冷静で理知的な侯爵令嬢、というのがアリアレインの世評だった。

 だが、冷静で理知的な侯爵令嬢が決して浮かべてはならない表情を、今のアリアレインは浮かべている。


 背筋をなにかが這い上がる感覚を意識しながら、アーヴェイルが尋ねた。


「戦われるのですか?

 であれば近衛のマレス騎士館に人を――」


「今は駄目よ。

 王都を焼くわけにいかないし、ここで戦っても勝ち目はないから」


「では――?」


「やりようはあるわ。

 わたしに3日の猶予を与えたことを後悔させてやりましょう。アーヴェイル、」


「はい」


「忙しくなるわよ」


「――はい」



※ ※ ※ ※ ※



 いつものように馬車が屋敷の門をくぐり、いつものように車寄せへ止まる。

 いつものように近寄ってきてた従者たちの顔は、いつもよりも随分と緊張していた。


「ご苦労様。

 最低限の人数だけ残して、広間に集まってちょうだい。

 馬車や道具の片付けは後でいいわ」


 アーヴェイルに手を取られて馬車から下りながら、アリアレインが従者たちに声をかける。

 従者たちは黙ったまま、腰を折る丁寧な礼で応じた。


 屋敷の本館の扉を開けた従者たちにも、あなたたちもね、と付け加える。

 普段静かな館の中には、小さなさざめきとあちこちから聞こえる足音が満ちている。


 アーヴェイルが伝えた集合の号令は、もう屋敷の隅々まで行き渡っているようだった。


 緊張しながらどこか浮ついた空気。

 統制され、同時になにか狂気に憑かれたような。


 なにかに似ている、と記憶の底を探っていたアーヴェイルは、戦の前の幕営地のそれと同じ空気であることに思い至った。


 今は駄目、でもやりようはある。


 馬車の中で、美しい顔になにかを滾らせながらお嬢様はそう言った。

 なにをどうやって、と不安に感じるところがないではない。


 だが、忙しくなる、ともお嬢様は言っていた。

 すでにお嬢様の頭の中で、段取りは組み上がっている、ということだ。


 それがどのようなことであれ、と、アリアレインについて廊下を歩きながら、アーヴェイルは思う。


 自分は全力でお支えするのみなのだ。

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