色なき風にうたれて

秋里ひたき

プロローグ 芝亀望①

 夕間暮ゆうまぐれの編集部は閑散かんさんとしていた。

 作業に一区切りをつけた芝亀しばがめのぞみった肩周りをほぐすように一つ伸びをして時計を確認する。十七時十分過ぎ。もうこんな時間か、と芝亀は辺りを見回す。普段から人の少ない『月刊壱蜂いっぽう』編集部には芝亀の他に編集長の姿しかないようだった。応接用のソファに腰掛けている編集長は退屈そうな様子で例の如く情報収集と称して各局の夕方のワイドショーや報道番組をザッピングしている。

 そんな編集長を横目に芝亀はデスク下の引き出しに間食、または非常食として用意してある即席麺へと手を伸ばす。

 味噌にするか、シーフードにするか、それが問題だ。

 前髪を押さえていた髪留めを外しながら芝亀はそんな台詞を頭の中で呟く。遅すぎる昼食、もしくは少し早い夕食として芝亀が選択したのはシーフード味だった。机の上を手早く片付けて給湯室からお湯を失敬する。そうして芝亀が席に戻ると編集長から「ん?」と妙な声が聞こえてきた。

「どしたんすか」

 素っ気ない調子で芝亀が編集長に尋ねると「来てみろ」と手招きをされる。スマホのタイマーを三分にセットしてから芝亀は席を離れて、編集長が指さす部内に設置してあるテレビの画面に視線を向けた。映されていたのは地元密着型のニュース番組。編集長がリモコンを操作して少しずつ音量を上げていく。字幕テロップには速報という文字がおどっていた。

〈――生徒同士による暴行事件が発生した模様です。被害者の数や安否。怪我の程度はまだ分かっておりません。――〉

 地元ローカル局による速報。そのことに着目して芝亀は端的に尋ねる。

「どこっすか?」

 編集長の答えもまた簡潔だった。

律調りっちょう高校だそうだ」

 その返答に芝亀は瞠目どうもくする。

「すぐ近くじゃないっすか!」

「そうだな」

 編集長のそのいやに落ち着いた態度に芝亀は悪い予感がした。編集長の口の端には人の悪い笑みが浮かんでいるように見える。

「まさか、行ってこいとか言わないっすよね?」

「おっ、よく分かったな。勘働きが良いのは記者としては長所だぞ」

 ソファに背を預けて編集長は事もなげにそう言った。

「……嫌。嫌っすよ、嫌! 私、さっき仕事終わったところなんだから」

「終わってるならいいだろ。なんの問題もない」

 全く悪びれない編集長の態度に芝亀は天を仰ぐ。

「……っていうか、こんなTHE・報道って感じのはうちの仕事じゃないでしょ」

 そう反論する芝亀に編集長は取り合わない。

「若いうちから仕事選ぶな、芝亀」

「格好つけてもダメっすよ。うちはゴシップとグルメの情報誌でしょ!」

 悪臭と飯の匂いにばかりたかる蜂。それが『月刊壱蜂』の業界内での評判だった。そんな評判を基にした芝亀の抗議に編集長はやれやれと呆れたような様子を見せる。

「嘆かわしいねぇ。『月刊壱蜂』編集部員ともあろう者が。初代編集長の爪の垢でも煎じて飲ませたいもんだ」

 編集長はそう言って芝亀の背後、編集長席の上に掲げてある額縁をあごで示す。

『一報は常に蜂の一刺ひとさしであれ』

 権力に屈さず、おもねらず、刺し違えることもいとわない。そんなマスメディア精神を表現したという『月刊壱蜂』の誌名の由来でもある初代編集長直筆の標語。

「うちの記者なら、こういう事件にこそ飛び込む気骨がないとな」

 わざとらしく芝居がかった調子でそんなことを言う編集長に芝亀は溜息を吐く。報道誌として一線を張れていたのはもう何十年も前の話でしょ、と。それに、と芝亀にはまだ思うところがあった。

「そういうこと言うなら、少しは掃除したらどうっすか?」

 山と積もった埃に耐えかねてか額縁は斜めに傾いている。普段からうやうやしく目礼されることも、丁重に手入れされている様子もない。初代編集長の爪の垢を煎じて飲むべきは目の前にいる当代の編集長の方ではないかと芝亀は白い目でその当人を見る。

 そこへセットしていたタイマーの音が響いた。

 その音に芝亀は逃げ口上を思いつく。

「そうだ。私、今から食事にするとこだったんすよ。今日、まだお昼食べてなくて――」

「そうか、それなら致し方ない」

 ホッと一息吐く芝亀に編集長は言葉を続けた。

「代わりに俺が食っといてやる。だから、早く行ってこい」

 早くも編集長は立ち上がり、芝亀の席に置いてある即席麺へとその魔の手を伸ばしていた。芝亀は編集長を自分の席へ行かせてなるものかと立ち塞がる。

「行ってこいったって足がないっすよ」

 部内唯一の社用車は別の記者が使用している。また、近いといっても律調高校は徒歩圏内とは言い難く、公共交通機関を使おうにも『月刊壱蜂』編集部と律調高校の最寄り駅は線が違う。そのことは当然、編集長も把握しているはずだった。

「そういえば、ヨネさんが使うとか言ってたな」

「そうです! そうそう!」

 さらに言えばタクシーが使えるほど『月刊壱蜂』に下ろされている予算は潤沢ではない。懐事情を引き合いに出せば編集長も引き下がらざるを得ない、芝亀はそう考えていた。

「それとこれとは別だけどな」

 冗談を言っている風でもない編集長の意図が芝亀には掴めなかった。

「なんでですか? まさか、歩いていけなんて……」

「そこまで俺も鬼じゃないさ。律調高校まで今から歩いていっても、その頃には大した情報はなさそうだしな」

「それは車で行っても同じじゃ……」

「同じじゃないさ。あの辺りは意外と道が入り組んでるところも多くてな、車で行った方が時間を食うかもしれん」

「それじゃあ、どうしろって?」

「うちには社用車がもう一台あるだろ」

「もう一台の社用車……?」

 そんなのあったっけ、と芝亀が意表を突かれている間に、編集長は芝亀の用意した即席麺をその手に収めていた。どこから取り出したのか割り箸も既に手に持っている。

「あ、ちょっ――」

「まだ思い出せないか? 入り口のとこにいつも置いてあるだろ」

 芝亀は即席麺を半ば諦めて、記憶を探る。編集長の言うもう一台の社用車。その存在に芝亀はようやく思い当たった。

「――あれはただの自転車じゃないっすか!」

 二人だけの編集部に芝亀の叫びが空しく響いた。

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