第四章 美ノ瀬麦②

 床に落ちた赤い染み。足下に転がる千枚通し。動けない僕。震えている爽町さわまちさん。ざわめく教室。慌てるつつみ先生。運ばれていくれんちゃん。床に残った染み。ぼやけて聞こえる校内放送。教室から連れ出された僕。固まったままの爽町さん。顔色の悪いクラスメイト達。張られた非常線。廊下に点々と残る赤。遠いサイレン。そして、やがて病院からやってきた知らせ。

昼川ひるかわくんが亡くなったそうだ」

 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。そんなことあるわけない。蓮ちゃんはいつだって僕が呼べばすぐに来てくれるんだから。そうでしょ蓮ちゃん? 蓮ちゃん?

「――蓮ちゃん!」

 情けない叫びは見慣れた自室の天井に当たって弱々しく部屋に散っていった。いつの間にか美ノ瀬みのせは眠ってしまっていた。背中にまとわりついた汗の気持ち悪さに美ノ瀬は寝返りを打って体勢を変える。すると薄く開いたドアの隙間から心配そうな母の姿が見えた。

むぎ、大丈夫?」

「……うん。……ごめん、平気」

 美ノ瀬の口からは自分でも驚くほど平気ではない声が出た。 

「警察の人、今日来るって言ってたけど別な日にしてもらおうか?」

 母の言葉に美ノ瀬は先程の悪夢がただの夢ではなく現実なのだと気づく。

 やっぱり死んじゃったんだ。蓮ちゃん、もういないんだ。

 昼川が刺されてから二日。金曜日の夜から丸一日以上寝込んだ美ノ瀬は昼川の死をまだ受け入れられていない。

「……お水、ちょうだい」

 美ノ瀬はそう口にするのが精一杯だった。その返事になっていない言葉に、しかし、母は頷いて台所へと向かう。その足音を聞きながら美ノ瀬は身体を起こした。重い倦怠感けんたいかんがある。少し身体を動かすだけのことがひどく億劫おっくうだった。

 身体を起こすと机の上に置いたままにしていた英語のノートが目に入った。そのノートの表紙には昼川の書いた正体不明の動物の落書きがある。不意に一人きりの部屋に昼川の底抜けに明るい声が響くような気が美ノ瀬はした。

 お日様みたいな蓮ちゃん。昼川を想うと手の甲に何かが落ちた。それを不思議に思っているとまた落ちる。すぐにそれは止まらなくなった。なく落ちるそれが涙だと美ノ瀬が気づいたのは随分後になってからだった。

 昼過ぎに美ノ瀬宅を訪ねた刑事は中年の男性と若い女性の二人組だった。

 女性の方は刑事然としてピシッとした真面目そうな印象を美ノ瀬に抱かせる。中年の方は朗らかな笑顔で映画やドラマで見る刑事の印象とは少し違って面食らった。どちらかと言えば定食屋の店主のような雰囲気だと美ノ瀬は思う。

 刑事二人を美ノ瀬と母はリビングに通した。応接室のような気の利いたものは美ノ瀬の家にはない。小さな食事用の机を挟んで美ノ瀬と母は二人の刑事と向かい合った。

 母と昼川以外の人間とこうしてこの場で対面するのは初めてで微妙な居心地の悪さを美ノ瀬は感じる。隣に座る母もいつもと雰囲気が違うような気がした。そんな美ノ瀬母子の緊張が伝わったのか中年の刑事が柔らかく微笑む。

「少しお話を聞くだけですのであんまり緊張なさらず。世間話ぐらいのつもりで結構ですから」

 刑事の言葉に美ノ瀬の母がハアともヘエともつかない返事をする。少し部屋の空気が緩むように美ノ瀬は感じた。

昌岡まさおかです。美ノ瀬くん、調子はどうかな。もう自分で起きられる?」

 中年の刑事にそう訊かれて初めて、この刑事が自分を教室から連れ出した人だと美ノ瀬は気づいた。服に染みついた煙草の匂いも嗅いだ覚えがある。

「はい。あの時は……すみませんでした」

「謝ることはないよ。誰だって怖い思いをすれば身体が固まってしまったり、思うように動かせなくなる。つらかったね」

 それから昌岡と名乗った刑事は事件のことについて聞かせてほしいと質問を始めた。

 美ノ瀬はあの日の事を思い出しながら一つずつ刑事に話をする。

 文化祭の準備中に昼川に呼ばれて振り返ると大きな音がしたこと。それから爽町がやって来て昼川と言い争いを始めたこと。昼川と爽町はしょっちゅうそんな小さな喧嘩をしていたこと。二年四組の誰もそれをいちいち気に留めたりしていなかったこと。神崎かんざきが悲鳴を上げたこと。爽町が持っていた千枚通しが昼川の腹に刺さっていたこと。美ノ瀬は驚いて動けなかったこと。そんな風に覚えていることを出来るだけ順序立てて訊かれるままに美ノ瀬は話した。

 昼川の話をしても目に涙は溢れなかった。今朝泣けるだけ泣いたからかもしれない、と美ノ瀬は思う。

 美ノ瀬の話に刑事達は一度も驚く素振りを見せなかった。刑事達は同じ話を聞いていたからだと美ノ瀬は考える。きっとこれは担任のつつみ先生をはじめとする教員や他のクラスメイト達の証言との確認を取っているだけなんだ、と。

 話し終えた美ノ瀬に昌岡はこれからが本題だとでもいうように身を乗り出してきた。あの日のことで知っていることを美ノ瀬は全て話したつもりだった。だから、美ノ瀬には昌岡が何を知りたいのか皆目かいもく見当もつかなかった。そんな美ノ瀬に昌岡は優しい口調で尋ねてきた。

「――美ノ瀬くん。君は昼川くんにいじめを受けていたのかい?」

 よくある誤解だ、と美ノ瀬は思う。堤も去年の担任の奥堀おくぼりも美ノ瀬に同じ質問をした。

「もしお母さんや先生、スクールカウンセラーにも相談できないようなら、紹介できる人がいるんだけど」

 美ノ瀬とその母、両方の反応を窺うように昌岡は言った。

「ちょっと待ってください。僕はいじめられてなんかいません」

 美ノ瀬はその質問に毅然きぜんとありのままを答える。しかし昌岡は美ノ瀬の言葉を額面がくめん通りには受け取らなかった。

「……うん。そうだよな」

 表面上は美ノ瀬の言葉に同意しながらも昌岡は納得してはいなかった。昌岡はあわれみをたたえた優しい表情をしている。本当にいじめに遭っていたのならその慈愛の心にすがりつきたくなるのかもしれないと美ノ瀬は思う。けれど、美ノ瀬はいじめを受けていたわけではない。なにより昼川がいじめをしていたと疑われていることが美ノ瀬には我慢ならなかった。

「本当です。蓮ちゃ、昼川くんは僕をいじめてないし、認めるとか認めないとか、そういうことじゃないんです。僕らは友達でした」

 美ノ瀬の答えに突然、昌岡の横で静かに座っていた女性の刑事が口を開いた。

「それじゃあ、君は爽町さわまち雛子ひなこさんを恨んでる?」

「えっ?」

 美ノ瀬はその質問の意図が分からなかった。

建岸たてぎし

 昌岡がいさめるように短く名前を呼んだ。その刑事が建岸というのだと美ノ瀬はそこで知った。昌岡の牽制けんせいにもひるまず建岸という刑事は美ノ瀬から目を逸らさない。

 美ノ瀬は懸命に建岸からの問いの意味を考える。

 蓮ちゃんが死んだのは悲しい。まだ信じられないし信じたくない。夢ならいいとさえ思う。でも蓮ちゃんの死は現実だ。そして、悪夢でないならあれは事件じゃなくて事故だ、と美ノ瀬は思う。

 爽町さんだって本気で蓮ちゃんを殺そうと思ってたわけじゃない。あの日の爽町の震えを美ノ瀬は思い出す。だってあんなに取り乱してた。最初から刺すつもりならあんな風にはならない。だから、あれはきっと事故のはずだ。蓮ちゃんは不幸な事故で亡くなった。だから、僕が誰かを、爽町さんを恨むなんて話にはならない。なにより僕はただ蓮ちゃんの死を悲しむだけで精一杯なんだ。それ以上の余裕はない。

 美ノ瀬は昼川の死を事故だと考え、そう結論づけた。しかし、目の前の刑事は美ノ瀬の口からその答えを待っているようだった。その様子を見て美ノ瀬はなおも考える。僕は爽町さんを恨むべきなんだろうか、と。そうする事が蓮ちゃんの死をいたむことになるんだろうか。美ノ瀬には分からなかった。

 答えを出せない美ノ瀬にしびれを切らしたように建岸が問いかける。

「君は昼川ひるかわ蓮司れんじくんが亡くなってホッとしたんじゃない?」

 美ノ瀬は驚きのあまり何も言い返せなかった。

「なんてことを!」

 美ノ瀬の隣で母が怒声を上げた。母のその声で美ノ瀬は遅ればせながら建岸の言葉の意味を理解する。開いた口が塞がらなかった。この人達にはもう何も話す気が起きない。美ノ瀬はゆっくりと唇を引き結んだ。

 建岸という刑事は美ノ瀬から美ノ瀬の母に向き直って頭を下げる。

「失言でした。謝罪します」

 それから建岸は落ち着いたトーンで美ノ瀬の母をなだめにかかる。隣の昌岡も一緒になって頭を下げていた。それでも昌岡も建岸と同じ意見だということはその表情から明らかだった。美ノ瀬にはそう感じられた。

 美ノ瀬は机に視線を落として静かに怒りを抑える。あなた達が謝るべき相手はお母さんじゃない。それが分からないうちはあなた達と話すことは何もないと黙り込む。

 口を閉じた美ノ瀬にはもう何を言っても意味がないと思ったのか今度は昌岡が美ノ瀬の母に話を振った。

「お母様は何か、お子さんの異変を感じられてはいませんか?」

 無駄だ、と美ノ瀬は思う。僕と蓮ちゃんの仲をお母さんは知っている。お母さんも蓮ちゃんに親しみを持って接していた。そんなお母さんが蓮ちゃんに不利な話をするはずがない。

 昼川と過ごした時間を美ノ瀬は思い出す。昼食をおごってくれたこと。一緒に勉強をしたこと。勉強の後は部屋や廊下まで掃除していたこと。帰ってきたお母さんとも遠慮せず話をしていたこと。どんな時も蓮ちゃんは笑顔だった。

 美ノ瀬には昼川との数え切れないほどの思い出がある。

 蓮ちゃんがどんなに優しいかお母さんはよく知ってる。そんな美ノ瀬の意にたがわず母は昼川を擁護ようごした。その声音こわねには刑事達への反感が滲んでいるようだった。

「いえ、蓮司くんは優しい子でしたし、麦も蓮司くんとは仲良くしていたと思います。いじめなんて――」

 その瞬間、刑事達の目に浮かんだものを美ノ瀬は見逃さなかった。呆れ。そして侮り。美ノ瀬の母を“子どものいじめに気づけない無関心な母親”と決めつけた目。空しさに美ノ瀬の全身は支配された。

 刑事達の頭の中を美ノ瀬は想像する。

 彼等の中で美ノ瀬は“昼川蓮司にいじめられていた可哀想な生徒”でしかない。それは既に確定事項だった。そのため、いじめの話を出しても認めず刑事達に同調しない美ノ瀬とその母は憐れみや呆れの対象になってしまう。ストーリーは出来上がっていて、それに沿うような彼等好みの証言を集めたいだけ。落胆のあまり美ノ瀬からは溜息も出なかった。

 この人達は僕の話が聞きたいわけじゃない。蓮ちゃんの死の真相を知りたいわけじゃないんだ。

 どうしようもなく昼川を馬鹿にされたように美ノ瀬は感じた。冷えていく気持ちとは裏腹に熱い何かが迫り上がってくる。それは今朝の昼川を悼む悲しさとは違っていた。それは悔しさだった。

 蓮ちゃんのこと、何も知らないくせに。

 昼川という人間を勝手に決めつけられることが美ノ瀬は許せなかった。悔しさで前が見えなくなる。 

 目からこぼれた滴を見て、建岸が我が意を得たりというように頬を緩めたのが分かった。

 悔しい。

 誤解を解くことの出来ない無力さが、昼川を馬鹿にされても涙を流すことしか出来ない自分が美ノ瀬は悔しかった。熱を持った悔しさが後から後から溢れてくる。

 こんな時にそばにいて欲しいと美ノ瀬が望む人は、もうこの世のどこにもいなかった。

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