第七章 藤吉真尋④
万端整ったはずの
機が熟すには時間が掛かるし、仕掛けた
そう達観してみても、一向に進展する気配のなくなった計画に藤吉も
計画の見直しと昼川と爽町の現状確認を兼ねて藤吉は文化祭に向けて稽古を行っている役者班に同行する。すると、すぐさま昼川がやってきた。そのまま雑談を始めた昼川を藤吉はそれとなく観察する。
「藤吉はさ『シンデレラ』ってどう思うわけ?」
「どうって?」
「あれ、脚本選んだの藤吉なんだろ?」
昼川の言葉に脚本の選定をしていた夏期休暇を藤吉は思い出す。昼川と爽町のせいで気が
その職務の一つが文化祭での演目の選定。主に童話から選んだ候補作を読み返して藤吉は新鮮な驚きを覚えていた。
「童話の定番だよね。夏休みに読み返してたら共感しちゃって」
その言葉に嘘はなかった。
「じゃあやっぱ藤吉もあんの? お姫様願望とか」
案の定、昼川は藤吉がシンデレラに感情移入したのだと取り違えているようだった。その誤った見解に思わず浮かんだ口元の
「そうだね。一度は選ばれてみたいよね」
選ばれる。それが私にとってどんな意味を持つものか、きっと昼川くんには分からない。
藤吉が夏期休暇に読み返した『シンデレラ』は日本で一般に普及しているシャルル・ペローによる『サンドリヨン』の物語ではなかった。藤吉が読んだのはグリム童話集の『灰かぶり姫』。両者の物語には共通する展開と細かな差異がある。その中で藤吉の心をうったのはシンデレラを探す王子が手掛かりである靴を女性達に履かせてまわる場面だった。
その場面でシンデレラの意地悪な姉達は靴の大きさに足を合わせるため自らの足へとナイフの刃を入れる。長女は足の先を、次女は
選ばれるためになりふり構わず自らの形さえ変えてしまう行為。それは
けれど、そんな隠された藤吉の本心に気づく者はいない。少なくとも昼川にそれを悟る予兆は見られなかった。
「藤吉なら選ばれるんじゃねーの?」
軽々しくそう口にした昼川の態度に藤吉は
昼川にとって選ばれるということは何も特別なことではない。そんな事実が、それが事実であるということが藤吉の心をざらつかせる。
恵まれた体格とそれに見合った運動神経。疑うことのない自信と気の置けない友人達。昼川を形作る全てが藤吉は
昼川くんに私の気持ちは分からない。――分かるはずがない。
昼川が手にしているものはどれも藤吉が手に入れることは出来ないと諦めたものたちだった。藤吉は自身が無条件に選ばれるような存在ではないと知っている。だからこそ、藤吉は昼川の言葉を否定する。
「あたしは無理だよ。魔法のドレスだってきっと似合わない」
足だけじゃ済まない。私がそんなものを着ればそれは血染めのドレスになってしまう。昼川に抱いた嫉妬はそんな
藤吉の
「それにさ、魔法が解けたって平気だよ」
実に昼川らしい言葉だと藤吉は思った。外見を飾り立てる必要はなく、ありのままに存在しているだけで価値があるとその言葉は雄弁に語っていた。そう口にすることが出来るのは自分の価値を疑ったことすらない者だけ。
「――昼川くんらしいね」
続く言葉が口を突いて出た。
「でも、魔法が解けたら、もうそこにはいられないよ」
魔法が解けたらシンデレラは立ち去るしかない。それは灰で汚れたボロ
「それって――」
私は違う。私は運に頼ったりなんかしない。最後まで
それこそが藤吉の覚悟だった。
昼川との会話から
計画を進めるには武器がいる。爽町さんが昼川くんに立ち向かうための武器が。
足踏みをしている爽町の勇気を奮い立たせ、背中を押す武器。それでいてその武器は学校にあることが不思議に思われないものでなくてはならなかった。藤吉が優等生であり続けるために計画は誰にも気づかれてはならない。出来事に潜む意図を悟られず、しかし、起こるべくして起こる
それから数日の
ネジ回しのドライバー、
そこで藤吉は
存在感を薄くするように常に背中を曲げた同級生。そのクラスメイトに藤吉はどこか自分と似たものを感じていた。それは現状への
納得できない現実に爽町のように反旗を
周囲への期待。込波の怒りの起源はそこにあると藤吉は考えていた。その怒りは藤吉のものとは
しかし、藤吉は込波の卑屈さを認めてもいた。込波は決して藤吉からの頼まれ事を口外しない。女子生徒に使い走りにされたことを込波のちっぽけなプライドは許さないに違いなかった。それは秘密裏な計画の遂行に当たっては魅力的な性質だった。藤吉は思い描いた筋書き通りに込波の行動を操った。それは口車に乗せるというよりは単に命令に近かったが、得られる結果は同じだった。そうして工具箱は昼休憩の間に二年四組の教室へ難なく運び込まれた。
二年四組の誰も、運び込んだ込波さえも教室に工具箱があるという異質さに気づく様子はないようだった。昼休憩から七限目の前にある休憩時間まで大きな騒動はなく、藤吉は事が起こるのは今日ではないかもしれないと思い始めていた。そんな藤吉の目を覚まさせたのは背後に起こった衝撃だった。
突然の出来事に藤吉が振り向くと、「わるいわるい」と言いながら昼川が近づいてくる。その昼川の足の片方が上靴を履いていないことに藤吉はすぐに気がついた。図らずも仕込んでおいた小細工がまだ生きていることを藤吉はそこに確認する。
「平気、平気。ほら、あたし、運だけは良いからさ」
騒ぎを聞きつけ飛んできた爽町を藤吉は慣れた態度で落ち着かせた。それは人目を忍んで進めてきた計画が水の泡になるのを避けるためだった。昼川と爽町の揉め事の渦中に藤吉自身が巻き込まれては後々、面倒な事にならないとも限らない。懸念事項はなくしておくに越したことはなかった。
飛んでいった上靴の行方を探そうと藤吉が辺りを見回すと込波と目が合った。その視線にはいつも通りに
そこへ扉が開く音がして
あと十五分足らずで授業終了という頃合いで堤が黒板の端に和歌を記していく。
『秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる』
その和歌を見て藤吉は予習済みのノートに目を走らせた。
立秋どころか今日はもう秋分の日なのに、と藤吉は小さな不満を覚えた。教室の貧弱な冷房は残暑を防ぐことが出来ていない。季節感のない気候と授業内容に藤吉は胸の中で溜息を吐いた。
品詞分解を答えた
「はい。秋が来たことが目にははっきりと見えないけれど、耳にした風の音から秋の訪れにハッと気づかされることです」
藤吉の答えに頷くと堤は本筋から離れた余談を始めた。途中で挟まれた昼川の授業妨害と爽町による制止を上の空に聞き流しながら、藤吉は堤の雑談から連想を繋げていた。
目にはさやかに見えねども。
そんなイメージの連鎖が藤吉の中で『シンデレラ』の魔法のドレスと結びついた。灰を
いずれにせよドレスの色で着る人の心の内など測ることは出来ないと藤吉にも分かっていた。
風も、季節の訪れも、人の内面も、目には見えない。心の
身に付けた制服の皺一つないシャツの白さが藤吉の目には痛いほど眩しかった。
チャイムを合図に授業の終了を告げ、簡単な連絡事項を伝えると堤は教室を後にした。教室では文化祭に向けた賑わいが騒がしさを帯びていく。藤吉は黒板に
「やめなよ!」
教室後方から爽町の叫びが聞こえてきたのは板書の確認を終えて大道具班へと指示を出そうとした頃だった。
藤吉の
昼川の死という形で。
藤吉に殺させるつもりはなかった。想定していたのは
震える爽町を見ても、
悲しみも、後悔も、罪の意識も、達成感すら。ただ何かが
「これでようやく静かに授業が受けられる」
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