ノール伯爵ルドヴィーコの懸念(前)

 その夕刻、王城へ呼び出されたノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカールは、ひどく緊張していた。

 登城せよ、という王太子の命は唐突なもので、なぜ呼び出されるのか見当がつかないからだった。


 王室への隠し事がないと言えば嘘になるが、フォスカール家のそれは貴族の誰もが抱える些細な秘密に過ぎない。

 そう考えるとますます呼び出される理由がわからず、さりとて王太子のお召しとあればすぐさま出向かぬわけにもいかない。

 登城する馬車の中で、ルドヴィーコは肥満した身体を神経質に揺すり続けていた。


 家紋を印した馬車が王城の跳ね橋に差し掛かると、橋を守る兵士は何も言わずに道を開けてくれた。

 普段ならば中を検められ、登城の用向きを細かに尋ねられるところだ。

 丁重な態度がかえって薄気味悪い。


 控えの間に通されても気が休まらず、秋の夕方だというのに出てくる汗を拭き続けている。

 部屋の中をうろうろと歩き回らないのは、辛うじて働かせた自制心と自尊心の為すところだった。


 案内の者が部屋に現れ、こちらへ、と先導する先は、公的な面会に用いられる謁見の間ではなかった。

 私的な用向きに使われる部屋で、どちらかと言えば内密な話の場だった。


 やはり理由がわからない、と思い悩む間に、もう扉が目の前にある。

 ここまで来たならばどうとでもなれ、と腹を括ったルドヴィーコが、ひとつ咳払いをして案内役に頷く。


「ノール伯爵ルドヴィーコ・フォスカール閣下、王太子殿下のお召しにより登城なさいました」


 案内役が声を張る。


「よい、入れ」


 王太子の声が応じた。


 案内役が開けた扉の先に足を踏みだそうとして、ルドヴィーコは固まった。

 なぜここに娘がいるのかが理解できなかった。


「何を立っておる、入れ、ノール伯」


 王太子が鷹揚に促す。

 その声に引き摺られるように部屋の中へ足を踏み入れた。


「お召しにより参上いたしました、殿下」


 声が少々上ずっていたかもしれない。

 くつろいだ姿でソファに腰かける王太子の隣に、娘のクラウディアが座っている。


 領地経営と公務で忙しく、家のことは妻に任せきりという状況ではあったが、こういうことになっているとは全く知らされていなかった。

 なぜこのような、殿下には婚約者がおられたのでは、と頭の中を疑問が駆け巡る。


「クラウディアに――娘にお目を掛けていただいておるようで、恐縮の限りでございます。

 なにか失礼などは」


「失礼などない、よく話を聞いてくれる。

 よい娘御を持ったな、ノール伯」


 は、ともう一度恐縮するルドヴィーコに、王太子は、まあ座れ、と向いの席を手で示した。


 失礼いたします、とルドヴィーコが腰を下ろすと、全員に紅茶が運ばれてきた。

 最高級のもののはずだったが、ルドヴィーコには香りがまったく感じられなかった。


「それで、ノール伯、娘御のことだ」


「は」


「単刀直入に言おう、娘御を貰い受けたい」


「――側室、ということでございましょうか。

 左様であれば――」


「側室などではない」


 苛立ったように王太子が遮る。


「正妃だ。正確には、正妃とすることを前提に婚約、ということだが」


 口の中が渇いて舌がもつれた。


「お、畏れながら、殿下、殿下の婚約者様――マレス候の御令嬢は」


「あの婚約は」


 不機嫌そうに視線を逸らし、王太子が吐き捨てる。


「つい先ほど解消した。

 あの娘は正妃たるに相応しくない――いや、この国の貴族たるにすら」


 嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、ルドヴィーコは重ねて尋ねる。


「陛下はなんと」


「忘れたか、余は摂政だ。

 御病気の陛下を煩わせるまでもないわ」


 たしかに陛下は病身で、近頃は床から起き上がることすら叶わないと聞く。

 そして王太子殿下は摂政として、陛下に代わって国政を取り仕切る身でもある。


 とはいえ、将来の王妃を決めるような大事を、陛下の御意思を確かめずに決めてしまってよいものか。

 まして相手は国有数の大貴族、マレス侯爵の一人娘。その影響力も考慮しての縁談ではなかったか。


「ノール伯、どうなのだ?」


 押し被せるように問われて、ルドヴィーコは己がまだ王太子に返答していなかったことを思い出した。


「御意のままに、殿下。

 不束な娘ではございますが――」


 応じながらルドヴィーコは、マレス侯爵にどう言い訳したものか、と考えている。


 現当主は穏健で民の生活向上に心を砕く名領主との評判だ。

 ルドヴィーコ自身も知らぬ間柄ではないし、決して悪い関係でもない。

 むしろいくつか借りがあるくらいで、この上娘が王太子の婚約者たる地位を奪い取ったなどということになれば、一体どの面を下げて会えばよいのか。


「うむ、礼を言うぞ、ノール伯」


 満足そうに頷いた王太子が、傍らのクラウディア――ノール伯の令嬢に視線を向ける。


「さあ、クラウディア、これで晴れてそなたと婚約したと皆に言える」


「ああ、エイリーク殿下、クラウディアは嬉しゅうございます」


 この光景を手放しで喜ぶことができたならば、自分はどれほど幸福だったことか、とルドヴィーコは内心で頭を抱えている。

 娘のクラウディアは、親の欲目を差し引いても、美しい子だと思っていた。


 豊かな向日葵色の髪と透き通るような白い肌、宝石にも喩えられるような紫の瞳。

 美しい妻の子とはいえ、正直なところ、自分の血が入っているとは思えないほどの美人に育ってくれたことを、ルドヴィーコは神に感謝している。


 しかしそれはそれとして、この国の正妃たるに足りるかどうか。

 無論、ルドヴィーコも妻も、どこへ出しても恥ずかしくないよう教育に努めてはきた。

 クラウディアも素直にそれに応え、その甲斐あって人並み以上の知識と教養を身につけた女性になってくれている。


 ――だが、あの侯爵令嬢を見てしまったあとではどうだろうか。

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