第四章 美ノ瀬麦④
目覚めた
学校に行かないと、と美ノ瀬は重い身体をベッドから引き剥がすようにして立ち上がる。台所に向かい水道からコップに水を注ぐと
「
「ううん、大丈夫」
昨日の朝よりは平気そうな声を出せたことに美ノ瀬は少しの安心と落胆を覚えた。お母さんを無闇に心配させたくはない。けど、
その後ろめたさに立ち向かうためにも学校に行かなくてはならないと美ノ瀬は思う。
眠りに落ちる前に浮かんだ妄想。昼川は生きていて今日も元気に登校している。そんな都合の良いことはないと分かっている。それでも美ノ瀬は自分の目で確かめたかった。そうしなければ、あの日のままどこにも動けない。それでは駄目だと美ノ瀬は自分自身に言い聞かせる。
美ノ瀬は制服に袖を通して通学鞄に詰め込まれた教科書やノートに不足がないことを点検する。そこで机の上に置いたままにしていた英語のノートが目に入った。ノートの表紙に昼川が書いた落書きがある。その落書きに美ノ瀬はゆっくりと手を添えた。一体それが何を描いたものなのか美ノ瀬は昼川から聞きそびれてしまった。
いつでも聞けるはずだったその答え。これからも続いていくはずだった昼川との時間。美ノ瀬は失った時間に思いを馳せる。
「それじゃあ、君は
不意に嫌な言葉が頭に
美ノ瀬は爽町に親近感のようなものを感じていた。きっと、と美ノ瀬は思う。爽町は昼川に好意を寄せていた。自分が昼川に憧れ、慕っていたのと同じように。昼川を好きな人に悪い人間がいるとは思いたくなかった。だからこそ、美ノ瀬は爽町を恨まない。恨んだりしない。それは刑事達の思い通りになりたくない美ノ瀬の身勝手な意地でもあった。
「麦って意外と意地っ張りで頑固だよな」
蓮ちゃんならそう言って笑うかな、と美ノ瀬は思った。
靴を履いて家を出る。母は最後まで気掛かりな表情をしていたけれど、引き留めることはしなかった。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
朝の通い慣れた通学路を進む。学校に近づくにつれてカメラやレコーダーを構えて腕章をつけた見慣れない大人が多くなってくるのに美ノ瀬は気づいた。
「
「事件について聞かせていただけますか?」
熱心に聞いて回る大人達を尻目に学校へと向かう。取材に応じる余裕は今の美ノ瀬にはなかった。家を訪ねてきた刑事達と取材を続ける大人達を頭の中で比べてみる。蓮ちゃんの
校門を抜け昇降口へと向かう。そこで美ノ瀬の歩調は少し遅くなった。
無意識に美ノ瀬は待っていた。いつもならこの辺りで後ろから掛かる声を。その声を美ノ瀬は待っていた。しかし、待ちあぐねて振り向いた視界に待ち人は映らなかった。そこに昼川はいない。いなかった。空しい期待を引きずりながら美ノ瀬は下駄箱に着いた。
小さな溜息を靴と一緒に下駄箱へと入れる。入れ替わりに出した上靴に履き替えようと視線を下ろすと閉まりきっていない下駄箱の扉に目が行った。折れた
蓮ちゃんのお気に入りのスニーカー。
「……靴、王子様が忘れてどうするんだよ」
あの日のまま置き忘れられた靴と自分とを美ノ瀬は重ねる。昼川がいなければどこにも行けないところがそっくりだと美ノ瀬は
「麦と俺が逆だったら良いのに」
「靴入れるだけでしょ。贅沢言わないの」
「ちぇっ」
靴箱の前で
教室にはいつもの半数ほどの生徒しかいないように見えた。
美ノ瀬の斜め後ろの席も空いていた。そこには誰も座っていない。そのことが美ノ瀬の胸を詰まらせる。昼川はもういない。その事実から美ノ瀬はもう目を逸らすことが出来そうになかった。
教室では誰も声を発することなく静かにしている。二年四組の教室はまるで時を止めているようだった。そんな教室の中でふと視線を感じて美ノ瀬が振り向くと
自分の座席に腰を下ろすと美ノ瀬は隣の
藤吉は窓際に立って見るともなく校庭を眺めているようだった。その横顔は
全校集会では校長の号令で全校生徒から昼川に
一人で抱えるには死というものは重すぎる。その荷の重さに美ノ瀬は今更ながらに気がついた。それでも美ノ瀬はその荷をまだもうしばらくの間は一人で抱えていたかった。
その後、教室へ戻ると授業は全て自習となった。教師達は美ノ瀬達に何も求めようとしなかった。教師達もまた昼川の死に動揺しているのかもしれない。美ノ瀬はそう感じた。
美ノ瀬の自習時間は全て昼川への
七時間目終了のチャイムが鳴って二年四組の生徒はそれぞれ下校していく。この時間まで残っていた生徒は朝のさらに半数ほどだった。他のクラスからも四組と同じようにガタガタと音が聞こえてくる。文化祭の中止に伴って今日から何日かはホームルームも省略される。そういった連絡事項も全校集会で校長から発表されていた。授業が終われば律調高校の生徒達には学校に残る理由がなかった。
そんな中で二年四組の教室に残ったのは二人。美ノ瀬と藤吉だけだった。その藤吉もすぐに荷物を持って教室から出て行く。手に持っていたのは黒い学級日誌。学級委員の藤吉はこんな日にも自分の役割を全うしようとしている。蓮ちゃんのことばかり考えてぼんやりしていた僕とは大違いだ、と美ノ瀬は思う。
誰もいなくなった教室では何も音がしない。ふと見上げるとエアコンの電源も点いていなかった。
「三日前はあんなに暑かったのにね……」
そう言って美ノ瀬は振り返る。そこには誰もいない。いつもなら昼川の笑顔がそこにはあるはずだった。
どうしてもっと話しておかなかったんだろう。美ノ瀬は下唇を噛んで込み上げそうになるものを我慢する。
学校での、教室での昼川はみんなの昼川だった。だから、美ノ瀬は敢えて昼川と校内で話をすることはなかった。遠慮していた。そして、それでも離れていくことのない昼川に小さな独占欲を抱いてもいた。
昼川はどこにいても変わらず美ノ瀬に接していたのに、美ノ瀬は昼川に対して学校と家とで態度を変えていた。校内で昼川が美ノ瀬を名前で呼ばなくなったのは自分のせいかもしれないと、ようやく美ノ瀬は気がついた。
遅すぎる後悔ばかりが募っていく。
美ノ瀬は昼川の声が聞きたかった。その声で名前を呼んでほしかった。今なら恥ずかしがらずに蓮ちゃんと呼び返せる。けれど、昼川はいない。斜め後ろの席にも、学校にも、家にも。どこを探しても、いなかった。
ねえ、蓮ちゃん。どうしたらいいのか分からないよ。だって、こんなにさよならが早いなんて思わなかった。
こらえていた涙が美ノ瀬の目に滲む。このところずっと泣いてばかりだ、と情けなくてまた涙が溢れる。
そんな美ノ瀬を
「蓮ちゃん?」
今なら幽霊を信じてもいい。蓮ちゃんならお化けでも怖くない。美ノ瀬は急いで立ち上がりクレセント錠を上げて窓を開く。
耳に風の音が抜けていった。風は秋を連れてきたらしい。
教室の窓からは夕日の落ちた校庭が見渡せる。その景色のどこにも昼川の姿は見当たらない。昼川のいない季節は美ノ瀬の目に少し
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