第七章 藤吉真尋①

 校庭を囲むフェンスの向こうに黒山くろやま人集ひとだかりがある。それは事件の情報を少しでも聞き出そうと群がる報道陣のようだった。その一塊ひとかたまりの集団を窓越しに見下ろして藤吉ふじよし真尋まひろは、放っておけばそのうち校門の内側にまで入ってきそうな勢いだと他人事ひとごとのように思う。

 そんな窓の外への興味を失って藤吉は振り返った。二年四組の教室には静謐せいひつが保たれている。あと数分で始業の時間だというのに登校した生徒は本来の半数にも達していなかった。静まり返った教室を眺めてこの様子では授業はなくなりそうだと藤吉は推測する。

 それならそれで、家に帰って勉強するのも悪くはない。

 藤吉がそう考えていると静寂せいじゃくを破るように教室の扉が開いた。そこから顔を出したのは担任のつつみだった。藤吉は堤の様子を観察する。出欠を取る声は精彩せいさいを欠き、表情はやつれきって見える。その姿を見て普段の授業とは雲泥うんでいの差だと藤吉は思う。週末から警察や他の教員に報道機関、さらにはPTAにも絞られたに違いなかった。目元のくまからは睡眠不足も察せられる。そんな疲労困憊ひろうこんぱいな堤の姿を見ても藤吉の心に同情は生まれなかった。

 問題を起こしたクラスの担任なんだから、それぐらいはしょうがない。

 藤吉が堤に抱いた所感はその程度のものだった。

 堤の観察を終えた藤吉は次にクラスメイト達へと素早く視線を巡らせた。そこでは誰もが悲劇の中の登場人物のような顔を並べている。右も左も一様いちよう昼川ひるかわが亡くなった事実を受け止めきれず、憔悴しょうすいしているようだった。藤吉もそれらと似た表情を作る努力をする。

 ほどなくして、出欠を取り終わった堤が半数にも満たない四組の生徒達に臨時の全校集会が開かれると弱々しく告げた。四組の生徒達は堤の声にゆっくりと立ち上がって廊下へ出ると集会の開かれる体育館へと歩を進めていく。四組の生徒達が作る短い列に藤吉も加わったことは言うまでもない。その列の中で沈痛な面持ちを装うことは藤吉にとっては造作ぞうさもないことだった。

 始まった全校集会では亡くなった昼川へと薄っぺらい黙祷もくとうが捧げられ、校長からは毒にも薬にもならない話が垂れ流された。

 その集まりにはおごそかさの欠片もなく時間の無駄以外の何物でもなかったが、藤吉にとっては良い知らせが一つだけあった。それは本日より通常通りに授業をおこなうという連絡。それを受けて藤吉は胸を撫で下ろした。

 しかし、そんな安心も束の間、藤吉達が教室へ戻ると行われるはずだった授業は判で押したように全て自習へと変更された。二年四組の生徒は少なくとも今日一日の間は喪に服していろということらしい。甘んじてその指示に従う様子のクラスメイト達は早くも黙祷の続きでも始めているようだった。そんな学校の対応やクラスメイト達に藤吉は心密こころひそかにいきどおる。

 ただでさえ、このクラスは授業の進度が遅いのにどうしてくれるんだろう。

 うれいに沈んだ教室の中では藤吉一人が本来の意味での自習をすることも出来ない。一秒一秒、時間を無駄にしているという罪悪感に藤吉は身体をむしりたくなる。世界で最も非生産的な空間に身を置かねばならないことに屈辱すら感じて藤吉はきつく唇を噛んだ。

 ああ、どうしてこんなことになったんだろう。こんなはずじゃなかったのに――

 衣擦きぬずれの音さえはばかられるほど静かな教室で二年四組の生徒達の意識は一つ所に注がれていた。

 昼川ひるかわ蓮司れんじ。亡くなった昼川が座っていたその座席。

 クラスメイト達が昼川へと向ける感情を藤吉は手に取るように察知していた。その多くは同情や憐憫れんびん。それは昼川に死をもたらしたものへのクラスメイト達の共通認識だった。昼川の死には殺意も作為も介在していない。あくまで昼川は不幸な事故で亡くなった生徒だとクラスの誰もがそう認識しているようだった。

 昼川くんと爽町さわまちさんとの反目はんもくがあんな形に発展すると予期していた人間などいない、――私の他には。そう藤吉は確信している。

 それを証明するようにクラスメイト達は二日間の休日を挟んだ今も死を目の当たりにした驚きを表すように新鮮な悲愴感ひそうかんを全身から漂わせている。また、藤吉が確認した範囲では金曜の夜から今朝にかけての報道でも被害者の昼川に同情的な取り上げ方が目立ち、爽町の存在は伏せられていることが多かった。事件というよりも事故。昼川の死はそうやって報じられている。

 計算違いもあったとはいえ、事の推移はおおむね藤吉の見込み通りに進んでいた。

 未成年者が亡くなった際、その情報は十中八九その命を惜しむ形で伝えられる。その形式から昼川の死とその報道は未だ外れていない。つまり、昼川の死は今のところ全く特殊性のないありふれた若年層の死でしかなかった。

 未成年者の死はまずもって5W1Hを省いて受け取られる。それが基本形式だと藤吉は考えていた。どのように伝えようと受け手はまずその死をいたもうとする。「まだ若いのに」「もったいない」と。その上でようやくWHYが思い出される。それに照らせば昼川の死はまだその段階にすら達していないと藤吉は推断を下していた。

 しかし、この事件がWHYに到達した時、どのような変容が起きるのか。そのことにも藤吉は一切興味が持てずにいた。藤吉に実体を持って降りかかってくるのは事件の内容や見せかけの真実ではないからだ。しかし、藤吉は警戒をおこたらない。なぜなら、藤吉は知っている。実際に害を為すのはそれらの情報を受け取った人々からもたらされる無自覚なそれでいて強制力の高いシンパシーの強要に他ならない、と。

 今。正にこの瞬間も藤吉は教室でただ座り、黙って下を向いたまま、昼川の死を悼むことを強いられている。

 どこまで私はこの世界に屈従くつじゅうを強いられねばならないのか。そして、いつまで私はこの理不尽な世界に幼稚な抵抗を続けなければいけないのか。その果てしなさに気が遠くなりそうだと藤吉は思う。

 この世界が平等で公正な、少なくとも平等で公正であろうとするものだと無邪気に盲信もうしんしていられた頃に藤吉は出来ることなら戻りたかった。

 しかし、時計の針は戻らない。停滞することはあっても。

 机の表面を漂わせていた視線を藤吉はふと黒板へと向けた。九月二十三日、金曜日。黒板には昼川が死んだ三日前の日付がそのまま残されている。その日付を見て手持ち無沙汰な藤吉の精神はちょうど二年前の今頃へと逆行を始めた。

 精神は時計の針に従わない唯一のものかもしれない。時の流れに逆らう意識に身を任せながら藤吉はそんなことを考えていた。

 二年前の藤吉は中学三年生で、漠然と地元の律調りっちょう高校を志望していた。律調高校は藤吉の家から楽に通える距離にある。その偏差値は世間一般に言う難関校の一つとして少し高めではあったが、模試での判定や中学での成績から藤吉には何の不安も心配もなかった。藤吉の両親もその志望校に不満を持っている様子はなく、問題なく進学できるものと藤吉は信じていた。

 そんな油断しきった受験生の横面よこつらを張るように、その不正は報じられた。〈X大学入試で女性受験者、一律減点〉そう題された入試にまつわる不正の報道。藤吉は目を皿にしてTVに流れるそのニュースに見入った。

 そこには教育基本法や憲法への抵触、精神的な苦痛、教育の機会損失といった文字が並んでいた。しかし、三十秒足らず。たったそれだけの時間しかその項目は報道されなかった。まるでそれが取るに足らない問題かのように次の話題へと移ったキャスターが藤吉は信じられなかった。

 女性受験者一律減点って、何?

 藤吉の頭には次から次へと疑問符が湧き続けていた。

 女だと減点されるの? なんで? 男は? 性別だけで何が分かるって言うの? 一体どんな根拠で? 何のために? 公正な試験じゃなかったの?

 そんな疑問の次に藤吉の胸に去来したのは言い様のない怒りだった。

 女は勉強しても無駄なのか。馬鹿でも男なら優遇されて、女であれば優秀でも切り捨てるのか。自分ではどうすることも出来ない事柄に優劣をつけるなんて今は何世紀なんだ、と怒りが藤吉の身体を震わせる。人類の文明が突然後退してしまったかのような錯覚を覚えて藤吉は眩暈めまいがした。

 その怒りの中でも藤吉は不正の問題点を洗い直す。それによって見えてきたのは受験者の性別や能力の多寡たかへの軽視。そして、それらにも増して深刻に感じられる点があった。それは合否の判断を下す側に透けて見えるおごり。単に知識の習熟度を測るための物差しをあたかも人間の優劣を測る物として扱う愚かさ。そうしてその物差しをほしいままに用いて悪びれることのない厚顔無恥だった。

 怒りが藤吉の身を浸していく。

 適切でないなどという話では済まない。明確にして露骨な差別であり侵害だ。

 たぎるその思いを急速に冷やしたのは不安だった。 

 報道にあったのは大学入試の不正。だけど、と藤吉は悪い予感にさいなまれる。高校入試でも不正が行われたら、私は高校生にすらなれないんじゃないか、と。当然のものと考えていた高校進学が閉ざされてしまったら、その後どうやって生きていけばいいのか。中学三年生の藤吉には想像することも出来なかった。

 声を上げようにも一介の中学生である藤吉には手段もなければ力もなく、物差しを左右することの出来る大人達に対して藤吉は無力な子どもでしかなかった。視界が、将来が、暗雲におおわれていくように感じて藤吉はたまらなく恐ろしかった。狭い世界しか知らない受験を控えた、ただの中学生である藤吉にはその際限さいげんなく広がる不安は致命的な一撃だった。

 前後に暮れた藤吉は担任や両親に学力水準から見て受ける必要がないと言われた高校にも片端から出願を申請した。滑り止めはいくつあっても足りなかった。そんな様子を見て「心配性だな」と脳天気に笑う担任や両親に藤吉は裏切られたような気分を味わった。

 私の気も知らないでよく笑える。楽観主義にも程がある。

 耳を疑うような言葉を発するのは担任や両親だけではなかった。受験の帰り道で遭遇した他校の女子生徒。その口からさも嬉しそうに吐き出された言葉に藤吉は愕然がくぜんとした。この子はあのニュースを見なかったのだろうか、と。

「あたしさ、テスト前に見たとこがそのまま試験に出たんだよね! 超ラッキー!」

 実力だけでは足りない。物差しはいつどんな理由でげられるか分かったものじゃない。運なんて不確定要素には頼れない。

 藤吉にとって希望的観測などもってのほかだった。

 合否が判明するまでの一週間は藤吉にとって責め苦にも等しい時間だった。しかし、結果だけを見れば藤吉は無事に第一志望の律調高校への入学を決めることが出来た。でも、と藤吉は思う。不正が行われたかどうかは知りようがない。

 そう藤吉が疑念を抱くのにも理由があった。新入生代表挨拶。その大役は藤吉には依頼されなかった。入学式で挨拶がしたかったわけではない。けれど、入試の自己採点では満点だったにも関わらず、挨拶の要請が藤吉の元には来なかったことが引っ掛かっていた。

 入試の成績以外に何か基準があるのかもしれない。

 その見えない物差しの存在が藤吉のかんさわる。壇上で挨拶をする男子生徒の溌剌はつらつとした声が藤吉には耳障りに聞こえた。彼は入試の結果に満足してあの挨拶を引き受けたのだろうか、とその輝かしい美辞麗句びじれいくの羅列を読み上げる男子生徒を藤吉は猜疑さいぎの目で眺めていた。

 正しさが何処どこにあるのか私にはもう分からない。

 ――だから、藤吉は優等生を演じることに決めた。

 不正が行われても選ばれ、生き延びることが出来るように。物差しをゆがめる者達の目に好ましく映るように。彼等がその都度に定義する見せかけの正しさの条件を常に満たせるように。藤吉は演じ続けることを決めた。

 少なくとも、この世界で優等生でいることに価値がなくなるまでは。

 女であることはやめることが出来ない。したがって藤吉はそれ以外の全てで万一に備える必要があった。

 制服を校則通りに着こなすのは最低限の条件に過ぎない。その他に髪の長さや色に髪型、靴下や下着の種類、持ち物や昼食の献立こんだてにまで細心の注意を払った。誰に見られても構わないように靴は常に揃えて脱ぎ履きし、廊下を走ることは絶対にしなかった。教員達に口答えすることもなく常に恭順きょうじゅんの姿勢で対応することを念頭に置いた。内申点を取るために学級委員にも立候補した。その上で成績を落とすことなどあってはならなかった。

 自らに課したそのかせを物ともせずに遂行しながら藤吉は新生活を送っていった。

 新生活にはクラスメイトとの齟齬そごという如何いかなる問題に発展するか未知数の分野もあった。その問題に対処するため、藤吉は一人称を「あたし」に変えた。その響きは藤吉の予想以上に幼さの演出に功を奏し、親しみやすい同級生として藤吉は受け入れられていった。

 さらに同性のクラスメイト達と話を合わせるために化粧も覚えた。教員や男子生徒にはそうと悟られない程度に施した顔色を整えるメイク。その偽装に気づく者はほんの一握りで、気づいたとしても校則違反だと密告するような者はいなかった。むしろ、同好の士として藤吉は好感を向けられさえするほどだった。

 また、周囲に堅苦しさを与えないよう口癖にも工夫をらした。「運だけは良い」その言葉からクラスメイトや教員達は楽観的な性格を藤吉という生徒に当てはめているようだった。藤吉が優等生の造形に当たって参考にしたのは受験日に出会したあの女子生徒。こんな形であの日の経験が役立つとは藤吉自身も思ってもみないことだった。

 そして、仕上げに男子とも最低限の会話を交わすことで、優秀で誰にでもへだてのない、好かれ過ぎず嫌われない人物像を築き上げることに藤吉は成功した。

「久しぶり」と声を掛けられたのは入学して二ヶ月が過ぎた頃だった。

 声を掛けてきたのは同じ中学から進学した別のクラスの女子生徒。その姿を認めて藤吉の内心に緊張が走った。人知れず張りつめていく藤吉の神経に構わずその女子生徒は言う。

「藤吉さん、なんか雰囲気変わったよね」

 こういった事態を回避するために校内で行き合う生徒に藤吉は十分に注意を払っていた。以前の私との違和感を示されればくわだては早くも頓挫とんざしてしまう、そんな危機感から藤吉は慎重に事に当たる。

「そう? 自分では分かんないな」

 恐る恐る口にした言葉にその女子生徒は前のめりになった。

「変わった変わった。ぜったい変わったよ」

 その後に続くはずの糾弾きゅうだんに藤吉は身構える。けれど、その女子生徒の続けた言葉は藤吉の覚悟していたものとはかけ離れていた。

「でも、今の方が全然良い。うん。正直ね、中学の時はちょっと怖かったし」

 優等生の仮面は藤吉に首尾しゅび馴染なじんでいるようだった。 

「ほんと? なら良かった」

 そう心から安堵あんどした藤吉は努めて屈託くったくのない笑顔を装う。それが擬態ぎたいであるなどと疑う様子もなくその女子生徒は藤吉に応えるように笑みを浮かべた。

 以前を知る人間さえあざむけているという事実は藤吉の背中を押した。優等生という在り方に見出した自己正当化には拍車が掛かり、歯止めはかなくなっていった。そうして優等生として送る生活に不都合はなく、藤吉の日々は何事もなく過ぎていった。

 懸念けねんがあるとすれば、思い当たるものが一つだけ。

 いつの頃からか聞こえるようになった音があった。藤吉にしか聞こえていないらしいその嫌な響き。それは思い返せば、優等生の仮面をかぶり始めてから聞こえるようになったと藤吉には思えた。

 一つ、また一つと課題を解決する度に藤吉の中で何かがきしむ。それは立派にこの不健全な世界に順応した優等生としての外側と、そんな外側の自分を許すことの出来ない内側に潜む本来の藤吉との間に生じたゆがみであることは明白だった。その軋むような音は藤吉の身体や心から発せられた悲鳴だったのかもしれない。その響きの持つ意味を藤吉は確かに察していた。けれど、藤吉は他でもない自分自身のためにその音を無視した。無視し続けた。

 一年が経った頃には律調高校に通う教員と生徒にとって“藤吉真尋”は典型的な優等生として認知されるようになっていた。同じ中学出身の生徒でさえ以前の藤吉を思い出すことは最早もはやないようだった。

 作り上げた“藤吉真尋”という非の打ち所のない優等生の仮面。その出来映えに藤吉は大いに満足していた。

 ただ時折ときおり、ふと頭の奥に響くあの音だけが藤吉に小さな影を落としていた。

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