第七章 藤吉真尋①
校庭を囲むフェンスの向こうに
そんな窓の外への興味を失って藤吉は振り返った。二年四組の教室には
それならそれで、家に帰って勉強するのも悪くはない。
藤吉がそう考えていると
問題を起こしたクラスの担任なんだから、それぐらいはしょうがない。
藤吉が堤に抱いた所感はその程度のものだった。
堤の観察を終えた藤吉は次にクラスメイト達へと素早く視線を巡らせた。そこでは誰もが悲劇の中の登場人物のような顔を並べている。右も左も
ほどなくして、出欠を取り終わった堤が半数にも満たない四組の生徒達に臨時の全校集会が開かれると弱々しく告げた。四組の生徒達は堤の声にゆっくりと立ち上がって廊下へ出ると集会の開かれる体育館へと歩を進めていく。四組の生徒達が作る短い列に藤吉も加わったことは言うまでもない。その列の中で沈痛な面持ちを装うことは藤吉にとっては
始まった全校集会では亡くなった昼川へと薄っぺらい
その集まりには
しかし、そんな安心も束の間、藤吉達が教室へ戻ると行われるはずだった授業は判で押したように全て自習へと変更された。二年四組の生徒は少なくとも今日一日の間は喪に服していろということらしい。甘んじてその指示に従う様子のクラスメイト達は早くも黙祷の続きでも始めているようだった。そんな学校の対応やクラスメイト達に藤吉は
ただでさえ、このクラスは授業の進度が遅いのにどうしてくれるんだろう。
ああ、どうしてこんなことになったんだろう。こんなはずじゃなかったのに――
クラスメイト達が昼川へと向ける感情を藤吉は手に取るように察知していた。その多くは同情や
昼川くんと
それを証明するようにクラスメイト達は二日間の休日を挟んだ今も死を目の当たりにした驚きを表すように新鮮な
計算違いもあったとはいえ、事の推移は
未成年者が亡くなった際、その情報は十中八九その命を惜しむ形で伝えられる。その形式から昼川の死とその報道は未だ外れていない。つまり、昼川の死は今のところ全く特殊性のないありふれた若年層の死でしかなかった。
未成年者の死はまずもって5W1Hを省いて受け取られる。それが基本形式だと藤吉は考えていた。どのように伝えようと受け手はまずその死を
しかし、この事件がWHYに到達した時、どのような変容が起きるのか。そのことにも藤吉は一切興味が持てずにいた。藤吉に実体を持って降りかかってくるのは事件の内容や見せかけの真実ではないからだ。しかし、藤吉は警戒を
今。正にこの瞬間も藤吉は教室でただ座り、黙って下を向いたまま、昼川の死を悼むことを強いられている。
どこまで私はこの世界に
この世界が平等で公正な、少なくとも平等で公正であろうとするものだと無邪気に
しかし、時計の針は戻らない。停滞することはあっても。
机の表面を漂わせていた視線を藤吉はふと黒板へと向けた。九月二十三日、金曜日。黒板には昼川が死んだ三日前の日付がそのまま残されている。その日付を見て手持ち無沙汰な藤吉の精神はちょうど二年前の今頃へと逆行を始めた。
精神は時計の針に従わない唯一のものかもしれない。時の流れに逆らう意識に身を任せながら藤吉はそんなことを考えていた。
二年前の藤吉は中学三年生で、漠然と地元の
そんな油断しきった受験生の
そこには教育基本法や憲法への抵触、精神的な苦痛、教育の機会損失といった文字が並んでいた。しかし、三十秒足らず。たったそれだけの時間しかその項目は報道されなかった。まるでそれが取るに足らない問題かのように次の話題へと移ったキャスターが藤吉は信じられなかった。
女性受験者一律減点って、何?
藤吉の頭には次から次へと疑問符が湧き続けていた。
女だと減点されるの? なんで? 男は? 性別だけで何が分かるって言うの? 一体どんな根拠で? 何のために? 公正な試験じゃなかったの?
そんな疑問の次に藤吉の胸に去来したのは言い様のない怒りだった。
女は勉強しても無駄なのか。馬鹿でも男なら優遇されて、女であれば優秀でも切り捨てるのか。自分ではどうすることも出来ない事柄に優劣をつけるなんて今は何世紀なんだ、と怒りが藤吉の身体を震わせる。人類の文明が突然後退してしまったかのような錯覚を覚えて藤吉は
その怒りの中でも藤吉は不正の問題点を洗い直す。それによって見えてきたのは受験者の性別や能力の
怒りが藤吉の身を浸していく。
適切でないなどという話では済まない。明確にして露骨な差別であり侵害だ。
報道にあったのは大学入試の不正。だけど、と藤吉は悪い予感に
声を上げようにも一介の中学生である藤吉には手段もなければ力もなく、物差しを左右することの出来る大人達に対して藤吉は無力な子どもでしかなかった。視界が、将来が、暗雲に
前後に暮れた藤吉は担任や両親に学力水準から見て受ける必要がないと言われた高校にも片端から出願を申請した。滑り止めはいくつあっても足りなかった。そんな様子を見て「心配性だな」と脳天気に笑う担任や両親に藤吉は裏切られたような気分を味わった。
私の気も知らないでよく笑える。楽観主義にも程がある。
耳を疑うような言葉を発するのは担任や両親だけではなかった。受験の帰り道で遭遇した他校の女子生徒。その口からさも嬉しそうに吐き出された言葉に藤吉は
「あたしさ、テスト前に見たとこがそのまま試験に出たんだよね! 超ラッキー!」
実力だけでは足りない。物差しはいつどんな理由で
藤吉にとって希望的観測などもってのほかだった。
合否が判明するまでの一週間は藤吉にとって責め苦にも等しい時間だった。しかし、結果だけを見れば藤吉は無事に第一志望の律調高校への入学を決めることが出来た。でも、と藤吉は思う。不正が行われたかどうかは知りようがない。
そう藤吉が疑念を抱くのにも理由があった。新入生代表挨拶。その大役は藤吉には依頼されなかった。入学式で挨拶がしたかったわけではない。けれど、入試の自己採点では満点だったにも関わらず、挨拶の要請が藤吉の元には来なかったことが引っ掛かっていた。
入試の成績以外に何か基準があるのかもしれない。
その見えない物差しの存在が藤吉の
正しさが
――だから、藤吉は優等生を演じることに決めた。
不正が行われても選ばれ、生き延びることが出来るように。物差しを
少なくとも、この世界で優等生でいることに価値がなくなるまでは。
女であることはやめることが出来ない。したがって藤吉はそれ以外の全てで万一に備える必要があった。
制服を校則通りに着こなすのは最低限の条件に過ぎない。その他に髪の長さや色に髪型、靴下や下着の種類、持ち物や昼食の
自らに課したその
新生活にはクラスメイトとの
さらに同性のクラスメイト達と話を合わせるために化粧も覚えた。教員や男子生徒にはそうと悟られない程度に施した顔色を整えるメイク。その偽装に気づく者はほんの一握りで、気づいたとしても校則違反だと密告するような者はいなかった。むしろ、同好の士として藤吉は好感を向けられさえするほどだった。
また、周囲に堅苦しさを与えないよう口癖にも工夫を
そして、仕上げに男子とも最低限の会話を交わすことで、優秀で誰にでも
「久しぶり」と声を掛けられたのは入学して二ヶ月が過ぎた頃だった。
声を掛けてきたのは同じ中学から進学した別のクラスの女子生徒。その姿を認めて藤吉の内心に緊張が走った。人知れず張りつめていく藤吉の神経に構わずその女子生徒は言う。
「藤吉さん、なんか雰囲気変わったよね」
こういった事態を回避するために校内で行き合う生徒に藤吉は十分に注意を払っていた。以前の私との違和感を示されれば
「そう? 自分では分かんないな」
恐る恐る口にした言葉にその女子生徒は前のめりになった。
「変わった変わった。ぜったい変わったよ」
その後に続くはずの
「でも、今の方が全然良い。うん。正直ね、中学の時はちょっと怖かったし」
優等生の仮面は藤吉に
「ほんと? なら良かった」
そう心から
以前を知る人間さえ
いつの頃からか聞こえるようになった音があった。藤吉にしか聞こえていないらしいその嫌な響き。それは思い返せば、優等生の仮面を
一つ、また一つと課題を解決する度に藤吉の中で何かが
一年が経った頃には律調高校に通う教員と生徒にとって“藤吉真尋”は典型的な優等生として認知されるようになっていた。同じ中学出身の生徒でさえ以前の藤吉を思い出すことは
作り上げた“藤吉真尋”という非の打ち所のない優等生の仮面。その出来映えに藤吉は大いに満足していた。
ただ
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