第七章 藤吉真尋③

 夏期休暇の明けた二学期初日。

 藤吉ふじよしはクラスメイト達の視線や言葉に昼川ひるかわと自身を結びつけるものはないかと二年四組に漂う空気を慎重に探る。教室には渦中の昼川の姿もあった。昼川もまた藤吉と同様に、教室を飛び交うクラスメイト達の様々な感情に神経をとがらせているようだった。その不機嫌そうな昼川の様子を見て同じ危惧きぐの念を抱いているのだと藤吉は思う。しかし、そこには同情や連帯感は微塵みじんもなく、誰のせいでという苛立いらだちだけがあった。

 藤吉と昼川の間にあった出来事を知っている素振そぶりを見せる者はいない。教室を見渡してひとまず藤吉はそう判断した。二年四組の教室で交わされているのは無害で些細ささいな話題ばかり。そのことにようやく藤吉は張りつめた緊張の糸がゆるむのを感じた。藤吉の学生生活に破局は訪れていなかった。大きな気掛かりが杞憂きゆうに終わったことで藤吉は九死に一生を得たような心持ちがする。

 ピーピング・トムはいなかったらしい。昼川くんの方も失恋を触れ回るおかさなかったみたいだ。つまり、と藤吉は心の撃鉄げきてつに指を掛けた。

 ――“藤吉真尋”のブランドは守られた。これで後顧こうこうれいはない。

 藤吉は心置きなく危険人物達の退場劇に取り掛かることを決めた。

 手始めに藤吉は美ノ瀬みのせに狙いを定めた。将を射んと欲すればまず馬を射よ。昼川にとって馬たりるのは誰か。どころとなっているのは誰なのか。それは稲村いなむらでも草尾くさおでもなく、美ノ瀬だと藤吉は考えた。

 教室では表立って話すこともない昼川と美ノ瀬。しかし、二人の間には何か特別な親密さがあると藤吉はにらんでいた。どこかたどたどしい呼び合い方にも関わらず、近しい距離感を思わせる授業中や昼休みのやり取り。一年も同じ教室で二人を見ていれば違和感を覚える場面は何度となくあった。そして、藤吉にとって重要なのは美ノ瀬が昼川を頼りとしていることではなく、昼川の側が美ノ瀬を高く買っているらしいということだった。

 美ノ瀬から告げられた言葉が昼川の耳にどう響くか、その際に告げられるべき最も効果的な言葉は一体何かと藤吉は考える。そこで藤吉は昼川に並ぶもう一人の危険人物、爽町さわまち雛子ひなこを利用することを思いついた。

 その発想の源には昼川の告白があった。昼川によって思い知らされた異性という危険性。それを使って二人をおとしめる手練てれんを藤吉はくわだてる。昼川と爽町が男女の組み合わせであることは藤吉にとって都合が良かった。

 折を見計らって藤吉は視野の端で隣の席に座る美ノ瀬を意識する。その美ノ瀬の視線が昼川と爽町の小競こぜいへと向いていることを確認すると、藤吉は計画を実行に移した。

「お似合いだよね、あの二人」

 その言葉が美ノ瀬の耳に確実に届くように、そして、美ノ瀬が二人の関係性を曲解きょっかいするように藤吉はつぶやいた。短く単純でそれゆえに解釈の幅が少ない一言。美ノ瀬に僅かな反応があったことを藤吉はひそかに窺い知る。その呟きをさらに印象づけるように、近くにいた稲村と草尾の二人に小さな動揺が走ったのは目論見もくろみ以上の成果だった。

 何かがちたように納得した表情を浮かべる美ノ瀬に藤吉は手応えを感じた。美ノ瀬から昼川にどのような言葉が伝えられるか、それを知る手段がないことを藤吉は残念がる。しかし、第一段階の目的は十分に達せられていた。

 昼川とその周囲に今までと異なる意味を持って爽町の存在を認識させる。それが藤吉の狙いだった。美ノ瀬から伝えられる言葉が何であれ、それを昼川は無下むげにはしないだろうと藤吉は考える。仮に軽く流されたとしても伝えられたという事実が内容よりも重要だった。

 美ノ瀬くんの口から昼川くんの耳に入ればそれでいい。

 昼川が爽町に対して抱く感情を敵対心以外のものへと変える。そのための算段だった。距離が近づけば間違いの起こる可能性は飛躍的に高まる。まずは昼川の側から爽町へと近づく工夫を藤吉は施したのだった。

 距離の遠近とアクシデントの発生確率。その相関を藤吉は思い描く。昼川に爽町への精神的及び身体的距離の接近をうながした後にやるべきことは、言うまでもなく不慮ふりょの事故を必然にするための下準備だった。

 腹案ふくあんを練りながら何食わぬ顔で日々を過ごして藤吉は機会を待つ。好機はすぐにもやってきた。登校中に藤吉は通学路を行く昼川と美ノ瀬の姿を視界の先に収めた。息を潜めるようにしてその二人の後を追う。

 昇降口で藤吉が追いついた時には教室へと向かったのか既に美ノ瀬の姿はなかった。二人の会話から得られると見込んでいた有益な情報を取りこぼしたことに藤吉は悔しさを覚える。しかし、すぐに藤吉は昼川へと気持ちを切り替えた。

 昼川と二人。瞬間、告白の記憶がよみがえり沸騰しそうになる怒りを抑えて藤吉は昼川の表情を探る。美ノ瀬に試みたくわだてがどのような作用を生じさせているかじかに見極める必要があった。けれど、それを嫌ったかのように昼川は足早にその場を立ち去ろうとする。その背中を藤吉は呼び止めた。

「昼川くん」

 振り返った昼川は不安と期待の入り交じったような目をしていた。まだ昼川の中には自分への思いがくすぶっているようだと藤吉ははかる。爽町への意識誘導は十分には効果を発揮していないようだった。

 まだ時間はある、と藤吉は自分自身に言い聞かせる。

 昼川の現状を確認し終えた藤吉は呼び止めた理由を誤魔化ごまかすために指を昼川の足下へと向けた。前もって考えていた小細工の一つを言葉に乗せる。

「上靴。かかと踏んでたら転んじゃうよ?」

 昼川の表情が覿面てきめんほがらかなものへと変わった。

「だいじょうぶ。コケたりしねぇよ。俺も藤吉と同じくらい運良いんだぜ」

 昼川はそう言うと上靴を履き直すこともせず、そのままの状態で教室へと向かっていった。 思った通りだ、と藤吉は思う。

 想いを寄せる相手の関心を買うために昼川ならその程度の危険は引き受けるだろうと藤吉は読んでいた。それが自らの身の安全を売り飛ばす行為だと考えもせずに昼川ならそうする、と。上靴の履き方など昼川にとってはその程度のもの。病的なまでに整えた自身の身だしなみを見下ろして藤吉の中に皮肉な笑いが込み上げた。それを喉元で押し留めると藤吉はゆっくりと教室へと向かう。

 上靴の履き方。そんな小細工が成果を上げる可能性は低い。けれど、人事を尽くすことが徒労とろうだとは思わない。来るかどうか分からない天命を待つよりはよほど建設的な態度だと藤吉は考えていた。水面下に積み上げている幾つかの小細工。そのどれかが日の目を見るように、藤吉はもう一つの大きな仕掛けに着手する。

 次の狙いは爽町雛子だった。

 放課後の教室で藤吉は爽町と二人きりの状況を作り出した。文化祭準備のために全体の進行を握っている藤吉にとって教室の人払いを済ませる程度は訳もないことだった。男子達には衣装の採寸と伝え、衣装班の女子にはその時間を遅らせて連絡してある。

 その限られた時間の中で藤吉は爽町を籠絡ろうらくしようと画策かくさくしていた。

 爽町さんは私に共感しているらしい、そんな印象を藤吉は抱いていた。藤吉にとっては奪われたに等しい日誌も、爽町からすれば藤吉の過労を心配してのものだったらしい。思い返せば爽町の言葉の端々には藤吉への同情が現れていた。一人で学級委員の仕事に献身的に打ち込む藤吉の姿が爽町には孤独に映っているらしかった。

 爽町の共感も同情も心配も藤吉には必要のないものだった。しかし、その憧れさえ入り交じりかねない爽町の優等生への感情を有効活用しない手はない。爽町の同情心を刺激するように二人しかいない教室で藤吉は敢えて日直の代わりに黒板を消す。二人きりの教室で藤吉に雑務をさせたまま、爽町がただ黙っていられるはずがない。藤吉はそう考えていた。

「昼川くんってなんであんなにガサツなんだろうね?」

 学校以外で交流のない爽町が藤吉に対して選ぶ話題は二人の共通項である二年四組の事柄だということも予想できていた。その上でどう話題を昼川へと誘導するか、その点に藤吉は考えを巡らせていたが、その工程は爽町のおかげで無用になった。

 一つ、手間が省けた。

 藤吉は手を止めて振り返り、爽町が望むであろう言葉と話題への指向性しこうせいを与える。

「でも、すごいよ爽町さんは。あたしだったら昼川くんに何か一言注意してやろうなんて、絶対できない。やっぱり、ちょっと怖いし」

 怖いという言葉で藤吉は自分が昼川へ苦手意識を持っていることを暗に示し、爽町の優越感をあおる。

「思ってたほどじゃないよ。確かに背は高いけどね」

 爽町の返事は藤吉の思う壺だった。

 優等生が苦手とするクラスの問題児、昼川蓮司を自分は苦にしないと爽町は言ったようなものだった。これで責任感の強い爽町さんは行動せざるを得なくなる、と藤吉は言質げんちを取ったような気分になる。

 第一条件はクリア。本題はここから。

 藤吉は注意を引くように躊躇ためらいを演出する。

「……でも、ほら」 

 そうして引きつけた爽町の意識にささやくように藤吉は語りかけた。

「……いじめとかさ、怖くない?」

 その言葉は爽町にゆっくりと浸透していったようだった。

「いじめ?」

 口元だけを動かしたような爽町の疑問に藤吉は明確な答えを授ける。

「うん。ほら、……美ノ瀬みのせくん」

 美ノ瀬と昼川がいじめの関係にないことは藤吉の目には一目瞭然いちもくりょうぜんだが勘違いをする者も多い。言動の荒いスポーツマンと弱々しい印象の秀才。まれたステレオタイプないじめっ子といじめられっ子に当てはまる外見的特徴にられている形だ。その誤解を藤吉は利用する。爽町の標的をクラス全体から昼川個人へと限定させるために。

 黙り込んだ爽町は昼川と美ノ瀬の関係にいじめという名前をつけて記憶を分類し直しているようだった。それは爽町には優等生“藤吉真尋”の言葉を疑う発想などないという藤吉の考えた通りの反応だった。それでも不備はないかと藤吉は注意深く爽町を観察する。爽町はそれがそそのかされた偽りだとは気づかないままに昼川と美ノ瀬、二人の今までの行動を一つ一ついじめと結びつけて、誤った認識を強固にしているように藤吉には見えた。その印象を裏付けるように黙考もっこうから覚めた爽町は藤吉に尋ねる。

「藤吉さんが私なら昼川くんにどうやって注意する?」

 爽町の問いに藤吉は思わせぶりに視線を外す。そうして自分にはどうすることも出来ないとでも言うように爽町に背中を向け、悄然しょうぜんとした弱々しい声を出した。

「あたしは、……やっぱり爽町さんみたいに自分一人じゃ行けないかな。だから、先生とか大人を呼ぶと思う。昼川くんだって大人は苦手だろうし」

 自分一人。先生。大人。藤吉はその言葉を爽町に意識させるために意図して使った。

 “藤吉真尋”の提示した解決策。それは妥当だとうで平均的な模範解答。けれど、正攻法で解決できるほどいじめという問題はやさしくはない。そう爽町が考えるだろうことは藤吉には容易に想像できた。これまでの行動から藤吉は爽町の思考をそのプロセスまで手に取るように把握していた。爽町は教師や大人は当てにならないと考え、いじめを自分一人で解決しなくてはならないと思い込む。というよりも、そう思い込むように藤吉が仕向けていた。

 そして、藤吉は念には念を入れて昼川をぎょするには怖さが必要だとく。

「――怖いものだってあるんじゃないかな」

 それは暗示となって爽町の脳髄のうずいを占領するだろう。藤吉にはそんな確信があった。

 昼川へのものとは対照的な爽町への詭弁きべん。それは二人を教室から一掃するための藤吉の計略だった。昼川には警戒心をき油断を誘う方便を、爽町へは攻撃を正当化する大義名分とその後押しを、それぞれ藤吉は与えた。昼川と爽町の距離を近づけ、アクシデントを誘発するにはそれが近道で最善の策だと藤吉は考えていた。

 準備は整った。もう、いつ幕が上がってもおかしくはない。

 退場劇の幕開けを藤吉は一日千秋の思いで待ち焦がれていた。

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