侯爵令嬢アリアレインの休息(前)
その日、アリアレインは、朝からどうも様子がおかしかった。
目に見えて大きな変化があったわけではない。使用人たちと普通に話し、祐筆にはいつも通り指示を出して、アーヴェイルとの会話にも、どこが、と指摘できるほどの何かがあったわけではなかった。
いつもよりも返答が半瞬遅れたり、いつもならば必ず気付くだろう誤字の指摘漏れがあったり、書類の文字を目で追うその視線が同じ箇所を何度も往復していたり、そういった細かいところが、少しずつ普段と違っている。
「お嬢様」
午前中の仕事を片付け、祐筆たちが昼食のために出て行った書斎で、アーヴェイルはアリアレインに話しかけた。
「――どうしたの?」
半瞬の間があって、アリアレインが答える。
「午後は、お休みになられてはいかがでしょうか」
椅子に座ったまま、傍らに立つアーヴェイルを見上げた切れ長の目が、二度三度としばたたかれる。
「わたし、そんなに変?」
「なにが、というわけではありませんが。
お疲れなのではありませんか?」
ふたたび少し、考えるような間があった。
「――そうかもしれないわね」
ため息と一緒に、同意の言葉がこぼれた。
「何があったというわけでもないの。ないのだけれど――」
アリアレイン自身も、原因がよくわかってはいない。
だからこそ休んだ方がよい、とアーヴェイルは言っている。
そう気付いたアリアレインは、ひとつ息をついて頷いた。
「そうね、そうするわ」
「午後は来客のお約束はありません。
お約束のないお客様は、適当に理由をつけてお断りするよう、スティーブンス執事にお話ししておきます」
任せるわ、とアリアレインがもう一度頷く。
アーヴェイルはそのまま、執事のもとへと出向いた。
※ ※ ※ ※ ※
「ああ、それは、お休みになられた方がよろしいでしょうな」
屋敷の老執事、スチュアート・スティーブンスは、アーヴェイルの話を聞いてそう応じた。
「とはいえ、どうしたものか」
屋敷でアリアレインのお気に入りの場所と言えば書斎だったが、執務室も兼ねた書斎に籠もったままでは、仕事から離れることができない。
街へ連れ出す、というような気分でもなさそうだった。
迷うアーヴェイルに、それならば、と老執事が助け舟を出す。
「お好きな本でも読んで過ごしていただく、というのは。
手に入れたまま、お読みでないものもいくつかあるのでは?」
「いや、ですから書斎では――」
「場所を変えて。たとえば、外でお庭を眺めながら」
季節は秋だった。日差しは夏ほどに強くはなく、風は爽やかで、冬ほどに寒いというわけでもない。
庭を彩る花は春ほどには華やかとは言えないし、木々の葉も色づくにはまだ早いけれど、老執事の提案は悪くないもののように思えた。
「フェリクスに、よい場所を聞きましょう」
「それがよろしいでしょう」
アーヴェイルの言葉に、老執事は笑顔で頷いたのだった。
※ ※ ※ ※ ※
「そのような事情なのですが」
庭の片隅で自ら土をいじっていた庭師のフェリクスを捕まえて声をかけ、アーヴェイルはざっくりと事情を説明した。
「どこかよい場所は――?」
そうですね、と、立ち上がりながらフェリクスが応じる。
「午後になりますから、東側よりは南か西のお庭でしょうね。この時期ですし、日当たりがあった方がよいでしょう。
西側に、クレマチスとコスモスを植えてある場所があります。クレマチスはそろそろ終わりですが、まだ楽しめる時期かと。コスモスはいまがいちばんよい時期です。そちらを眺められる場所に、テーブルと椅子と――それからパラソルを用意しましょうか」
庭師の提案に、アーヴェイルは頷いた。
「頼みます。是非」
「お昼のお食事が終わる頃までには、西の庭の支度を整えておきます。
お嬢様に、よろしくお伝えください」
手早く道具を片付けにかかりながら、フェリクスは言った。
「わかりました、ありがとう」
※ ※ ※ ※ ※
アーヴェイルが書斎に戻ると、昼食の支度ができていた。
パンにハムやチーズなど様々な具材を挟んだそれは、ハスラーズ・ブレッド《賭け事師のパン》と呼ばれている。賭け事に熱中したとある貴族が、その場で手を汚さないまま食べられるように工夫したもの、というのが由来だった。今では、手軽につまめる軽い食事として、貴族のみならず市井でも広く親しまれている。
大きな机には綺麗に切られたハスラーズ・ブレッドを取り分けた皿が置かれ、侍女とアリアレインが待っている。
「お待たせをしてしまいましたか。申し訳ありません、お嬢様」
自分を待っていた、と知って詫びたアーヴェイルに、アリアレインはううん、と首を振った。
「ひとりの食事も嫌いではないけれど、ちょっと味気ないもの。アーヴェイル、付き合ってくれるわね?」
待たせてしまっていたとあっては否応などあるはずがなかった。
遠慮してすこし離れた席に腰を下ろそうとしたアーヴェイルを、そっちじゃないわ、とアリアレインが制する。
「そんな遠くにいても仕方ないでしょう?」
示されたのは、アリアレインの席と机の角を挟んだ隣の席だった。
ひとつ息をついたアーヴェイルが、はい、と応じて席につく。
お茶を、と命じたアリアレインに頷いて侍女が紅茶を淹れ、一礼して壁際へ下がった。
「午後、お休みするのはいいけれど」
食事をつまみながらアリアレインが言う。
「何をして過ごしたものかしらね」
「それでしたら、お嬢様」
口の中に残っていたパンのかけらを飲み下して、アーヴェイルが応じた。
「ひとつ、ご提案があります。お食事のあとにでも」
「そう? 楽しみにしているわ」
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【追記:注釈】
本稿は書籍版「侯爵令嬢アリアレインの追放 上」の発売に当たって新規に書き下ろした短編の2本目(前後編)の後編です。
時系列的にはWEB版本編より1年前あたりの出来事ですね。
秋のある日、ちょっとお疲れ気味の主人公と主人公付きの従士のお話です。
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