第四章 美ノ瀬麦③

 刑事達が帰った後、美ノ瀬みのせは泣き疲れて倒れ込むようにベッドに横になった。頭の中では壊れたレコーダーのように昼川ひるかわとの思い出ばかりが何度も繰り返し流れていく。それを拒むことは昼川を拒むことと同じ気がしてその流れる記憶に美ノ瀬は身を委ねている。

 初めて美ノ瀬が昼川と出会ったのは小学校四年生の時だった。身体の線が細く、引っ越しを済ませたばかりで土地勘のない美ノ瀬は上級生にからかわれることが多かった。その美ノ瀬をかばった同級生。それが昼川ひるかわ蓮司れんじだった。体格も力も美ノ瀬が敵わなかった上級生に昼川は立ち向かい撃退してみせた。

「今日から、おれたち友達な」

 幼心おさなごころに美ノ瀬はヒーローの実在を信じた。それほどそう宣言した昼川は美ノ瀬の目に輝いて見えた。

「おれ、ひるかわれんじ。おまえは?」

「みのせむぎ」

「むぎ?」

「うん」

「そっか。じゃあ、むぎ。今日からよろしくな」

「よろしく」

 けれど、美ノ瀬のヒーロー神話はあっけなく崩壊する。昼川は運動以外はからっきしだと美ノ瀬はすぐにも知ることになった。昼川はヒーローではなくただの同い年の男の子だと美ノ瀬は気づいた。それでも昼川に幻滅することはなかった。むしろ、ただの同級生が上級生を打ち負かして助けてくれたことがどれほど勇気のいる行動かに思い当たり、ますます美ノ瀬は昼川を慕うようになった。

 昼川の苦手分野では自分が助けになれるようにと美ノ瀬は人一倍勉強に精を出した。その頃から周囲にはなぜか美ノ瀬と昼川の関係性にいじめを見出す人間が現れるようになった。勉強熱心な美ノ瀬に一見不真面目な昼川が絡んでいるように見えるらしかった。しかし、そんな外野の声は美ノ瀬にとってはどうでもいいものだった。言わせておけば良い。蓮ちゃんの優しさを知っているのは僕だけ。美ノ瀬にはそんな密かな優越感もあった。

 中学に上がると昼川はぐんぐんと背が伸び、入ったサッカー部での活躍もあり美ノ瀬一人が独占出来る存在ではなくなっていった。美ノ瀬はそれを寂しく思ったが、昼川の方は美ノ瀬への態度を少しも変えることはなかった。そのことが美ノ瀬をいつも嬉しくさせた。

 同じ律調りっちょう高校に進学してからも昼川はすぐに人気を集め、男女を問わない憧れの的となっていった。その一方でいじめを疑う人間も後を絶たなかった。美ノ瀬はその誤解を放置することにした。クラスメイトにどのように思われていても痛くも痒くもなかった。しかし、教員に訊かれた際にははっきりと誤解を否定した。昼川が問題児として扱われたり停学といった処分を受けることは美ノ瀬の本意ではなかった。もし蓮ちゃんが不当な処分を受けていたら我を忘れて暴れていたかもしれない、と美ノ瀬は思う。

 記憶は現在に迫ってくる。

 二年に進級してから表立って昼川に苦言を呈する生徒が現れた。二年から同じクラスの生徒となった爽町さわまち雛子ひなこ。いつからか爽町は昼川の一挙手一投足に遠慮会釈なく口を出すようになった。そんな爽町を昼川は邪険にしていたが「俺そんなにうるさいかな?」と美ノ瀬に愚痴をこぼすこともあった。その珍しく弱気な昼川の態度に美ノ瀬は自分が必要とされているようなそんな気分を覚えた。

 毎日のように続くいさかいに似た昼川と爽町のやりとり。そこに美ノ瀬はどこか滑稽こっけい可笑おかしみを感じ、敢えて止めることもないと考えていた。今となって美ノ瀬はそのことを悔やんでいる。

 昼川に爽町が食って掛かるようになってから周囲の反応が変わったようにも美ノ瀬は感じていた。特に昼川との距離が近い同じ部活の男子生徒の様子が変わったようだった。

 爽町が昼川に近づくと周りにいる男子生徒達は前髪を触り始めたり、そわそわと落ち着かないような素振りを見せる。それが美ノ瀬には不思議だった。それは爽町から叱責されることを怖がっているようには見えず、けれど、それ以外に男子生徒達が慌てる理由が思い当たらない。

 美ノ瀬にその謎は解けなかった。夏期休暇明け、隣の席に座る藤吉ふじよしの呟きを聞くまでは。

「お似合いだよね、あの二人」

 誰にともなく発せられたその一言で謎が氷解し、合点がいく。勘の悪い美ノ瀬もようやく事態を飲み込むことが出来た。

 その藤吉の言葉を聞いていたのは美ノ瀬だけではなかった。美ノ瀬はその藤吉の言葉に稲村いなむら草尾くさおが肩をぎくりと跳ねさせるのを見た。藤吉の呟きと男子達の反応。そこまで分かれば美ノ瀬にも、もう不思議に思うところはなかった。

 昼川が人気を集めているように、爽町もまた多くの生徒に好意を向けられているようだった。言われてみれば昼川と爽町が並んだ様子は均整が取れていて見栄えがする。昼川と爽町のやりとりに滑稽さがあったのは二人が一緒にいることが、あまりにも自然でおさまりが良く見えるからだと美ノ瀬は気がついた。

 れんちゃんは爽町さんのことどう思ってるんだろう。いつしか美ノ瀬はそんな疑問を覚えた。

 一年時のバレンタインに抱えるほどのチョコを昼川は貰っていた。告白されている場面にも美ノ瀬は何度か出くわしている。けれど結局、昼川は誰とも付き合うことはなかった。

「――蓮ちゃんって好きな人とかいないの?」

 恋愛に興味がないのかと思って美ノ瀬はそう訊いたことがある。その質問に昼川の耳は少し赤くなった。美ノ瀬にはそれが意外だった。かといってどんな反応を期待していたのかは美ノ瀬自身にもよく分からなかった。

「勉強中だろ。それにたとえ麦でも本命は教えらんねぇ」

 かたくなな昼川の態度を見て美ノ瀬は鎌を掛けた。

「爽町さん?」

「違う。ここの続き教えろ」

 昼川はテキストの見出しを丸く囲んで美ノ瀬の前に押しやる。

「違うんだ? でも、いるはいるんだもんね?」

 食い下がる美ノ瀬に昼川は取り合わないつもりらしかった。

「しつこい。うっさい。続き」

 美ノ瀬もそれ以上の追求は諦めた。けれど、隠し事をされた意趣返いしゅがえしにちょっとした意地悪をする。

「そこ、間違ってるよ」

「えっ? 嘘!?」

 焦る昼川の表情に美ノ瀬は笑う。自分の知るいつもの昼川に戻ったように思って安心を覚えた。

 昼川は爽町を異性として意識していないようだった。クラスの男子達の心配は杞憂に終わりそうだと美ノ瀬は思う。爽町の恋人に昼川が立候補することは今のところないだろう。でも、と美ノ瀬は考える。

 爽町さんの方はどうなんだろう。蓮ちゃんのことをどう思っているんだろう。

「お似合いだよね、あの二人」

 教室で聞いた藤吉の言葉。背の高い昼川とスタイルの良い爽町の二人はお似合いだと美ノ瀬も思った。爽町もまた自分は昼川といることが相応ふさわしいと考えていた可能性はある。美ノ瀬はそう考えて爽町の今までの行動を思い返す。

 繰り返されお決まりとなっていった二人のやりとり。あれは不器用な爽町なりの好意の裏返しではなかったか。爽町こそ昼川の気を引きたかったのではないか。いつまでもつれない態度の昼川に対してエスカレートしていく自分の気持ちを抑えられなかったのではないか。美ノ瀬はそんな爽町の気持ちに気づくことが出来なかったと自らを省みて悔やむ。

 僕が気づいてさえいれば蓮ちゃんが命を落とすことはなかった。美ノ瀬はそうして自分を責める。

 美ノ瀬は爽町を恨まない。

 恨むとすれば自分自身。何も出来なかった無力な自分だけ。

 美ノ瀬は心配だった。自分が昼川の重荷になってはいないか。自分の存在が昼川を縛ってはいないか。そう考える一方で、昼川の中に自分の存在意義を探してもいた。だから、昼川が誰かと、爽町とでも交際を始めれば自分はもういらないのではないかとくだらない想像を何度も飽きるほどしていた。けれど、その数え切れない心配事の中に昼川の死は含まれていなかった。そんなことは夢にも思わなかった。思うはずがなかった。

 まだその死を美ノ瀬は受け入れられないでいた。

 明日、学校に行けば昼川がしれっと登校している。美ノ瀬にはそんな風に思えてならなかった。

「俺が死ぬわけないじゃん。心配性だな麦は」

 そう言って笑う昼川を美ノ瀬は容易に思い浮かべることが出来る。けれど、それでは足りない。声も表情も温もりも、何もかもが足りなかった。昼川の死とともに美ノ瀬の中から大きな何かが欠け落ちてしまっていた。

 美ノ瀬は静かに涙を流す。母に心配を掛けないように嗚咽おえつを枕にうずめて。

 なんで死んじゃったんだよ。生き返ってきてよ。お願いだよ蓮ちゃん。僕を一人にしないでよ。

 泣き疲れた美ノ瀬はそのまま昏々こんこんと深い眠りに落ちていった。

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