間章 芝亀望⑧

 残照ざんしょうの光も届かないかげの中をその人影は歩いていた。

 それは夕映ゆうばえにふちられた街の輪郭の外を歩いているように芝亀しばがめの目に映る。陰の中で唇を一文字いちもんじに引き結び、身を縮めながら小さな肩を震わせるその姿はまるで遭難者のようだった。

 その姿が芝亀の中であの日の夜道の人影と重なる。薄氷を踏みしめるような不安定なその背中。それは事件によって平静さを失ったことによるもの。同級生が刺されたのだから動揺するのは当たり前だとあの時の芝亀は思っていた。けれど、聞こえてきた呟きに抱いた違和感がこの場所へと再び芝亀の足を運ばせた。

「これでようやく静かに授業が受けられる」

 どこか整合性の取れていなかったその妙な響き。

 その言葉の真意を明らかにするため、芝亀はその人影に声を掛ける。

「――ねえ、君の話を聞かせてくれる?」

 自転車に腰掛けたままそう尋ねた芝亀にその人影、律調りっちょう高校の制服を着る女子生徒は困ったような笑顔を浮かべて小さく首を傾けてみせた。

 あれ、人違いかも。

 そう芝亀が焦るほど一瞬前までの印象とその仕草からかもされた雰囲気は違うものだった。まるで別人だと思ってしまうほどに。

「記者の方ですか? すみません。見知らぬ人とは話をしないように、って学校にも親にも言われてるんです」

 一見、それは柔和にゅうわな物腰と穏やかな言葉のようだった。しかし、その言葉によって二人の間に目には見えない一線が引かれたと芝亀は思った。

 一分いちぶすきもないほど整えられた身だしなみ。芝亀のようなどこの馬の骨とも分からない人間に対しても失することのない礼儀と見蕩みとれるほど美しい流れるような所作しょさ。そして、転がる鈴の音のような愛らしい声。

 目の前の女子生徒は真面目な高校生を絵に描いたようなたたずまいをしていた。そこにとても優秀なという印象を付け加えても何も問題はないと芝亀には思える。けれど、その印象と発せられた言葉との間に存在する僅かな温度差を芝亀は肌で感じ取っていた。

 やっぱり、この子な気がする。

 昨日の稲村いなむら草尾くさおのあからさまな警戒や不審とは明らかに違う。杉江すぎえ神崎かんざきすがれるわらかどうかを見定めるような態度とも目前の女子生徒が身にまとう空気は違っていた。そのいは三日前に同級生を亡くした高校生としてはあまりにしとやか過ぎる。

 会釈をしながら通り過ぎようとする女子生徒に向かって芝亀はその不自然さを指摘するように声を発した。

随分ずいぶん、落ち着いてるんだね」

 緩やかな歩調を保つように歩く女子生徒の隣を芝亀は自転車を押しながら並ぶようについていく。徐々に点灯していく街灯が照らすのは芝亀側の道ばかりだった。女子生徒は陰の中から声を返してくる。

「事件のことをおっしゃってるなら、そうですね、学校でみんなと黙祷したからかな。少しは気持ちに整理がついたのかも」

 揺さぶりにもその女子生徒は微笑みを絶やさなかった。いや、そう努めているように芝亀には見えた。場を繋ぐために芝亀は相槌あいづち代わりの言葉を口にする。

「そっか、それは良いことだね。とすると、気持ちに整理がついた君はもう普段通りなのかな?」

 そんな何気ない言葉に突然、女子生徒は立ち止まった。芝亀が振り返るようにして窺うと、咄嗟とっさに左手を耳に添えて目をすがめている。それは頭痛か耳鳴りを嫌うような素振そぶりだった。

「どうかしたの?」

「……いえ、なんでもないです」

 ほんの一瞬、その女子生徒の表情に芝亀が声を掛ける前の苦しげな様子が顔を出したように見えた。その表情を見て陰の側へ踏み出そうとした芝亀の一歩を女子生徒の声が止める。

「どこまでついてくるつもりなんですか?」

 丁寧な口調は変わらなかったが、どういうわけかその声に先程までの余裕はなくなっているようだった。

「君から話を聞くまでかな」

 芝亀がそう答えると女子生徒は目を背けるように下を向いた。街灯が地面に芝亀と女子生徒を隔てるように光と影の境界線を引いている。その線を踏み越えることが芝亀にはまだ出来ないでいた。

「どうして、わたしなんですか? 律高りっこう生なら他にいくらでもいますよ。話が聞きたいなら校門の周りとか学校の傍に行けば良かったんじゃないですか?」

 その言葉通り、芝亀とその女子生徒の歩く道には他に誰もいないようだった。来た道と行く先に軽く視線を巡らせてから芝亀は言う。

「律調高校の生徒なら誰でもいいってわけじゃないんだよね」

 芝亀のその返答に女子生徒の小さな肩が跳ねるように震えた。誰でもいいわけじゃない、と暗がりから確かめるような呟きが芝亀に届く。女子生徒は芝亀の狙いが自分にあること、いや自分にしかないことを悟ったようだった。

「――誰です? わたしのことは誰に聞いたんですか? ……やっぱり、つつみ先生ですか?」

 頭上で鳴っていた虫の羽音はおとが電流に爆ぜたのか唐突に止んだ。同時に街灯の光がまたたく。その隙に芝亀は自転車を電柱へと立て掛けて女子生徒へと一歩を踏み込んだ。陰の中で女子生徒の左手は固まったように耳に添えられたままになっていた。

「違うよ。私は、その堤先生って人と会ったことも話したこともない」

 勢いを増した風が音を立てた。耳が痛むのか女子生徒は今や添えるどころか左手を耳に押しつけているように芝亀には見える。

「じゃあ、誰が? 込波こみなみくん? それとも美ノ瀬みのせくんですか?」

 芝亀は草尾くさおに見せてもらったクラス写真を思い浮かべる。話に出たその二人の顔と名前は知っていたが当然、話したことはない。

「その二人でもないよ。そもそも、私は君の名前も知らないんだから」

 自嘲気味に言う芝亀に女子生徒の左手がだらんと下がった。

「名前も知らない――?」

「うん。私は、君のことを何も知らない。だから、教えてほしい。君に何があったのか」

 今や女子生徒は芝亀のすぐ手の届く距離にいた。けれど、芝亀の言葉に驚いているのか女子生徒は距離が狭まっていることには気づいていないようだった。

「何も知らないなら、どうして――?」

「三日前のあの日。私、取材に来てたんだ。それで帰り道に迷ってこの辺りを通った。そしたら、律調高校の制服を着た子が一人で歩いてたんだ。その子を自転車で追い越した時にね、聞いちゃった。『これでようやく静かに授業が受けられる』って」

 女子生徒の左手の指先が僅かに震えたのが芝亀には分かった。けれど、今度は虫の羽音も電流の爆ぜる音も風の音さえも芝亀には聞こえてこなかった。

「次の日の朝にニュースで事件の被害者、昼川ひるかわくんが亡くなったって知った。それでね、この辺りで聞いた声が変に思えてきたんだ。こんな事件が起きたら授業ってやるのも受けるのも難しいんじゃないかって。だから、あの日、ここにいた子から話を聞きたいと思ったんだ」

「それだけ……?」

 女子生徒は芝亀の言葉にゆっくりと顔を上げた。その表情はまるで夜に怯える子どものようだった。

「うん。それだけ」

 芝亀の返事に揺れる瞳を伏せて女子生徒は信じられないように呟いた。

「それだけで、名前も知らないのに……」

「……あれは、あの声は君だったんだね?」

 その問いへの女子生徒の沈黙は肯定に等しかった。

「私は君のことを何も知らない。だから、話を聞かせてほしいんだ」

 吹き荒れる風の冷たさに女子生徒は身をすくませたようだった。身を縮めるように肩を丸めて震える姿は見た目の印象以上に幼く見える。それでも、懸命に何かを伝えようとその口を開こうとしていた。芝亀はそんな女子生徒の言葉をじっと待つ。

「……あ、あの、……本当に、聞いてくれますか――?」

 芝亀にとってそれは訊かれるまでもないことだった。

「話を聞くまで、どこにもいかない」

 その言葉に女子生徒の震えはほんの少し和らいだようだった。そして、女子生徒から吐息のようなかすれた声が聞こえてくる。

 告げられたその名前の響き。それは芝亀の耳にも覚えのあるものだった。確か、優等生、と杉江が呼んだ人物。それは事件の起きた二年四組の学級委員を務める生徒の名前のはずだった。

「――わたしは、真尋まひろ。……藤吉ふじよし真尋まひろです」

 そうして、その女子生徒、藤吉真尋は律調高校で、二年四組の教室で、彼女がこれまでに行ってきた全てのことを話し始めた。芝亀は藤吉の話を一度も遮ることなく最後まで黙って聞いていた。

 二年前に明るみに出た大学入試の不正。膨らんだ不安。依頼されなかった新入生挨拶。作り上げた優等生の仮面。それに気づかない級友達。掌握したはずだったクラスメイトと担任教師。爽町さわまちに奪われた学級日誌と昼川からの告白。正気ではいられなかった夏休み。美ノ瀬への印象操作と爽町に吹き込んだ嘘。込波を使った工具箱の運搬と様々な小細工の数々。昼川の死に触れても動かなかった心。その全てが堤に見透かされていたという衝撃。そして――

「わたしは運が悪い。わたしは運に見放されてるんです……」

 芝亀はただただ驚いていた。藤吉の口から明かされた事件の全貌に思わず言葉を失う。それは今、報じられているどのニュースとも違う二年四組の真実だった。けれど、真相を知った芝亀の胸に去来したのはスクープを手に入れた喜びや手応えではなかった。

 苦しみの泥を吐き出すように話す藤吉の姿に芝亀はひどく胸が締めつけられる。

 本当に誰もこの子に気がつかなかったの?

 そんな込み上げるなさをなんとか抑えて芝亀は藤吉に向き合った。

「……君のこと、分かるとは言わない。私は君ほど頭も良くないし、でも、なんだろな、私もさ、十七才の女の子だったことがあるから、その気持ちを私は知ってる気がする。

 忘れたってわけでもない。きっと慣れちゃったんだ。慣れちゃいけなかったのに。

 ……私ね、職場ではちょっと喋り方変えてるんだ。その方が変に期待されたりしないから。それってさ、やってることは君と一緒。だから、私は君のこと叱ってあげられない」

 でもね、と芝亀は言葉を続ける。

「私は君の話を聞いただけ。私には君を捕まえる権限はないし、警察に連れて行く義理も残念だけどない。でも、一つだけ言えることがある。悪かったのは運じゃない。運じゃないよ。悪いのは君の生き方をそんな風にさせたこの社会の方だよ」

 それは偽らざる芝亀の本音だった。

 藤吉は風に髪を乱されながらそんな芝亀の言葉に静かに耳を傾けているようだった。つかえていた膿を少しは吐き出せたのか、藤吉の表情はほんの少し、ほんの僅かだけ憑き物が落ちたように芝亀には見えた。

 風の中で乱れる髪を整えることもせずに藤吉はそっと呟く。

いろなきかぜってご存知ですか?」

「……ごめん、知らない」

 芝亀は自らの無知を恥じたが、藤吉は知識の有無を問題にはしなかった。

「秋に吹く風のことだそうです。堤先生が言ってました。それは色がなくて、寂しくて、つまらなくて、身に染みる不吉な風。でも、わたしにとってはどの季節の風もそうでした。わたしの目にはどの季節も色がなかった。今までも、これからもずっとそうだと思ってました」

 今はもう違うのだろうか、と芝亀は思う。そうであればいい、とも。

「もう遅いし、おうちまで送っていこうか?」

 芝亀の申し出に藤吉は首を横に振る。

「話を聞いてくれて、……ううん。わたしを見つけてくれて、ありがとうございました。……明日、警察に行きます」

「――そう。気をつけてね」

 去って行く藤吉の背中を見送って、芝亀は自転車にまたがり編集部へと戻った。

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