王都大司教ヴァレリアの困惑
「――これは」
聖堂の一室へ案内された侯爵家の姉弟を前に、大司教ヴァレリアは驚きを隠せずにいた。
「ご面倒をお掛けしますが、猊下」
背筋を伸ばして座る小柄な侯爵家令嬢が重ねて言い、2枚一組になった書面をつい、と押す。
「よろしいのですか、ハーゼン様?」
「事情はお話ししたとおりでございますので」
婚約解消に追放、どう考えても理の通る話ではない。
だというのに、この提案はどういうことなのか。
「教会から王太子殿下に取りなすこともできます、ハーゼン様。
お話を伺うに、あまりに――」
皺の刻まれた頬を歪めて、年老いた大司教は首を振った。
「お心遣いに感謝を。
でも、起きてしまったことは変えられません。
殿下も、ひとたび宣告なさった処断を取り消そうとは思われないでしょう」
姉と並んで座るクルツフリートは、表情を変えない。
ただ、内心では、そりゃ姉様が頭を下げないからだろ、と思っている。
「ですから猊下、わたしは仕方ないとして、教会には残る者の保護をお願いしたいのです」
言いながらアリアレインは、優雅な手振りで机に乗った書面を示す。
白髪の老大司教は悲しげにため息をついて、書面に目を落とした。
「もちろん、それはハーゼン様、あなたの望まれるようにいたします。
しかし――やはり理の通らぬことは通らぬこととして、わたくしからも」
「お心遣いのみ、猊下。
教会は世俗のことに関わってはなりません。
もし関わらねばならぬことがあるとしても、このような些事で関わるものではありません」
「ご自身の追放を些事と仰られますか」
アリアレインの父――当代マレス候に代替わりして以来、ハーゼン家は王都の教会に多額の寄進をし続けていた。
何かと縁の深いハーゼン家の令嬢に降りかかった不運に、大司教は同情している。
「教会そのものの権威に比べれば些事でしかありません。
わたしひとりのことですから」
実際問題として、王の名でもって行われる裁きにいちいち教会が口を挟むわけにはいかない。
それがたとえば、教会の司祭や修道士に、あるいは教会そのものに関わる話でもなければ、教会が口を挟む謂れもないのだ。
大司教は黙って首を振り、机の上の書面に手を伸ばした。
「内容に異存はございません、ハーゼン様。
たしかにお引き受けいたします。
残られる方はそれでよいとして、あなたと弟君はいかがなさいます」
「ひとまずは郷里へ。そのあとは父と相談をせねばなりません。
明日の夕方までには屋敷を引き払います」
指を折って数をかぞえた老大司教が、怪訝そうに首を傾げた。
「追放の日限は明後日の夕刻ではありませんか?」
小さく笑ったアリアレインが、はい、と頷く。
「ですが、ただ待つのは性に合いません。
それに、こうなった上は、潔さのひとつも見せなければ」
そうですか、と老大司教が肩を落として頷いた。
しばらく書面を眺めていた彼女はひとつ息をつき、ペンを取り上げてそれぞれに署名を入れた。
「無理な願いをお聞き届けくださったことに感謝を、猊下。
くれぐれもよろしくお願いいたします」
書面のうちの1枚を手に取ってクルツフリートに渡し、アリアレインが立ち上がる。
クルツフリートも立ち上がり、ふたりは深々と頭を下げた。
「ハーゼン様、どうかそのようなことは。
大きな恩を受けながら、このようなときに何もして差し上げられないことを、わたくしこそがお詫びせねばならないのですから」
慌てたように言う老いた大司教に、アリアレインはもう一度首を振った。
「いいえ、猊下、あなたがたであればこそ、わたしたちは心残りなく王都を離れることができるのです」
静かに笑うアリアレインの表情の中に、口にした言葉と違うなにかを、大司教は感じ取った。
それが何かはわからない。
――でも、俊才と評判の高い彼女であれば。
この頼みにも、明確な意味と目的があるのだろう。
そして今はそれをわたくしに話すことができないのだろう。
「あなたたちのご無事と幸運を祈ります、ハーゼン様。
慈悲深き天の父と、慈愛あまねき天の母の御名において」
そうであればわたくしにできるのは、祈ることと結んだ約束を誠実に守ることだけ。
結局のところ普段とそう変わるものでもないのね、と大司教は思う。
もう一度丁寧に礼をして退出するハーゼン家の姉と弟を、大司教は黙って見送った。
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