第七章 藤吉真尋②

 二年生に進級しても藤吉ふじよしの方針に変更はなかった。

 校則の遵守じゅんしゅ、成績の維持、等しく友好的な態度。そんな優等生としての振る舞いは既に藤吉の身体が覚えているといっても過言ではないほどだった。そのため、律調りっちょう高校での一年間につちかった処世術と磨き上げた洞察力を駆使するまでもなく、藤吉は一年時に引き続き四組の学級委員の座を射止めることとなった。あまりにあっけない着任だったが、その際にも「運が良い」という口癖による印象操作を藤吉は忘れなかった。

 ほころびも妥協もあってはならない。そう藤吉は自らを律していた。

 ほぼ一年時から持ち上がりのクラス。希望通りの学級委員への就任。それらは新年度、新学年の始まりとしてはこれ以上ないほどの順調な滑り出しと言えた。しかし、全てが順風満帆というわけにもいかない。特筆すべき不安材料を藤吉は指折り数える。

 まず一人目は昼川ひるかわ蓮司れんじ

 二年連続でクラスメイトとなった昼川はサッカー部期待の新星からエースへと部内での足場を着実に向上させていた。基本的には同じサッカー部に所属している男子生徒や運動部との関わりが目立つが、その運動神経の高さや体格、精悍せいかんな顔立ちからか女子生徒の人気も集めているようだった。昨年度と同様に、昼川本人よりも昼川へ好意を寄せる女子生徒の動向にこそ気を配るべきだと藤吉は留意りゅういする。

 昼川くん自身の素行そこう優等生わたしの引き立て役として活用する道がある。余計な手出しをすることもない。それから、と藤吉は思う。隠しているつもりらしい美ノ瀬みのせくんとの関係にも敢えて口を出すことはない。

 藤吉が二人目に数えたのはつつみ清彦きよひこだった。

 奥堀おくぼりに代わって新たに四組の担任となった堤。教科担当としての面識すらなかったこの教員に関して藤吉は何一つ情報を持っていなかった。指導方針や生徒との距離感。そして、何にも増して重要なのは評価基準だと藤吉は考える。どういった生徒を好み、どういった生徒を嫌うのか。学生の評価は教員によって左右される。担任となれば尚更なおさらのこと。早急さっきゅうに堤については調べる必要があった。

 あせりは禁物。不信感を抱かれてはならない。

 学級委員という立場を利用すれば堤先生を探る機会はいくらでもある、と藤吉ははやる心を抑えた。

 そして、三人目に藤吉は爽町さわまち雛子ひなこを思い浮かべる。

 その存在を藤吉は一年生の頃から認識していた。整った顔立ちと抜群のプロポーション。そして、自身のその特異性に無自覚だという厄介やっかいな性質を持ち合わせているらしい女子生徒。男女を問わず不必要に注目を集める爽町が四組という自身の勢力範囲に侵入してくることを藤吉は危惧きぐしていた。

 爽町や昼川しかり、良くも悪くも影響力の強い人物との接触を藤吉はなるべく避けてきた。無用な嫉妬しっと羨望せんぼう、その他にも微妙な生徒間の力関係の変動を警戒したためだ。情報収集に当たってその渦中に飛び込むことが最善であるとは限らない。傍目八目おかめはちもく。一歩引いた立ち位置にこそ利点があると藤吉は考えていた。しかし、その当人とクラスメイトになってしまったからには対策を講じないわけにもいかなかった。

 異性である昼川くんよりも、接点の多くなりそうな爽町さんの方が危険度は上かもしれない。女子同士、事によれば男子を巻き込んだ不和や軋轢あつれきにも繋がりかねない。注意しなければ、と藤吉は気を引き締める。そのほか堤や爽町以外の新顔への善後策も藤吉は抜かりなく用意していた。

 周到な備えと警戒態勢のおかげか四月は何事もなく穏やかに過ぎた。二年四組の生徒間に大きな問題はなく、藤吉が不安要素と考えていた昼川と爽町にも目立った動きは見られなかった。そのため、藤吉はその間に堤の情報収集と懐柔策かいじゅうさくに専念することが出来ていた。

 堤先生のことは大方調べがついた。真面目に授業を受けてさえいれば問題はなさそう。爽町さんも思っていたほどではなかった。むしろ孤立している節すらある。教室の雰囲気を悪くされる前に手を打った方がいいかもしれない。

 そんな藤吉の心配をよそにゴールデンウィークが明けた頃から爽町の隣に杉江すぎえ神崎かんざきの姿が見られるようになった。新たな友人の存在に気を取り直したのか、爽町は教室でも徐々に笑顔を見せ始めた。そのことに藤吉は一安心する。教室の空気感が健全であることは学級委員である藤吉にとっても望むところであり、それは喜ばしい変化と言えた。

 五月の下旬、六月の足音が聞こえてくる頃には教室での爽町の印象は他の四組の生徒と大差ないものへと落ち着いていた。

 昼川くんの扱い方は熟知じゅくちしている。堤先生の信頼も半ば手に入れたようなもの。爽町さんもクラスに馴染なじんだ。

 それらの意味するところは一つだった。

 二年四組の中にもう脅威はない、そう藤吉はたかくくっていた。

 日誌の記入法を教えてほしいと爽町達が頼んできたのは丁度その頃だった。

「ねえ、藤吉さん。何か困ってない?」

 それは質問ではなかった。確信めいた考えから発せられたらしい爽町の言葉に藤吉の中でにわかに警戒感が高まる。しかし、その内心を表情には出さずに藤吉は驚いた風を装った。

「えっ? 急にどうしたの、爽町さん?」

 藤吉のその反応を予想していたように爽町は用意していたであろう言葉を続けた。

「日誌さ。藤吉さんばっかり書いてるでしょ?」

 よりにもよって、と藤吉は苦虫を噛み潰したような気分を覚えた。この日の日誌当番である杉江を伴っている爽町がその事実を確認していないはずがない。ここで否定するのは悪手だと考え、藤吉は「ああ、うん。そう、だね」と控え目に笑って誤魔化ごまかそうと試みた。

 しかし、爽町はそんな曖昧あいまいな態度を許してはくれなかった。

「それって不公平だよ」

 爽町が目をつけたのはクラスの学級日誌。だが、それはただの日誌ではない。当番制度を知らない、もしくは忘れていた生徒の代わりに記入することで積み上げた目に見えない点数がそこには刻まれている。二年四組の学級日誌は藤吉がこつこつと教員の心証を稼ぐために使ってきたえのかない代物しろものだった。

 堤先生が気づく分には構わなかった。むしろ気づいてもらわなければ困る。でも、と藤吉は思う。

 不公平と言われたら、もう私は日誌を使えない。

 手中の既得権益きとくけんえきを藤吉はおいそれと引き渡すわけにはいかなかった。何か手はないかと視線を巡らせる。そして、苦し紛れに藤吉は言った。

「……でもほら、あたし、学級委員だから」

 藤吉はその言葉を免罪符めんざいふのようにかかげた。しかし、爽町達にとって学級委員は名ばかりの役職でしかなく、その職責から発生する日誌の独占権を認める気はないようだった。

「それとこれとは別だよ、藤吉さん」

「そうそう。学級委員だからってなんでもかんでもやらなきゃいけないわけじゃないよ」

 寄ってたかって神崎と杉江が言い募る。その二人をきつけたであろう爽町もまた同じ考えに違いなかった。

「でも」

 そう言って未練がましく食い下がる藤吉を見るに見かねてか杉江がある提案を始めた。

「私、男子達に言ってこようか?」

 それだけは駄目! と藤吉は心中で絶叫した。

 問題の共有は即ちクラス内での問題の顕在化けんざいかに他ならない。教員である堤からの注意勧告とはわけが違う。それは学級委員である藤吉にとって未然に防げなかったという失点以外の何物でもなかった。また、それに伴って爽町達と男子、主に昼川のグルーブが対立することは目に見えている。

「いやいや、今日も堤先生が注意してくれたから大丈夫。大丈夫」

 事態の沈静化をはかるために藤吉は爽町達をなだめに掛かった。

「でも、このままじゃ良くないよ」

 不公平を指摘するだけでは飽き足らず、現状の是正ぜせいをも主張し始めた爽町に藤吉は苛立いらだちすら感じ始めていた。何とかこの場を収めようと藤吉は言い訳じみた物言いをする。けれど、爽町にはそのまま藤吉を言い逃れさせるつもりはないようだった。

「駄目だよ。こういうのはハッキリさせなきゃ。私、藤吉さんの代わりに男子達に怒ったげるよ」

 この爽町の提言に藤吉はなぜか無性に腹が立った。あくまで善意から藤吉の領分りょうぶんおかそうとする無邪気な瞳。そして、藤吉が押し殺してきた不公平や不平等、公正でない事柄へ素直に反旗をひるがえそうとするその姿。それらが藤吉には恨めしかったのかもしれない。

 結局、藤吉には優等生の仮面を着けたまま爽町達をけることは出来なかった。

「――みんなと同じクラスになれて良かったよ」

 心にもない言葉を口にしながら藤吉は顔の表面に微笑みを形作る。そこに苛立ちがにじむのを感じて藤吉はあせった。そこで思いがけず妙な姿勢を取った神崎に乗じて、藤吉は腹を抱えるようにして表情を隠した。頭の上で笑い合う爽町達に悟られないように藤吉は必死で怒りを潜ませていた。

 爽町達はすぐさま行動を開始し、学級日誌は藤吉の思惑おもわくとは裏腹に本来あるべき当番制へと戻っていった。さらに留まることを知らない爽町は日誌だけでは不十分だとでも言うように、主に男子生徒のだらしなさや授業での態度に苦言を呈し出した。

 その結果、授業は幾度となく中断され、二年四組の授業進度はゆっくりと、しかし、確実に遅滞ちたいしていった。とどこおった授業の皺寄せを受けて期末試験の直前には何度も授業時間が延長されることとなった。そんな由々ゆゆしき事態に藤吉は頭を抱えずにはいられなかった。

 藤吉の全ての努力は目下もっか、大学受験に集約される。それをかんがみれば爽町の活動は藤吉に対する明確な妨害行為と言えた。つまり、一刻も早く対応策を講じる必要に藤吉は迫られていた。

 しかし、爽町の前に対処すべき問題に藤吉は直面した。

 夏期休暇を控えた一学期の最終日。藤吉は昼川から呼び出しを受けた。

 昼川蓮司。爽町同様に要注意人物の一人ではあったが、藤吉は昼川の扱いを心得ているつもりだった。けれど、藤吉が理解し、わきまえていたのはクラスメイトとしての昼川でしかなかった。その理解の浅さが招く事態を藤吉は全く想定できていなかった。

「話って何かな、昼川くん」

 呼び出された倉庫で待ち合わせた昼川に藤吉はそう声を掛けた。

「あ、あのさ、えっと」

 そうして言いあぐねている様子の昼川に藤吉は助け船を出す。

「もしかして爽町さんのこととか?」

 呼び出された理由を藤吉は爽町の件だと信じて疑っていなかった。クラス内で猛威もういふるう爽町、その一番の標的となっていたのは昼川だった。そのため、昼川は爽町への対処法を学級委員である自分に相談するつもりなのだろうと藤吉は安易に決めつけていた。それは藤吉自身が爽町対策に意識の大部分を割かれていたためでもあった。

 けれど、昼川は藤吉の言葉に驚きをもって返した。

「えっ、なんで爽町?」

 その反応に藤吉もまた驚いた。

「あれっ、違った?」

「うん。違くて」

 爽町さんの話じゃないなら、何の用だろう。部活のこと、それとも試験結果。堤先生の話を私にするとは思えない。ひょっとすると、美ノ瀬くんのことかもしれない。

 予測される相談内容に藤吉の頭が回転を始めた。昼川の相談が何に対してであろうと優等生として適切な回答を返せる準備をして藤吉は待ち受けた。いつでも構わないというように見上げていた視線が昼川と交わってすぐに外される。

 そして、その言葉はつむがれた。

「俺と付き合ってくんない?」

 その告白は藤吉にとって正に青天せいてん霹靂へきれきだった。思いがけない昼川の言葉に瞬間、内側の藤吉が顔を出す。優等生にそぐわない戦慄せんりつ愚弄ぐろうぜになった剣呑けんのんな表情。その鋭い視線は目の前のよく焼けた浅黒い横顔にきつく照準を絞っていた。

 けれど、それも束の間、藤吉は即座に我に返って昼川を窺った。

 見られた?

 藤吉は自らの迂闊うかつを呪った。焦燥しょうそうが手の内側に爪を食い込ませていく。しかし、眼前の横顔にさしたる変化は現れなかった。視線を外していた昼川には気取られなかったらしい。だが、安心するにはまだ早かった。

 事態は何も好転していない、と藤吉は心中で音高い舌打ちを鳴らす。

 異性であるという危険性を正しく認識していなかった甘さが引き起こした状況に対処するすべを藤吉は持ち合わせていなかった。

 苦心して作り上げたへだてのない優等生という仮面の弊害へいがい。誰か一人を特別視することは藤吉には出来ない。かといって断ればかどが立つ。そして、あろうことかその告白は昼川蓮司からのもの。取り返しのつかない状況に藤吉は追い込まれていた。

 最悪の想定が藤吉の脳内に渦を巻く。

 不純異性交遊による築き上げた信頼の失墜しっついいわれのない中傷。YESという選択肢はない。ありえない、と藤吉は考える。しかし、こばめば“あの”昼川蓮司を袖にした女として好奇の衆目しゅうもくさらされる。それは優等生の在り方とは程遠く、仮面の下にある素顔を知られる危険をもはらんでいた。

 救いのない二択。どちらを選んでも藤吉に待っているのは地獄だった。

 昼川の言葉によって既にさいは投げられている。藤吉に猶予ゆうよはいささかも残されてはいなかった。

 どうしていつもこうなる。どうしていつも私の手にサイコロはなく、投げられた後になって、そうと知らされるのか。

 みだれる激情を藤吉は仮面の中に押し込めた。

「ごめんなさい」

 藤吉は爆弾を抱え込むのではなく、告発におびえる日常を選択した。

 昼川蓮司という危険因子は私の手に余る。そうでなくても私は優等生という重い仮面を抱えているのだから。

 その場を逃げるように立ち去った後、迎えた夏期休暇中、藤吉は気が気ではなかった。発狂はっきょうせずにいられたのはひとえに藤吉に災厄をもたらした爽町と昼川への敵愾心てきがいしん賜物たまものだった。

 “藤吉真尋”をおびやかす存在は排除しなくてはならない。

 およそ一月を掛けて醸成じょうせいされた敵意という弾丸。その凶弾を二人に打ち込む瞬間を藤吉は心待ちにしていた。

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