第五章 爽町雛子①

 照明を抑えた薄暗い部屋に窓から日光が差し込んでいる。

 その光の行方にふと爽町さわまち雛子ひなこは目をめた。室内を斜めに横切る光は空中のほこりをきらきらと反射させながら壁に模様を描いている。光と影が互い違いになった縦縞模様。窓に設けられた鉄格子によって形作られるその模様に爽町は今の身の上を改めて思い知った。

 逮捕されてから三日。その間、爽町は涙を流し続けていた。自責と後悔がひっきりなしに押し寄せ、頬に何度も涙の川が出来る。普段の張りを失って荒れた肌の上を涙はまっすぐには流れない。それはまるで幾重にも別れた運命の分岐のようだと爽町は思う。

 運命に分かれ道があるならきっと私はその中でも最悪の流れに乗ってしまった。

 昼川の身体を貫いた感触が手の内によみがえり、罪の意識に押しつぶされそうになる。

「まだ混乱してるのね。無理もないわ」

 慰めるようなその声に爽町は顔を上げる。すると目の前に座る建岸たてぎしと目が合った。建岸は正しい姿勢を保って爽町を見ている。その建岸の目に厳しさは見当たらない。取り調べや捜査ではなく心配や同情を寄せてくれているように爽町は感じた。そのことが罪悪感をさらに刺激する。

 心配されるべきなのは、同情されるべきなのは私じゃない。

 そんな爽町の心中を察したように建岸が言う。

美ノ瀬みのせくんのところへ行ってきたの。今まで苦しかったんでしょうね。涙をこらえきれないみたいだった」

 建岸のその言葉に爽町はほんの少し心が軽くなった気がした。

 守れた。守れたんだ。私は美ノ瀬くんをいじめから守ることが出来た。

 身体の中に小さな安堵あんどが広がっていく。いじめに悩んでいた同級生の男の子。美ノ瀬みのせむぎを救うことが出来た。そんな自負が爽町に芽生える。しかし、その救済の代償に支払われたものの重みに爽町は耐えかねている。

 昼川ひるかわ蓮司れんじ。爽町は美ノ瀬を助ける代わりに昼川の命を奪ってしまった。

 殺意はなかった。いじめを見過ごせなかっただけ。それが言い訳でしかないことを爽町は自覚していた。昼川の死の責任は自分にある。その死を不慮の事故だと言う資格は自分にはないのだと分かっていた。

 もっと上手くやれれば良かった。きっともっと良い方法があったはず。私は一体どこで間違えたんだろう。

 昼川を刺した瞬間がフラッシュバックする。

 あれがきっと最後の分岐点だった。あの瞬間、そうする他に道は残されていなかった。それはそのずっと前から選択を間違えていたせい。私が間違いばかりを選んだせいで昼川くんは死んでしまった。そう爽町は自身を責める。

 私はどこから間違えていたんだろう。運命の分かれ道はどこだったんだろう。

 爽町は自身が辿った最悪の運命を過去へとさかのぼる。爽町の意識が行き着いた始まりは昼川との出会いだった。

 爽町は二年生に進級してから昼川と直接の面識を得た。それ以前も学校中にとどろくサッカー部期待の一年生の名前を耳にはしていた。けれど、律調りっちょう高校では部活動か男女別の体育、または選択の芸術科目でしか他のクラスと関わる機会はない。性別も違い、部活動にも所属していない爽町に昼川との接点はなく、特別な関心もなかった。

 その状況が一変したのが二年生への進級だった。

 爽町は一年五組から二年四組へと進級した。クラスの変更を伴うその進級は当初、爽町にとってあまり望ましいものではなかった。

 進級する際に成績の良し悪しでクラスを移ることもあるとは知らされていた。ただその移動が好成績のためか、その逆によるものか学校側からの連絡はなかった。

 どうしてクラスが変わったんだろう。他の子は去年も四組だった子達ばっかり。不安になった爽町は授業中のクラスメイト達の様子に注意して過ごすようになった。

 そんな日々の中で常に爽町の意識に上る存在がいた。それが昼川蓮司だった。同じクラスであれば否応なく視界に入る人物。良くも悪くも昼川は目立つ。爽町の目から見ても、周囲のクラスメイト達の反応から考えても明らかに昼川はクラスの中心人物だった。

 だが、人気と学力とは別の話。昼川の成績はお世辞にも高いとは言えない。学力面では自身の方がまだ上位だと爽町は判断した。けれど、その所見は決して爽町を安心させる材料には成り得なかった。なぜなら、それは爽町が昼川と同程度の成績水準だと学校側から見なされている可能性でもあったからだ。

 やっぱり成績が落ちてたのか、と爽町は不安をふくらませた。

 しかし、他のクラスメイトに目を向けるとまた爽町には疑問が浮かんだ。

 授業の様子や小テストの平均点を見る限り二年四組には成績優秀者が多い。特に藤吉ふじよし真尋まひろ美ノ瀬みのせむぎにはとても敵わないという印象を爽町は持った。

 授業態度と目に見える学力としての点数。どちらを取っても二年四組が劣等生を集めたクラスだとは爽町には思えなかった。かといって成績上位者のクラスだと考えると昼川や自身の存在がネックになる。

 結局のところ、爽町はどんな意図で自身が二年四組に編成されたのか知ることは出来なかった。そもそもそんな意図などなく単に学校の都合に振り回されているのかもしれないと爽町は疑い始めていた。

 答えの出ない不安に爽町は早々に見切りをつけた。それ以上に切迫した問題を爽町は抱えていたからだ。それは人間関係によるものだった。

 一年かけて築いた友人達との関係はクラス替えであっけなく途切れてしまった。爽町同様に二年時から四組に移った他の生徒には部活や芸術科目での顔見知りがいるようだったが、そういった縁にも爽町は見放されていた。

 友人や話相手のいないクラスで過ごす時間は爽町にとって苦痛でしかなかった。けれど、爽町は一年時の友人に助けを求めることもしなかった。いや、出来なかった。新しいクラスで上手くやれていない。そんな風にかつての友人や今のクラスメイト達から思われることを恐れていた。下らない見栄が爽町自身を縛っていた。

 そうして面白くない気分のまま既に関係性の出来上がったクラスで居心地悪く過ごすのが爽町の日常になった。

 ふてくされているのが表情にも出ていたらしい。その頃の爽町にはまともに声を掛けるクラスメイトさえいなかった。会いに来ない去年のクラスメイト達に筋違いの苛立ちを覚え、そんなつまらない自分自身に嫌気が差してまた不満げな態度をとる。悪循環におちいった爽町はクラスにまだ馴染なじめずにいた。

 その状況が五月まで続いた。そのため迎えたゴールデンウィークは爽町にとって待ち焦がれた休息だった。

 目一杯、羽を伸ばそう。休日の間は学校やクラスメイト達とのしがらみを忘れることに爽町は決めた。

 クローゼットの中から外出用の私服を見繕みつくろう。さっと選んだ服に着替えると姿見すがたみでコーディネートを確認する。高校生にもなって母の趣味が色濃く残った自分が爽町は少し照れくさかったが、学校で感じる鬱屈うっくつと比べれば大したことではなかった。見下ろした服装はとびきりのおしゃれとまではいかない。けれど、らしにはそれで十分だった。爽町は自身の恰好かっこうに及第点を与えてから家を出た。

 普段の生活圏から少し離れた遠出。足を伸ばした賑わう市街を爽町は散策するように歩いた。そこにはっきりとした目的はない。当てもなく爽町は街を巡った。そうしていればいじけた気持ちもいつか発散できると爽町は期待していた。けれど、歩を重ねる度に爽町は学校での不甲斐ない自分を思い出してしまう。

 こんなとこまで来て、何してるんだろう。

 羽を伸ばしに来たはずが逃げているような気分に襲われていた。友人と離れたくらいで、新しい環境との距離を測りかねているくらいで、ねてつむじを曲げている自分。そんな気弱な自分を爽町は認めたくなかった。そうやって気を張っていたせいか不意に背後から掛けられた声に爽町は身を固くした。振り向くかどうかに迷い、躊躇ためらった。

 私、今、変じゃないよね。

 爽町は自らの装いに目を走らせる。それから眉間に力を入れた。振り向いた先に待っているのがクラスメイトだったら意気地のない顔は見せたくない。見られたくない。でも、無視するのはもっと駄目だ、そう考えて腹をくくる。

 爽町は努めて平気な表情を作るとゆっくりと振り向いた。しかし、そこで爽町を待ち受けていたのは友人でも同級生でもなかった。

 見知らぬ女性が爽町へと名刺を差し出していた。思わず爽町が名刺を受け取ると、次いでその女性は肩掛けの鞄からいくつかの雑誌を取り出して付箋ふせんのついたページを爽町に示して見せる。それはどれも爽町の知っているファッション誌だった。

「これ撮ったの私なんですよ。こういうの興味ありませんか?」

 女性が見せたのは街角で見つけたおしゃれな素人を紹介するページだった。名刺と同じ名前が確かに雑誌にも記されている。爽町が目を白黒させていると女性は首から提げたカメラを顔の横に持ち上げて小首を傾げてみせた。

「一枚だけでもいいんでお願い出来ませんか?」

「私がですか?」

 その爽町の一言に女性は大きく頷きを返した。知っている雑誌だったことと相手が女性であったことから爽町は女性の勧誘を「この場でいいなら」と受けることにした。断ることも出来たけれど、もう逃げたくないという気持ちがその時の爽町にはあった。もし怪しいところへ連れて行かれそうになったら走って逃げよう。そう密かに警戒していた爽町の条件を女性はあっさりと呑み、撮影はその場ですぐにも始まった。

「いつもこうやって撮ってるんですか?」

「街角スナップですから」

 街行く人の目にさらされることに爽町は今更ながら気後れを感じたが女性はそんな爽町に声を掛けつつ次々とシャッターを切っていく。右も左も分からないまま、あっという間に撮影は終わった。最後に映りの良いものを一緒に選ぶと女性は礼を告げて爽町の元を去って行った。その後ろ姿を見送ると爽町に疲れが押し寄せる。けれど、疲労に勝る充実がそこにはあった。

 可愛い。綺麗。おしゃれ。そんな風にストレートに褒めてもらったのはいつぶりだろう。底をついていた自己肯定感が満たされ、わだかまっていた憂鬱ゆううつが少しまぎれたように爽町は感じた。それから家路に着いた爽町の表情には笑みがあり、足取りは軽いものになっていた。

 その休日の出来事を爽町は学校では一言も漏らさなかった。自慢してるみたいになったら嫌だし、それにこれ以上クラスで浮いたら嫌われるかもしれない。そう考えて黙っていた。そんな爽町の元におずおずと近づいてきたのが杉江すぎえ神崎かんざきだった。

 二人の持つスマホの画面にはあの日の爽町が映っていた。雑誌掲載前の予告のようなカット。爽町はそれに身構える。二人の意図が分からなかった。けれど、二人の顔に良からぬ思惑おもわくは見て取れない。二人の向ける顔は屈託くったくのない笑顔のように爽町には見えた。

 始めに口を開いたのは神崎だった。

「これ見たよ。爽町さんすっごい可愛く映ってるね。前からスタイルいいなって思ってたんだ」

 ゆったりとした口調の神崎に杉江が歯切れ良く同意を示す。

「ほんとほんと。ずっと声掛けたかったんだけど迷惑かなって。ね?」

「そうそう」

 その二人の言葉に爽町はまとわりつく閉塞感が吹き払われたように感じた。

「迷惑なわけないよ! うれしい!」

 その瞬間から爽町は杉江と神崎の二人と打ち解けた。休み時間には三人で集まるようになり、その度にファッションやメイクの談義に花を咲かせた。そして、すぐにも爽町達はお互いをヒナ、スギちゃん、ゆっこと呼び合う仲になった。

 杉江と神崎のおかげで爽町にとって学校は居心地の悪い空間ではなくなっていった。三人でいると二年四組は我が家のように過ごしやすい場所だと爽町は思うようになった。嫌でしょうがなかった通学時間もいつの間にか楽しみなものに変わっていた。

 早く学校に行きたい。二人に会いたい。そんな風に爽町の意識は上向いていた。

 あの休日の出来事が、杉江と神崎との関係の変化が大きな転換点だったと今の爽町は思う。けれど、その変化が間違いであったとは思いたくない。辿りついた運命の先は考えられないほど最悪なものだった。だからといって二人と友人になったことが昼川の死に繋がっているなんて爽町は想像もしたくなかった。

「――あなたと昼川くんのことについて、もう一度話してもらえる?」

 建岸の言葉に爽町は我に返って頷く。昼川を刺してしまった理由。そもそも爽町が昼川とぶつかるようになった原因。そのきっかけを建岸は尋ねているらしかった。

 昼川と衝突するようになったきっかけを爽町はよく覚えている。それは杉江と神崎の二人と爽町が友人となってからのことだった。

「あれは――」

 追想していた記憶の続きを爽町は建岸へと語り始めた。

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