間章 芝亀望⑤

 律調りっちょう高校での刺傷事件から一夜明けて、芝亀しばがめは六畳一間の自宅でうなだれていた。

「記事書けって言われてもな-。零細れいさい誌の新人ゴシップ後追い三文さんもん記者に犯罪報道なんて無理だよー」

 ベッドでのたうち回りながら芝亀は不平を言い募る。

「まあ、物は試しだ。失敗してもうちの報道記事なんてどうせ誰も読みやしない」

 そんな編集長の言葉が頭によみがえって芝亀は枕に顔をうずめて動きを止めた。

 なんか、それはそれで悔しいよな。

 出来ないと自分で思うのは良くても、出来ないだろうと思われていることは悔しかった。そんな芝亀の頭に『一報は常に蜂の一刺ひとさしであれ』という『月刊壱蜂いっぽう』の誌訓が浮かんでくる。それに伴ってくつくつと芝亀の身体の底から小さなそれでいて腹に響く笑いが込み上げてきた。

 刺してやろうじゃないの。

 昨夜、振り回された恨みを返すにはある意味で絶好の機会だと寝惚ねぼけ頭の芝亀は考えた。飄々ひょうひょうとしたあの編集長の鼻を明かす瞬間を夢見るような気持ちで「情報収集」と編集長の口振りをまねる。そして、ベッドに寝そべったまま脇に置いてあったリモコンを操作してTVの電源を入れた。

 そこに映し出された番組では偶然にも律調高校の刺傷事件が扱われていた。芝亀は目をこすりながらそのニュースに意識を向ける。

〈昨日、当番組でも取り上げました律調高校での生徒同士による事件の続報です。誠に残念ながら、被害を受けた生徒が亡くなったことが分かりました。〉

 えっ、と芝亀は手に持っていたリモコンを取り落とした。耳の端でリモコンの落下音が低く広がる。

〈また、加害者の生徒はその場で逮捕されていたことも明らかになっております。暴行、傷害へと至った経緯はまだ詳しく明らかにされていません。捜査関係者や保護者からはトラブルやいじめがあった可能性が指摘されていますが、学校側からの発表では亡くなった生徒と逮捕された生徒の間に大きなトラブルはなかったということです。……今回の事件は専門家の方々にはどう受け止められているのでしょうか。お話を伺っていきましょう。――〉

 昨夜の悪い想像が現実のものとなってしまっていた。これでこの事件は傷害致死、もしくは殺人として扱われる、そんな考えが芝亀の頭を過る。芝亀はベッドから這い出し、洗面所へと向かった。給湯器の電源は入れていなかったが、出てきた水は少しぬるかった。そのぬるい水で芝亀は顔を洗う。

 鏡に映った顔は昨日見た保護者や報道陣、その誰よりもだらしなく見えた。

 零細誌の新人ゴシップ後追い三文記者に犯罪報道なんて無理。自分自身の言葉が追いかけてくるように芝亀は感じた。

 分かってたことでしょ、と芝亀は鏡に映った意志の弱そうな自分に語りかける。無理無理、無理だって、私には。私はちょっと話題性のある芸能人の熱愛とか不倫とか、ちょっとした疑惑とかを追いかけてるくらいが丁度良いんだって。それだって立派な仕事だし、記事のストックだってまだある。芝亀はそう自分に言い聞かせて、編集長へは断りを入れようと決めた。

 顔の水分を拭き取ってベッドに戻ると、律調高校のニュースはまだ続いていた。

〈――今回の件が、そうだと決まったわけではないですが、やはり、昨今いじめの悪質化や過激化は誰もが感じていることではないでしょうか。一見、普通に見える子でもその実はコミュニケーション不全に陥っていたり、感情を上手く相手に伝えられない子が増えている印象があります。教育が上手く機能していないとも言えますね。欧米では――〉

 いじめ。あの場にいた保護者によると学校側はいじめはなかったと言っていたらしいと芝亀は思い出す。そこでもう一つ、芝亀の頭に思い出されるものがあった。車に乗っていた男性。後部座席で顔を青くしていたあの担任教師らしき若い男性。その表情。

 いじめはなかった。そう言ったのはあの男性だろうか、と芝亀は思う。青白い顔でそう告げられた言葉を一体どれだけの人が信じられるだろう、と。

 あの顔色の悪さはどこから来たのかとも芝亀は考える。付き添っていた生徒が亡くなったこと、担当しているクラスで問題が起きてしまったこと、それとも、いじめがあったと知っていたからこそのあの顔色だろうか。いやいや、と芝亀はかぶりを振る。そもそも、あの男性が事件のあったクラスの担任だとも決まっていない、と。

〈――原因はどうあれ、やっぱり亡くなった子が可哀想ですね。まだ十七才、高校二年生ですよ。きっとまだたくさんやりたいことがあったでしょうに。やりきれませんね。――〉

 そのコメンテーターの言葉に芝亀はその通りだなと同意する。その時、芝亀は何かが頭の奥に引っ掛かっているような気がした。しかし、それが何か思い出せない。流している番組はそろそろ律調高校の事件についての区切りをつけようと締めに入っていた。

〈――事件を受けてショックを受けた生徒さんがたくさんいると思います。学校側や教員の皆さんにはそういった周囲の子ども達にも目を向けてあげてほしいですね。また、大人も同様に傷ついていると思います。ですから、そういった悩みを抱え込まず、誰かに打ち明けたり発散できる場をそれぞれ見つけてほしいですね。ゆっくりでいいんです。少しずつ元の日常をね、取り戻してほしいと思います。――はい。ありがとうございました。では、続いてのニュースです。――〉

 元の日常を取り戻してほしい。その言葉に芝亀は脳の回路が刺激されるように感じた。入り組んだ暗い道、そこを一人歩く律調高校の制服を着た人影が鮮明に記憶から呼び覚まされる。

「これでようやく静かに授業が受けられる」

 その人影の発したあの言葉は今思えば明らかに不自然だった。律調高校の生徒としても、今から塾に向かう高校生としてもその発言には違和感がある。

 塾の時間に間に合うという意味でなら、「授業が受けられる」という部分は理解できる。しかし、「これでようやく」はまだしも「静かに」の部分が一連の文章として整合性が取れていない。塾の時間に間に合うことと静かなこととは関係がない、と芝亀は感じる。

 塾のことではないとしたら、と芝亀は考える。もし、そうなら「これでようやく」というのは今回の律調高校での事件に掛かった言葉。そうであれば尚更なおさら、事件があった学校で普段通りに授業が受けられるはずがない。大なり小なり、何かしら不都合が生じる可能性は高い。その考えの方が芝亀には筋が通っているように思えた。

 じゃあ、あの子はどうしてあんなことを――。

 いつの間にか芝亀はそんな考えに没頭していた。

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