エピローグ 芝亀望⑨
帰り着いた『月刊
昼間、高校生に明け渡していた名残か、編集長は応接用のソファではなく編集長席に座ってどうやら仕事をしているようだった。そんな編集長に
「ただいま戻りましたー」
「おう、おつかれさん。……そういえば、前に言ってた気になることってのは解決したのか?」
どうしてこの人はこんなに鋭いんだろう、と芝亀は思う。出来ることならその話題はもう少し先送りにしておきたかった。しかし、訊かれたからには答えなければならない。
「……はい。話、聞いてきたっす」
「それでどうだ、記事に出来そうか?」
編集長は手元から視線を動かさずにそう訊いてきた。けれど、その質問への答えは芝亀の中でまだまとまっていなかった。答える言葉が見つかっていないのだから芝亀は黙るしかない。
「どうした、芝亀?」
編集長は返事のないことを
「編集長。この事件、今回の
芝亀の言葉に編集長は不機嫌そうな表情を浮かべて短い溜息を吐いた。しかし、続いた言葉は叱り飛ばすようなものではなかった。
「そりゃ、理由によるわな。くだらん理由なら却下。締め切り三日以内の刑だ」
「それはキツいっすね」
芝亀は
未だに律調高校の事件は学内での生徒同士のいじめといったトラブルが元で起きた致死事故として扱われている。けれど、もし芝亀が得た情報を基にした記事が発表されればその印象は一変してしまうに違いなかった。
実力もない駆け出し記者がこの事件を扱いきれるの?
芝亀は藤吉と別れてからそう自問し続けていた。担任の
彼等を記事にすることに芝亀は
そんな弱腰じゃゴシップ記者だってやってはいられない。でも、それなら、と芝亀は不思議に思う。私は何を迷ってるの、と。
そうして自らの尻込みの理由すら見つけられない芝亀を編集長が呼んだ。思わず出しかけた舌打ちをなんとか芝亀は口の中で留めた。
「……なんすか。今じゃないとダメっすか?」
芝亀の気のない応答に編集長からは深い溜息が返ってきた。
「お前なぁ、取材はしたけど、記事は書きません。そんで、説明もしませんってか? それで通ると思ってんのか?」
編集長の正論に返す言葉もない芝亀は立ち上がる。気乗りしないまま編集長席の前まで歩いていくと編集長の呆れたような顔が待っていた。
「ほら、説明だ、説明。黙ってても分からんぞ。社会人なら
「自分でも考えがまとまってないんすよ」
「なら、一旦、記事書いてみるのはどうだ? 書いてみてから決めればいい」
「うーん。それもなんだか……」
藤吉から話を聞くまでは芝亀はなんだかんだ言っても記事を仕上げるくらいは出来るだろうと見積もっていた。それが甘い見通しで無意識の思い上がりだったと気づいた今、軽い気持ちで記事を書く気にはなれない。
「はっきりしないヤツだな」
ガリガリと頭を掻く編集長から芝亀はうげぇと視線を逸らす。逸らした視線の先。そこに芝亀の迷いを断ち切るための答えがあった。
『一報は常に蜂の
その言葉に芝亀は自分が何に躊躇っていたのか気づくことが出来た。それは取材対象者や記事で扱うことになる人への後ろめたさや罪悪感ではなかった。芝亀が迷っていたのは書いた記事が誰に何をもたらすのか、その一点だった。
藤吉真尋の全てを記事にすれば、事件への注目は現在とは違う形で必ず増すことになる。
「――わたしを見つけてくれて、ありがとうございました」
藤吉の声が芝亀の耳に
芝亀は視線を下ろして編集長に向き直る。
「編集長」
「ん? まとまったか?」
「私、あの子を、あの子達を刺したくありません」
編集長は言葉の意味を図りかねたように口をあんぐりと開けた。
「は? 何言ってんだ?」
芝亀は編集長の頭上にある埃に
「『一報は常に蜂の
続けた芝亀にいつしか編集長は口を閉じて腕を組んでいた。
「権力に屈さず、
弱い者をさらに苦しめるのはマスメディアの、少なくとも『月刊壱蜂』の仕事じゃない。――私はあの子達に針を向けたくない。だから、この事件の記事は書きません」
芝亀がそう言い切ると編集部に沈黙が下りた。けれど、その沈黙は編集長の大きな笑い声によってすぐに破られた。
「青い! 青いねぇ! 芝亀、いつからそんなこと言うようになったんだ?」
「放っておいてください。私にも思うところぐらいあるんすよ」
「ははは、今時、新米記者でももっと達観してるぞ。……それとな、芝亀、書きたくないで済むとは思ってねぇよな?」
挑むような編集長の視線を芝亀は真っ向から受け止める。記事の代替案は既に芝亀の頭にあった。
「分かってますって。代わりの記事には当てがあるんです」
芝亀の頭には藤吉の話が思い出されていた。藤吉の苦しみの根源となった一つのニュース。完全に面白がっているらしい編集長に芝亀はその報道内容を手短に尋ねる。
「二年前にあった入試不正の問題覚えてます?」
編集長はすぐに思い当たったようだった。
「……ああ、あれか。受験シーズン過ぎたらパタっと聞かなくなったな」
「あれの続報。二年経ってどう改善されたのか、それとも何も変わってないのか、とかどうっすか?」
それは正に『月刊壱蜂』が対峙すべき権力の担い手を対象にしたもので、後追い記者である芝亀の本領を発揮することの出来る記事のはずだった。そう考えて編集長席に手を突いて前のめりに言い放った芝亀に編集長は口の端をニッと持ち上げてみせた。
「……面白そうじゃねぇか。やってみろ」
編集長に頭を下げ、芝亀は自分の席へと戻る。その途中で編集部の窓を風が揺らした。その音にそういえば、と芝亀は部内の辞書置き場へと足を向ける。本棚から目当ての辞書を引き抜くと早速、調べに掛かった。
「いり、いる、いれ、いろ、いろは、行き過ぎた。いろと、いろな、いろながし、……いろなき、色なき風、あった」
その辞書の色なき風の項目にはまず秋風と記されていた。そのすぐ後に和歌が載っている。『吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな』その
辞書には続いて語源の由来とされる解説が記されている。
〈五行思想において無色を意味する白は秋に配当される。このことから秋風を素風と呼んだものが日本の歌語に直され用いられたもの。情感を持たず、
身に染みる風、と芝亀は小さく呟く。風の音に怯えるように身を竦ませる藤吉の姿が芝亀の脳裏には焼き付いていた。
「――でも、わたしにとってはどの季節の風もそうでした。わたしの目にはどの季節も色がなかった」
その響きがまた胸に迫って芝亀の目に藤吉の前では
新古今、巻八、哀傷歌、七九七番歌。
『もの思へば色なき風もなかりけり身にしむ秋の心ならひに』
思い悩む秋の心の習わしが身体から
「色なき風もなかりけり……」
藤吉を、二年四組の生徒達を想って芝亀は窓の外を眺めた。そこでは僅かに葉の先を染めた木々が小さく秋の夜風に揺れている。鮮やかに色づく季節はもうすぐそこまでやってきているようだった。
色なき風にうたれて 秋里ひたき @akisatohitaki
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