第七章 藤吉真尋⑤

 終礼のチャイムの響きが藤吉ふじよしを我に返らせた。

 いけない。ボーっとしてた。

 昼川ひるかわ爽町さわまちのいなくなった教室で藤吉は自分で考える以上に気が抜けてしまっていた。放心から意識を取り戻した藤吉が黒板の上に備え付けられた時計に目をやると、時計の針は一限分きっちりと進んでいた。黒板に記された日付もいつの間にか一昨日のものから、今日の日付、九月二十六日月曜日と書き直されている。自習の監督に来た教員が書き改めたようだった。

 休憩時間に入っても喪に服しているかのように教室はまだ静けさの中にある。藤吉にとって不覚だったのはこの展開。昼川と爽町を排除すれば教室は本来あるべき円滑な授業を進める学び舎へ戻っていくと藤吉は考えていた。まさか授業そのものが滞り、外部から今まで以上の雑音が入ってくることになるとは思ってもみなかった。でも、と藤吉は思う。それもきっとしばらくの辛抱だ、と。

 あの入試不正のニュースのようにマスコミや大衆の関心などすぐに移り変わっていくものだと藤吉は考えていた。その時、ふと藤吉の視線があるものにまった。教室前方の小さな物置棚に置かれたままになっている学級日誌。それは爽町の手から取り戻した戦利品の一つだった。

 今日は私が書こう。他の誰も手をつけないはず。

 藤吉はそう考え、日誌を取りに席から立ち上がった。学級日誌を記す自身の姿を藤吉は脳裏に思い描く。それはクラスメイトの死を乗り越え健気けなげにも日常を取り戻そうとする生徒の姿だった。そんな優等生然とした想像に気を良くした藤吉は日誌を手に取り席へ戻ると、速やかに一限目の自習時間について日誌にペンを走らせた。

 そうして途中で帰宅することもなく中身のなくなった形式的な一日のスケジュールをこなした藤吉は下校していくクラスメイトを尻目に日誌の推敲すいこうをする。そこに誤字脱字はなく内容に間違いもない。最後に担当者欄に藤吉真尋と記入を済ませて、藤吉も下校の準備をした。

 通学鞄を肩に掛け、日誌を手に藤吉が教室を出る頃には二年四組には美ノ瀬みのせの姿しかなかった。物思いにふけるような様子の美ノ瀬を置いて藤吉は職員室へと向かう。

 昼川を懐柔かいじゅうするための手段としてしか藤吉は美ノ瀬を見ていなかった。それゆえに昼川亡き今、美ノ瀬が心に傷を負っていようと干渉する必要を藤吉は感じない。利用価値を失って単なるクラスメイトでしかなくなった美ノ瀬の感傷に付き合っている暇は藤吉にはなかった。

 教室を出てから三階分の階段を下りて渡り廊下を通って角を曲がる。それから真っ直ぐに延びた廊下を突き当たりまで進み、職員室の扉を開けて藤吉はつつみの元へと向かった。職員室の事務机の前に座ってたたずむ堤は考え事でもしているようで、藤吉の目には心ここにあらずといった様子に映った。他の教員に会釈えしゃくをしながら目の前まで移動した藤吉にも堤は気づく素振そぶりさえ見せなかった。日誌を手渡すために藤吉はそんな頭を留守にしたような堤に声を掛ける。

「先生。堤先生」

 その声掛けで堤はようやく藤吉に意識を向けたようだった。藤吉の差し出した日誌を流れ作業のように受け取って堤は今日のページに目を通していく。そして、堤は顔を上げることもなく、なんでもないことのように、その言葉を藤吉に浴びせた。

「委員長はいつも通りだな――」

 耳元であのきしむ音が響いた。

 いつも通り?

 そんな疑問が藤吉の頭に浮かんだ。そんなはずない、と藤吉は堤の言葉を否定し、拒絶きょぜつする。

 そんな、そんなはずない。今の私は、昼川くんの死に心を痛めている可哀想かわいそうな優等生のはず。誰が見たってそう見えているはずで。だって私は“藤吉真尋”で。だから、なのに、それなのに。いつも通り? 嘘、嘘だ。

 心中に並べ立てた言葉とは裏腹に藤吉は足下が揺らぐような錯覚さっかくに襲われていた。

 堤先生は知ってる? 私が何をしてきたか。私がどういう人間か。全部お見通しだったの? 堤先生には私が――

 爽町に奪われた日誌。昼川の告白。美ノ瀬や込波こみなみ、クラスメイト達への裏工作や教員への印象操作。律調りっちょう高校に来てからの日々が藤吉の中でもろくずちていくようだった。

 私は、あたしは、わたしは、今どんな顔をしてる?

「――わたし、普通に見えますか?」

 その言葉を誰が言ったのか、藤吉には分からなかった。

 優等生の“藤吉真尋”と内側に潜む本来の藤吉。どちらがその言葉を口にしたのか分からないことが藤吉は怖かった。外側と内側のさかいが乱れて藤吉は自分自身が消えてしまうような不安を覚えた。その不安がたちまち恐怖へとふくれ上がっていく。それを止めるすべが藤吉にはなかった。藤吉は怖くてたまらなくなって、堤の前に立っていられず職員室から一目散に逃げ出した。

 走ったわけでもないのに息が荒かった。まるでせきが切れたようにあふれてくる何かがある。藤吉はそれを吐き出してしまいたかった。けれど、同時にその何かをめようとしている自分にも藤吉は気づいていた。理性は麻痺まひしたように上手く働かず、藤吉の胸中は混沌こんとんとして収拾がつかなかった。

 こんな姿は誰にも見せられない。

 廊下の隅で藤吉はおびえていた。いや、本当は、藤吉はいつだって怯えていた。張りぼての虚勢きょせいを見破られることを、肌の下に隠した臆病を見抜かれることを、そして、価値のない人間だと暴かれることを、藤吉は恐れていた。

 認められないことが怖かった。日々の努力が、積み上げたものが評価されないことが嫌だった。始まりはそれだけだった。けれど、今はそれだけではなくなっていた。認められなければ何も残らない。いつの間にかそんな疑念が藤吉の頭から離れなくなった。

 だって、と藤吉は思う。

 ――だって誰も私に気づいてさえくれなかった。

 両親が、クラスメイトが、先生が、友達が、みんなが好きなのは“藤吉真尋”であって私じゃない。

 藤吉はどこかで気づいていたその事実にからられてしまうことを恐ろしく思っていた。

 怖い。本当は何者でもない自分が、何も持っていないみじめな自分が。

 ――私はずっとこの世界に置き去りにされてしまうことが怖かった。

 真っ赤な夕陽に染まった廊下の向こうから力強い足音が近づいてくる。藤吉が顔を上げるとスーツを身にまとい、りん背筋せすじを伸ばした若い女性の姿が目に入った。見慣れないその姿に藤吉はこの学校の関係者ではなさそうだと思う。

 その女性の表情は使命感に燃えているように藤吉には見えた。それは校門の周りを囲んでいた記者達とは明らかに違うものだった。その様子から藤吉はその女性を警察関係者だと予想する。あやまちを許さない厳しさと誰かを救うのだという誇り高い気概きがいがその女性には漂っているようだった。

 確固たる自分を持った人だ。私とは違う、と藤吉は思う。

 けれど、ふと藤吉はこの人なら見つけてくれるのではないか、とも思った。隠し続けてきた本当の自分自身を。“藤吉真尋”を知らないこの人になら何もかも打ち明けられるのではないか、と。美ノ瀬のことも、爽町のことも、昼川のことも、全てを。

 そこに根拠はなかった。でも、それでも、今を逃せばもう二度といつわりの仮面を外すことが出来ないという予感が藤吉にはあった。だから――

「あ、あの」

 かすれた声は下校のチャイムにされ、跡形もなく太陽の去った夕風ゆうかぜの紫の中に溶けた。女性は振り返らず前だけを見て行ってしまった。

 廊下には藤吉一人が取り残された。

 藤吉は誰かにしかられたかった。あの人に叱ってほしかった。けれど、その機会は失われた。どうしようもなく、すべもなく、この世界で藤吉は一人。一人きりだった。

 ああ、なんて――と藤吉は嘆く。

「――なんて、私は運が悪い」

 チャイムの余韻よいんが耳障りな風に引き裂かれる。夏の断末魔だんまつまを告げる風。それはぞっとするほどあの音に似ていた。

 風の音にぞ驚かれぬる。

 ひどく皮肉な和歌の一節が藤吉の頭にきしむようなあの音をますます響かせていく。風は身体と心を粉微塵こなみじんに砕くように吹きつける。その無情な風から逃げるように藤吉はなけなしの力を振り絞って校舎を離れた。

 一人歩く世界は暗くて心許こころもとない。藤吉は自分自身を離さないように抱き寄せた。抱えた腕はあまりにもか細く頼りない。今にも壊れてしまいそうな藤吉に向かって吹く風に夏の名残なごりはもうなかった。

 いろなきかぜにうたれて、藤吉は無関心な街の路傍ろぼうを行く。

 街を渡る九月の風はこごえるほどに冷たかった。

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